年末の温もりと年明けの清々しさ、それと自分の機嫌の取り方について

毎日更新を志してnoteを始めたものの、早速出鼻をくじかれてしまった。
数日間もの間ネット環境から爪弾きに遭ってしまったので、年末はパソコンを開くこともなく、年が明けてやっと記事を書きはじめたわけだ。
ネット環境がないと言うのは、現代では中々味わえないことではないだろうか。
パソコンが使えない、不便さは確かにあったものの、携帯で最低限の連絡を
取ることはできたので、日常生活には問題なかった。
文章を書くハードルが若干上がった程度だ。

それ以上に、ネット環境から離れてよかったことがある。
内省に集中できたことだ。気が散らないからだろう。
(まあ、一番気を散らせるのは何を置いてもスマホだし、
スマホはさっさと捨てるくらいが幸せへの近道だと信じて止まないのだけれど。)


最近、自分の機嫌の取り方について、難儀していた。
自分のことがよくわからなかった。正直、今でも自分がお腹が空いているとか、
そう言った感覚が掴みづらいと感じる。
なので、ひとりでいると食事を取らないこともしばしばである。
それは、自分の特性の一つなのだと思う。
だが、その性質のために自分をなおざりにしてしまっていたのだなと、
痛感することが増えていった。これではまずいぞ。

結局は人間はひとりだし、肉親も所詮は他人である。
恋人は遥か昔に別れた自身の半身なんかではないし、友情にも賞味期限がある、
そう考えている。だが、自分という人間はどうだろう。
自分にとってどんな存在だ?

自分からは逃れようもない。客観的に眺めることはできるかもしれない。
しかし、影のようにずっとそばを離れず、どんな行いも、
心のうちも存じ上げている。
味方なら頼もしく、敵ならなんと恐ろしい存在ではないだろうか。
自分をよく扱えば、敵にはならないだろう。
しかし、自分を乱雑に扱えば・・・?
自分自身に恨みが募り、どんどんと生きづらくなってしまうんじゃないかしらん。
そう考えると、自分を適当に扱うのは負債をせっせとこさえているようなもの
だなと思う。自分は身近だからこそ、いつでもどこでも毎秒大切に扱っていける
はずだし、自分と仲良くなりさえすれば、毎秒友達といる楽しさを味わえるかも
しれない。

まぁ、そんなわけで自分がどうやったら心地よくいられるのかを考えていた年末と元旦だった。なんと言っても、他人に期待を寄せるのはしんどすぎるからね。
それで、一つ気づいたことがある。幸せだと感じる機会って意外と多い。ただ、
それは桜の花びらに似ていて、眺めていると消えて、また他の花弁に気を取られ、そしてまた・・・。とふとした一瞬に幸せを見出せるのだ。
自分の視点が重要というか、花見をしているときに、花びらを一枚ずつ数えていくのではなく、その場を楽しんで、その思い出を何度も反芻するような。
そういう心持ちが大事なのかなと。

例えば、年末の空気感が素敵だなと感じる。大団円のような、なんとなくみんながおおらかになってしまう、そこに一抹の苦味も感じる、そんな年末の空気感が好きだし、年明けの空気感も同じくらい素敵だと感じる。
昨日と地続きのはずの元旦なのに、全てが新しく、まっさらで、清々しくて。このただし、年明けはすこしばかり装飾過多で、ちょっとてれくさい。
でも、雰囲気は何度体験してもいい心持ちだ。

年明けのように清々しい気持ちは自分の胸に持ち続けて、今年は生きていきたい。
そして、自分のことをしっかりと見続けてあげたい。他人にとっては、取るに足らない人間かもしれないが、自分にとっては替の効かない唯一の人間だから。
一緒に楽しんで生きていきたい。
そのためには、自分の機嫌の取り方をしっかり習得していくべきだ。
好きな紅茶の銘柄から、好きな文字まで全て知り尽くしたいな。
自分自身に恋をするのが手っ取り早いかもしれないね。
だって、好きな人なら機嫌を取りたいし、
必死になって好みを調べ上げるはずだからね。



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