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■古老は語る 温田 スナックはる 信子さん

■古老は語る 温田 スナックはる 山﨑信子さん


 『意地と二人連れの35年だった』と語るのは、温田地区で35年間スナック経営した信子さん。古老は語るの寄稿のための聞き取りを快く引き受けてくれました。ご縁を本当にありがたく感じます。


◆ スナックはる
 「スナックはる」はJR飯田線『温田』駅横の踏切を渡った旧道沿いで、温田地区によく見られる、斜面を利用し玄関を2階に配置する建築様式。カウンター式のホールの他、2階と1階に畳の座敷がある。

『当時は他に似たようなお店がなく、阿南町からもお客がやってきた』という信子さん。聞き取りをした2020年から逆算すること6年前、2014年に「スナックはる」は約35年の経営に終止符を打つ。開店は1979年(昭和54年)。当時の信子さんは38歳。『人がやらないことをやったら、世に出られるかもしれない』と思ったのがきっかけで、不意に思いついたとのこと。「はる」の命名は信用できる方から贈られたものだったという。

『始めは着物でやってたけど、酔っ払いが袖をちぎったり、帯を引っ張ったりするし、スカートだとめくられる。すぐにジーパンになったよ』

 と当時を振り返る。『工事なんかで旅の衆が給料日になるとやってきて、仲間内でケンカをよくしてたなぁ。一度、頭にきてグラスを放ったら、おでこを切っちゃって、警察が来たけれど、当時は誰も私がやったとは言わなかった。情のある時代だったのかもしれないね』当時はなかなか儲かりはしなかったものの、大変に繁盛し、席が空くのをお店の外で待つような人も出たそうだ。カラオケも置いていたため、当時は貴重で、それだけの目的で来るお客様もいた。

 お店の運営は、アルバイトを雇ってみたこともあったが、なかなか器量のいい人と出会えず、結局全部を自分一人でこなすことが多かった。『においや油が残るから、片付けはその日のうちにやっていたけど、じきに日が昇りそうになったことも多かったよ』確かにお宅はいつも本当に片付いている。今でも毎朝、全ての部屋を粘着テープのコロコロをかけて回っているとのこと。料理は全て手作りで、サキイカやピーナッツなどの乾物は置いていなかった。

 『芸能関係者もよく来たけど忘れちゃった』と笑う信子さん。北村武資と阿部理津子が来ていたというが、後で調べて驚き。北村武資さんは織物の2つの分野で人間国宝。阿部理津子さんは、昭和デュエットの女王。『もちろん貞治さん(前泰阜村長:松島貞治さん)もよく来たよ。今は歌がうまいけど、最初は下手っぴだったなぁ』と笑顔。座敷には、前松島村長はもちろん、有名人と撮影した写真がいくつも飾られている。


◆ 開業までの道のり

 「スナックはる」の開業に至る話も。『化粧品のセールスも10年くらいやってたなぁ。トップセールスだった』という信子さん。なんと子供をおぶってセールスに回ったらしい。『片手におむつ(の鞄)、片手に化粧品で、子供もおぶってたから、お情けで買ってくれた人もいたと思うよ。でも子供が保育園から帰る前には家にいるようにしてた』長女・長男・次女という3人の子供を女手ひとつで育てあげた。「スナックはる」のオープン前だけでなく、ずっと掛け持ちをしていたそうだ。夜は「スナックはる」昼間は布団づくりやカーテンづくり。人の3倍働かなきゃと思っていたという。なんで?と聞く筆者に『子を養うため。手に職をつけてやりたかった』と深い親心が。長女は高看護師、長男は理髪店経営、次女は結婚しても働いているとのこと。『長男が結婚できてないが、あとは結婚して子供も授かった』当時の子育ての苦労は想像を絶する。

『本当になんでもやったなぁ』

 と振り返る信子さん。土方(工事現場・飯炊き)から、山師(林業)までなんでもやったそうで、男勝りに働いたらしい。『土方で17メートルの穴に降りた時は、酸欠になって、あの時は危なかった。土方の飯炊きの仕事の時は、おかずは1食10円までって決まってて、鉄の弁当箱に入れて持たせるんだけど、おかずが気に入らないと、トカゲを入れて戻してくるようなのもいた』回収した弁当箱を洗おうと開けたとき、トカゲが飛び出してびっくりするそうだ。今聞けばほっこりするかもしれないが、『本当に意地の悪い衆もいたよ』と、やはり女性。当時は本当にイヤだったそうだ。

『店のホールのコンクリは自分で打ったわ』

 コンクリを打つとは、粉末のコンクリートに水を混ぜ、水平を取って平に敷き詰めることで、やってみると本当に難しい。『大工さんから大したもんだと褒められたよ』という信子さん。『女には意地と欲がある。だからできる。男はすぐ飲むし、すぐ休むからできないって大工さんから言われて、感心だった』とのこと。いくら手先が器用といっても、流石にホールにコンクリートを敷き詰めるのは大変だったそうで、通りがかりの人が助けてくれた。これは本当に嬉しかったとのこと。

『1立米のコンクリを敷いたからなぁ』

 よくよく調べ直して青くなった。「1立米」とは、1立方メートル。1メートル×1メートル×1メートルの立体です。他の表現をすると1000リットル。砂利で想定すると1600キログラム1・6トン。それはいくらなんでも大変。大工さんに大したもんだと言われて嬉しい気持ちもわかった。

