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非核政策の出口戦略は何か


非核三原則導入の歴史的背景とは


 佐藤栄作総理が一九六七年十二月に非核三原則を公式発表し、日本国施政下の如何なる場所においても核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」と宣言した。

 これにより、当時米国施政下の沖縄に配備されていた兵士携行型戦術核の「デイビー・クロケット」(所謂核バズーカ)までもが撤去され、また核兵器を搭載した米艦艇の日本領海通過は認められないとして、津軽海峡や対馬海峡の中心部の領海を放棄して公海にするなどの領海法改正が為された。

 非核三原則の法的立場はあくまで国会の決議であるため、法律でもなければ条約でもない。それが、核兵器の日本配備を含む広範な裁量を認めていたはずの日米安保条約まで制限するという事態となった。しかし、当時には一応の理由があった。

 それは、冷戦下の核軍備増強を刺激しないという国際戦略であった。というのも、非核三原則が宣言される僅か五年前にキューバ危機があった。アメリカ本土と近距離にあるキューバにソ連の核兵器を配備する計画は、破滅的な核戦争の危機を人類に覚えさせていた。

 キューバとアメリカ本土の地理的距離は、日本本土とソ連の地理的距離よりも遠い。以上のような地政学上の条件下において、日本本土に核兵器が配備されないという確約を国際社会に宣言することは、想定される米ソ核戦争から日本を少しでも遠ざける効果を生じさせ、冷戦の緊張を緩めることに資すると評価された。結果、佐藤栄作氏は日本人初のノーベル平和賞を授与された。

 ここまでが非核三原則の導入戦略である。しかし、いまソ連は無く、代わりにより軍事予算に富んだ中華人民共和国が台頭した。ここで問われるべきは、非核三原則の出口戦略ではないだろうか。

 何事にも始まりと終わりがある。始まりについては闊達な議論が為されていても、終わりの在り方について政府内に何ら議論が見られないというのは歴史に学ばない愚かさであると言える。

 確かに非核三原則は冷戦下を生き残る戦略であった。では、冷戦が終わり新たな危機が生じた今、この古ぼけた非核政策をいつ、どのような形で終了させるかを考えるのが政治である。


出口戦略なき大東亜戦争の失政を繰り返すな


 安全保障政策は国民の生命財産に直結し、国家の存立にかかわる。ところが、歴史を振り返ると戦争の開始といった入口戦略は入念に立案されていたとしても、戦争の終結という出口戦略は何も考えていなかったという史実が浮き彫りになる。

 例えば、大東亜戦争はその戦争目的の理念や継戦能力について緻密な計画があったにもかかわらず、いざ戦争を初めて数年が経つと、いつどのような形で戦争を終結させるかという計画が軍部政府共に皆無であった。

 挙句、一九四五年四月には日ソ中立条約の更新はしないとソ連から通告を受けていたにもかかわらず、日本政府はソ連を仲介者にした米英との講和を望むという他人任せの外交方針を採用していた。その根拠は「ポツダム宣言にスターリンの署名が無いから仲介してくれるに違いない」という根拠なき期待であった。

 ソ連の仲介了承が得られ次第直ちに近衛文麿を特使にしてモスクワに派遣するとして広島に原爆が投下された後もソ連からの返答を待ち続け、ようやく八月八日午後十一時頃、ソ連外相モロトフが駐ソ大使佐藤尚武を呼び出して通告した内容は、仲介の引き受けではなく対日宣戦の布告であった。

 つまり、既に米ソ間で対日参戦の約束が取り交わされていたにもかかわらず、「ソ連の回答待ち」のため広島原爆は受忍すべき被害とされ、その翌日長崎に原爆を投下されるに至る。出口戦略なきまま安全保障政策を進めた国家の末路がここにあったのである。

