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それは悲しい出来事がきっかけになります。

政治家になろうと思ったのはなぜですか?

…とよく聴かれます。
それは悲しい出来事がきっかけになります。

2005年から2011年まで、当時私は臨床研究員として国立成育医療研究センターにおりました。
その時の上司の医師のS先生と、あまりに劣悪だった医師たちの待遇改善の運動を二人ではじめることになったのです。
医師たちが激務でどんどん辞めていき、人員補充もされないまま残った医師たちに負担が増大するという悪循環に陥ってました。
外来と入院患者さんの治療で、24時間毎日医局に寝袋持ち込んで、自宅へ帰ることもできない医師たちの職場環境を改善しなくてはと思ったのです。患者さんのためにもです。

労働改善の運動などやったことがない私とS先生でしたが、業務の後に激務の中で少ない時間で相談しながら進めていきました。

ある大物自民党国会議員さんに視察に来てもらい、病院の窮状を知ってもらえたらと思い、お願いしました。
すると当時その国会議員さんは内閣の要職にいたにもかかわらず、快諾して実際に視察に来ることになりました。
突然のことに、病院側も当時の厚労省も大慌てでしたが、残念ながら運動も政治も素人の私たちは、病院や医師たちの窮状を訴えることさえできず、上手く抑え込まれてしまいました。

そしてその後すぐに、そのS先生が52歳の若さで勤務中に突然死してしまいます。

医師の待遇改善が出来なかっただけでなく、患者さんからも後輩の医師からも頼りにされていた優しく人格者であったS先生が命を落としてしまったことが、今でも悔やまれます。

S先生との研究や一緒に立ち上げた重症心身障害児の親の会も、全てストップしてしまいました。チームは解散、私は別の科の医師に拾ってもらい仕事を続けることができました。
S先生を知る医師の皆さんからは、何とかS先生の遺志を継いでほしいという励ましを頂きましたが、たった一人の非正規の研究員の私には何の力もありません。

S先生からの最後のメールに
「橋本さんが政治家になって変えてください」
という冗談とも本気ともわからないメッセージを読み返して、泣いてばかりいられないと一念発起しました。

病院で働きながら、国立政策研究大学院大学に推薦してもらい、もう一度大学院に入学。
行政や政治の勉強をしながら、見よう見まねで手探りの政治活動をはじめました。
そして1年後に豊島区議会議員選挙に立候補して当選することができました。

立候補まで全て1人でやりました。資金も貯めて勉強もして選挙運動もしてまだ幼児の娘を育てながらと、並大抵ではありませんでしたが、命を落としてしまった医師の事を思うと頑張れたのです。

それから11年経ち現在に至ります。
選挙は地方選挙と国政選挙をあわせて6回も経験してしまいました。

古い順から
豊島区議会議員選挙当選1回
衆議院選挙東京11区落選1回
千代田区議会議員選挙落選1回
衆議院議員選挙神奈川2区落選1回
都議会議員選挙板橋選挙区落選1回
参議院議員選挙京都選挙区落選1回←今ココ

既成政党では私が訴える国民の命と健康と安全を主にした政策は受け入れてもらえず、立候補は無所属か第三極政党で、私が立候補したほとんどの政党が消滅してしまったので、政治活動は個人の力でやってまいりました。
文字通り日夜働きながら、子育てしながらの政治活動は苦しく、何度も倒れて入院をしました。
そして今は乳がんを抱えて治療中です。

S先生の口ぐせだった
「本当に困っている人の為に仕事をしたい」

この言葉が苦しかった政治活動の中での私の支えとなっていました。今も変わりません。

おかげさまで仲間もできて、皆が協力してくれるようになりました。感謝です。
選挙に出て政治課題を訴えていくというスタイルはこれからも変わらず、命の続く限り邁進していこうと思います。

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