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『サイコだけど大丈夫』に見る利他主義と利己主義の対立〜漱石の『三四郎』を引き合いに出しつつ〜

難しいタイトルをつけてしまったので出落ちして終わりたい気分でいっぱいです。

えー、先日Netflixで『サイコだけど大丈夫』という韓流ドラマを見まして、その背後に何か既視感のあるテーマを感じていたんですよね。

傷ついた人たちが、葛藤の末にそれぞれ自立し、支え合い、本当の自分の人生を生きていく物語。

この背後に、昔文学で読んだあるテーマがあると思ったんですが、はっきりと思い出せなくてずっとモヤモヤしていました。

観賞後にもう一度ストーリーを追っていると、「偽善」というワードがすごく引っかかりました。

「偽善」といえば夏目漱石の『三四郎』や『こころ』などで描かれる重要なモチーフです。

なぜ漱石が偽善に関心を持っていたかといえば、漱石の生い立ちに理由があります。

簡単に説明しますと、漱石は養子なんですよね。
小さい頃に事情があって養子に出された。そして引き取られた先は老夫婦の家。

老夫婦は、自分たちの老後の世話をしてもらおうと漱石を引き取ったんです。漱石は小さい頃からそのことを敏感に感じ取っていて、老夫婦から自分に注がれる愛情(らしきもの)は「偽善」だと悩んでいたんですよね。それが創作欲の源でもあった。

『サイコだけど大丈夫』では、主人公のガンテは、幼い頃に「お前は障害者の兄の世話をさせるために産んだんだ」というようなことを母親に言われます。

これをきっかけに、ガンテは愛が何なのかわからなくなってしまいます。笑顔もぎこちなくなり、心から笑うことができなくなってしまいます。

そして自分の本当の気持ちを抑えて、兄のために生きようと割り切ります。

一方童話作家のコ・ムニョンは、狂人の母とただ傍観するだけの父を持ち、愛情を知らずに生きてきました。

そして「童話とは現実世界の残酷性と暴力性を逆説的に描いた残忍なファンタジーだ」と言い切ります。

コ・ムニョンにとっての童話は、偽善の皮を引き剥がす道具でもあったのです。

彼女は欲しいものはどんな手を使っても必ず手に入れようとします。欲しいものを全部あきらめたガンテとは対照的です。

コ・ムニョンからすれば、ガンテは嘘つきの「偽善者」に見えるのです。

そして、ガンテからすれば、コ・ムニョン は「露悪家」に見えるでしょう。

そう、私が思い出したかったテーマは、「偽善者と露悪家」でした。

本記事のサムネイルに設定したのは、『サイコだけど大丈夫』第1話の、他人を傷つけようとしたコ・ムニョンのナイフをガンテが自ら素手でつかんで阻止するシーンのイラストです。

ガンテの自己犠牲性(利他主義)とコ・ムニョンの利己主義・狂気が一枚のビジュアルとしてとてもわかりやすく表現されていますよね。

この偽善と露悪の対立と葛藤は、実際には、一人一人の人間の精神の中で繰り返し起きていると思います。

精神科医korokoroさんは、夏目漱石が『三四郎』で描いた「偽善と露悪の無限ループ」を以下のように表現しています。

自己中でいると、だんだん嫌われてくるから、相手のことを考えるようになる。でも、だんだんそれが偽善のように感じられてきて、かえってそれが嘘つきのように思えて、自分の気持ちに正直でいる方がまだマシなんじゃないか。。。本好き精神科医の死生学日記「三四郎 夏目漱石 / 私は果して偽善者か、露悪家か。」

ガンテとコ・ムニョンは、こうした現代人の自我の悩みを代弁してくれているのではないでしょうか。

『サイコだけど大丈夫』には、偽善でも善だと割り切る大人もたくさん登場します。童話出版社サンサンイサンの社長やOK精神病院の院長です。

彼らは生きるからには潔癖ではいられないことを知っています。ガンテやコ・ムニョンのように白か黒かではなく、あえてグレーゾーンを生きる大人たちです。

そんな彼らからは、雑だけどどんな時も見放さない優しさと包容力も感じました。

そして、自閉症を患うサンテは、最終的に利他主義と利己主義を無効化する絶対善として描かれます。

「ケンカするよりチューする方がいい」

うんうん。
韓国ドラマはチューがいい。

他にも、共依存と離脱など、『サイコだけど大丈夫』には心理学的・文学的に興味深いモチーフがたくさん登場します。

OSTも最高だし、いろいろとまだ書きたいことはありますが今日はここまで。

未見の方は、ぜひ見てみてください!

Netflix『サイコだけど大丈夫』

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