パブと老人
外は雨が降っていた。
野暮用を済ませ駐車場に車を停めた後で、
まだ慣れない運転疲れに、かるく息をつく。
日もすっかり落ちた冬の夜は、
暖房無しではあっという間に冷えてしまうから
はやく家に戻らないとと思う。
―――反面、もう少しここにいたい。
そんな気持ちに駆られる。
ちょっと薄暗くて、この狭い車内に。
窓の向こうで、街の灯りが揺れていた。
人間という動物の習性だろうか。
それとも幼いころの、もう忘れてしまった習慣のせいだろうか。
狭くて暗い、けれどほんのり明かりの灯る場所に一人でいると
落ち着くというのは。
「人間は社会的動物である」とアリストテレスは言った。
しかし我々は、時折ふと、一人になりたくなることがある。
忙しない現代の中で
”つかの間の孤独”というのは
時に優美だ。
―――トントントン。雨が車の窓を打つ。
音のある静寂の中、ふと「孤独」と「寂しさ」の違いについて考えていた。
「孤独」と「寂しさ」は違う。
言い換えれば、寂しさは”ひとりぼっち”で、仲間になりたいなどその状態から脱することを望み、いわば誰かを求めているような状態。
孤独は、同じように一人だが、必ずしも他者を求めているとは限らない。
もちろん文脈によって意味の差異はあるが、概ねこんな感じだろう。
世の中には、孤独で面白い人がいる。
村上春樹のエッセイに、こんな一節があった。
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老人はウィスキー・グラスを手に取り、静かに口に運んだ。水で割らなかった。チューサーも取らなかった。
店の中はひどくにぎやかだったのだけれど、それはほとんど気にならないようだった。多くの人がやるように、カウンターにもたれたまま後ろを振り向いて、店内をぐるりと見回したりもしなかった。
そこに存在しているのは、彼と、彼の手の中にあるウィスキーだけだった。もしそのパブに彼以外にだれ一人客がいなかったとしても、おそらくまったく気にならなかったに違いない。
(中略)
ひとつだけ、確信をもって僕に断言できることがあった。それは彼が完全にくつろいでいるということだった。
こんなにくつろいでいる人を見かける機会は、長い人生のなかでもあまりないだろう――といえるくらいにくつろいでいた。
『もしも僕らの言葉がウィスキーであったなら』村上春樹 著
(pp.104ー105)
ーーーーーー
自分の内に静寂を創り出すことができる人間というのは、ナイル川にいても、スクランブル交差点にいても、いつだって魅力的だ。
寂しさは時に、人に依存心を抱かせるが、それを踏まえて乗り越えた人は、ひとつの強さを持っている。
街に生きていると、人はふと独りを求める。
ゲーテが言うように、誰一人知る人もない人ごみの中をかき分けていくときほど、強く孤独を感じるものだ。
けれど、
孤独の時間にどうやって精神的な豊かさを培ったかで、魅力には差がつく。
(齋藤孝)
孤独は必ずしも悪いことではないし、誰かのいる空間にずっといることが、孤独ではないとは限らない。
自分の指針が、北極星みたいに心にある人。そんな大人はパブにいた老人みたいに、いくら周りがにぎやかでも、森のような静けさを持っている。
忘れてしまうこともあるけれど、それでも思いついた時に、深呼吸して世界を生きたい。それを忘れないために、街に生きる我々は、束の間の一人を求めたりするのだろう。
外は、雨がまだ降っている。