この世の全貌を知ろうと思ったら、少なくとも、言語化は諦めないといけないのかもしれない。言語化している間に、次から次へと時間は進む、すなわち、新しいこの世になり続けているのである。ありのままを感じ続けることしかできない。自分にとっては自分の認識がこの世というほかないのかもしれない。