 信子さんの出身は遠山郷(現:飯田市南信濃地区)。結婚を機に泰阜村に来たという。

『末っ子で甘やかされてたから、結婚後が大変だった』

 3人の子を授かったが、舅・姑との関係には苦労したそう。ある日の衝突を機に、子供を連れて飛び出したという。家は大畑地区だったが、当時、旅館があった温田に宿泊した。着の着のまま飛び出し、何も持たない4人に、着るものや住む家を世話してもらったことは忘れられない。当時、夫も後を追って来たそうだが、子供との関係が良くなく、一人で育てることを決め、離婚に踏み切る。そこから温田の恩人たちの助力もあり、家を建て、いずれ「スナックはる」の増築、更に住居の1階部分や座敷の増築をし、現在残っている形になった。『借金を返しては作りの繰り返しだった』決して楽ではなかったと思う。

 お店でどんな料理を出していたのか聞くと『予約の時は、だいたいお客の好き嫌いは覚えてるから、オードブルだったなぁ。魚はあんまり出さなくて、煮物や唐揚げ、鍋なんかを出してたよ。みんな余った料理を持ち帰るけど、鍋の汁まで持ってく人がいて、本当にいろんな人がいたよ』と笑いがこぼれる。ホールにはテーブルをいくつか配置していたが、鍋を出すと危ないので、大きな一枚のテーブルにしたそうだ。ホールには、まだその板が置いてあり、当時の賑わいが伝わってくる。ビールは毎日40リットルを用意。ほとんどがビールと日本酒で、ワインの客が一人いたとのこと。郵便局、農協の職員、銀行、警察署はもちろん、消防団が練習の度に来たそうだ。警察署夜勤の夜食もお願いされ、バイクで届けに行っていたこともあった。『だいたい焼きそばだったな』やはり仕事でやっていたことは覚えているものだ。


◆自分に返る

 今回の聞き取りで特に印象的だったことが3つある。それは冒頭の『意地と二人連れ』その次は『自分に返る』だ。「お店をやっていて印象的だったことは?」という質問に、『店を始めてから、悪い人ばっかじゃないってわかった』という信子さん。出張で来ている土方衆は給料日には気前がよく、一人がチップをくれるとつられて全員くれたという。『最高10万円くれた時は嬉しかったなぁ』きっと気持ちで商売をしていたのだと思う。欲を感じない一言だった。けれど、商売はいいことばかりでないのは当たり前。お金を払わない人、ツケを払わない人は少なくなかったという。『そういうのは、トイレに行くふりして帰るんだよな。それなのにまた平気な顔でくる』そういうときどうしたのか聞くと、

『払う気ないから、取りにも行かなかった。バチは自分に返ると思ってやってた』

 という。びっくりもしたが、深い言葉が染み入ってくる。印象的だった3つ目は、35年を振り返ってどうですか?との質問に『よくやったの一言!』これには全てがこもっている気がした。

『客の中にはおもしろい人もいて、たくさん笑わせてくれはするんだけど、心からは笑えなかった』

 結婚後、家を飛び出し、女手ひとつで3人の子供を育てあげた。『3人分働かなくちゃ』は言葉だけではない。見た目は肝っ玉母ちゃんのような信子さん、スナックをやるくらいなのでお酒が好きなのかと思えば、全くの下戸で、お酒の燗付けが大変だったそうだ。

 聞き取りを終える際「今しあわせですか?」と聞くと

『今が一番いい』

 という。楽しみはテレビとジャニーズ。きっと、35年働き続けた休みを取っているのかもしれない。泰阜村の年配者の体の若さや強さに驚いてきたが、信子さんもそのひとり。やはり若い時に苦労している人は、芯が強い。感心し、学びになった。

 意地と二人で歩いた35年。「古老は語る」ここに少しでも残ってくれたら嬉しいと思う。

聞き取り・筆者:橋本 真利 編集:橋本 宏美(左京)

【編集後記】
 実は、どうしても本文に入れたかった部分がありました。それは、筆者が整体師であり、信子さんの体をみさせてもらっている中で感じたことなのですが、『蓄積された背中の張りや包丁だこで変形した指先が、長年の努力と苦労を物語っていた』『施術するごとに若返っていく』『骨の変形は職人さんに見られるそれと近しい』『どんどん回復し、ゴミ出しに行くのがすごく楽』信子さんの体からわかる35年の努力を感じたのですが、編集と校正を妻に依頼したところ「筆者の情報はいらない」とばっさりカットされました(笑)なので、ここにわずかな抵抗をさせてもらいました。

 書き起こした文章を読んだ信子さんの目には、うっすら涙が浮かんでいたように見えました。「子供に読ませてやりたい」という信子さん。喜んでいただけたら何よりです。整体を受けるととても楽だと言ってくださいますが、それでも年齢には逆らえないところがあるようで、『つらい・えらいは生きてる証拠』と笑います。文章に添える写真のお願いをすると、部屋に飾ってある「たった一言が 人のこころを傷つける たった一言が 人のこころを暖める」を見せてくださいました。『これに気をつけてるけど、なかなかできる人がいないな』と、これも染み入る言葉でした。けれど今回は少なくとも「意地と二人づれ」「自分に返る」「よくやった!」を、記憶に刻み付けておきたいと思います。

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