 令和四年二月二十四日、敵基地攻撃能力を含む「あらゆる選択肢」について討議する参議院予算委員会において、白真勲議員(立憲民主党)が「選択肢に核兵器は含まれるのか」と質問したところ、岸田文雄首相は「非核三原則はわが国の国是と認識している。核兵器を使用する、保有する選択肢はない」と答弁した。続いて、三月七日の参院予算委員会では、小西洋之議員(立憲民主党)による核シェアリングについての質問に、岸田総理は「少なくとも非核三原則の『持ち込ませず』とは相いれない。核共有について政府としては考えない」と答弁した。

 いつもならば先ず「検討」が第一声にくる岸田総理だが、核兵器となれば検討しないことを即答したのである。しかし、これによってどのような国益が守られるのかという説明はなかった。

 今更説明するまでもないが、旧来の核ミサイルとは発射後、ある程度加速したら核弾頭を分離して自由落下させる。従い、成功率についての議論は差し置いて迎撃ミサイルで撃墜するミサイル防衛の手段があった。

 しかし、二〇一九年からロシアが実戦配備した新型核ミサイルは大型トラクターから即時発射が可能であり、かつ弾頭が分離せず、核爆弾の炸裂の瞬間までミサイルが推進するためマッハ二〇程度で目標に向かって加速する。よって、地球上のあらゆる技術を用いてもこれを撃墜する手段はない。発射されたならば、ものの数分で国民の死が待っているのである。

 米ソ冷戦最盛期の「爆撃機が時速数百キロで核爆弾を敵国まで運んで投下する」か「即時発射体制が取れず弾道ミサイルに燃料を注入するまで相当な時間がかかる」という大昔の技術が前提下で採決された我が国の「非核三原則」は、もはや安全保障政策上の意義を持たなくなっているのである。

日米安保条約改正で核代理報復義務の明文化を求めよ


 以上までの条件下で我が国の生存戦略を考えるのであれば、核保有、核共有、または日米安保に核報復義務を盛り込む条約改正のいずれかが急務である。

 現状は、日本が核攻撃された場合、米国は報復するかもしれないししないかもしれないという極めて不安定な状態にある。そもそも、沖縄県尖閣諸島が日米安保の適用範囲であるとの言質をバイデン政権から採るのに一苦労した現実がある。アメリカにしてみても、何故日本人のためにアメリカ国民の生命財産を危機にさらさなければならないのか国民世論がすんなりと代理報復を承諾するという見通しもない。

 もはや、他人に依存することでしか生きることができない嬰児の如き寄生型安全保障政策を続けるべき理由は無い。今こそ日本政府は、第一に米国に安保改正(即時核代理報復義務の明文化)を交渉し、断られたならば第二に日本本土の各基地に核兵器を配備する核共有を要求し、それも不可能ならば第三に核保有を宣言すべきである。

 令和四年十二月に閣議決定された所謂防衛三文書のうち「国家安全保障戦略」には次の注目すべき指針が挙げられていた。それは、今後五年以内に日本侵攻が為された場合は日本が重たる責任をもって対処し、十年以内にはより早期かつ遠方で日本への侵攻を阻止できる防衛力を強化するというものであった。

 つまり、五年以内に侵攻されれば「本土決戦止む無し」という決戦思想である。大日本帝国末期のように人的・経済的準備に加えて日本各地に大小の地下要塞を建設していた頃よりも無策であると言えよう。

 高市早苗議員による「非核二原則」(核を持ち込ませず、を削除した核共有を視野にいれた戦略)を断固として拒絶した岸田政権は、中露朝の「日本人への殺意」に結局は、昭和二十年のときの如く対戦車地雷を抱えた妊婦を徒歩で特攻させることさえも想定した「本土決戦」でしか対応できないということだろうか。

 あらゆる政策には出口がなくてはならない。それを考えて実行するのが政治という行為である。にもかかわらず、時代背景も技術も異なる時代に採択された非核三原則を令和の今も「信仰」し続ける意義とは何か。それは結局のところ、政治的思考ではなく宗教的信仰に過ぎない。「神風が吹くから日本は必ず勝つ」と唱えていた知的水準層が「非核三原則があるから日本は核攻撃されない」にそのまま横滑りしただけでのことである。岸田政権は非核三原則の出口戦略を直ちに採らなければならない。

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