卒論公開

おことわり

文字通りの拙論ですが、卒論(正確にはゼミ論)を公開してみることにしました。
註はnoteではうまく付けられないのと、ほとんどが書誌情報なのでここでは省略しました。外国語文献の書名などがイタリックになっていないのもnoteでどうやるかわからなかったからです。今の僕には旧稿からコピペして体裁を整えるので精一杯なのです。御容赦ください。
註も付いている大学に提出した(そして表象・メディア論系の卒業生総代に選んでいただいた)版は https://drive.google.com/file/d/1jhEcJ1dhxr6cvm-1_HgBGpYw-HYl3_eO/view?usp=sharing から見られるようにしておきます。


頻繁に引用しているマーティン・ジェイのDowncast Eyesはその後かなり経ってから『うつむく眼』の邦題で訳出されました。同様に参考文献に上がっているジャン=マリー・シェフェールの本も『なぜフィクションか?』として邦訳されています。
またこの論文で主に扱ったバタイユとデカルトの関係については、査読付き論文「ジョルジュ・バタイユにおける視覚と演劇性」『表象・メディア研究』第4号(早稲田表象・メディア論学会、2014年3月、pp.111 - 134) で改めて扱いました。そこではバタイユ『内的体験』でのデカルトへの言及にも当たっているし、デカルトのテクストもF.アルキエ校註のガルニエ版ではなく一般にデカルト研究に使われるアダン=タヌリ版で当たり直すなど手続き的にもしっかりしたものになっているはずです。ただこちらの論文ではラカンやディドロやライプニッツといった雑多な話題は捨象して、バタイユとデカルトの関係に絞った上で検討し、さらにバタイユにおける「視覚」のテーマを「演劇性」という新たなテーマと絡めて、バタイユ晩年の著作『ジル・ド・レ裁判』(僕の修士論文の主要なテーマであり、絶賛断念中の博士論文「ジョルジュ・バタイユにおける演劇性の諸相」に組み込まれる予定だった査読論文たちでも多く扱われている)にまで説き及んだものなので、未熟なりに「視覚の思想史」を志した本卒論とはだいぶ趣を異にします。

2011年度ゼミ論文(表象・メディア論系イメージ哲学ゼミ 担当教員:千葉文夫先生)

《眼》のhistoire――視覚の思想史とそのparodieとしてのGeorges Batailleの初期作品

序論:《眼》の時代、危機の時代


 この論文で扱うジョルジュ・バタイユの作品は、詳細な時期については後に第1章第2節において触れることになるが、基本的に第一次・第二次大戦間の時期ということを念頭に置いている。というのは、この時期が「近代」というものへの問い直しの時期であったとともに、様々な芸術の領域において《眼》というものがにわかに大きく問題化されていった時期でもあったからである。
 戦間期(Interwar)の時期というのはヨーロッパにおいて「危機の時代」であった。思い当たるものだけ挙げてみても、たとえばポール・ヴァレリーは1919年の『精神の危機』あたりを皮切りに『ヨーロッパ人』(1922年)、『知力の危機について』(1925年)と次々にヨーロッパ近代の「危機」を問い直している。「ところで、現代は次のような重大な質問を認めます――ヨーロッパは、あらゆる部門において、その優越を維持しうるだろうか」、「嵐は終わったばかりなのに、われわれは、あたかも嵐がこれから勃発しようとしているかのように落着かないし不安である」、「危機だって。かれはまずそう考える。一体危機とは何か。この用語を決めてかかろう。危機とはある一つの機動体制から、何か他のそれに移行することである」……。こうした「危機」の意識はヴァレリーに限ったことでもなければ、1920年代に限ったことでもない。30年代になればホルクハイマーが『社会の危機と科学の危機』(1932年)という文章を発表し、ハイデガーは有名な総長就任演説『ドイツ的大学の自己主張』(1933年)で「西欧の精神的エネルギーが終焉し、その像は破れ、命脈のつきた文化のかげが崩れおち、すべてのエネルギーは混乱におちいり、狂気に息たえんばかりだからである」と述べている。一方、ハイデガーとは対照的にナチスによる迫害を受ける側であった旧師フッサールにも『ヨーロッパ的人間性の危機と哲学』(1935年)というテクストがあり、ヨーロッパの近代が「危機」に陥っているという問題意識自体は共有されていたといってよいだろう。
 そしてこの「近代の危機」の時代は同時に、芸術の分野では近代における《眼》もまた問いに付されるようになった時代でもある。アメリカの思想史家マーティン・ジェイはその大著『ダウンキャスト・アイズ』の第四章「眼の幻滅」において第一次世界大戦の経験を経たシュルレアリスムを中心とする作家も含めた芸術家たちが《眼》を主題とした作品に取り組んでいること、またそれらの作品がそれまでの近代的な《眼》というものからは明らかに異質なものであるということを述べている。その作品としてはルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの映画『アンダルシアの犬(Un chien andalou)』(1928-29)を始めとして、エルンスト『あいまいな二桁(Two Ambiguous Figures)』(1919年)、マン・レイ『破壊の対象(Object of Destruction)』(1923年)、ダリ『縁起でもないゲーム(The Lugubrious Game)』(1929年)、ジャコメッティ『宙吊りにされたボール(Suspended Ball)』といった作品名のほか、キリコやマグリットの名前、そしてバタイユの『眼球譚』などが挙げられている。

 こうした「近代の危機」と《眼》という二つの主題について、この論文では『眼球譚』を始めとしたジョルジュ・バタイユの初期作品から見ていきたいと思う。ついては「近代」と視覚との関係を創始した思想家としてのルネ・デカルトをいわば仮想敵として取り上げ、デカルトとバタイユとの関係からその問題について考えていくことにしたい。具体的な構成としては以下のようになる。
まず第1章は「思想史における/バタイユにおける視覚」と題し、その第1節では前述したマーティン・ジェイの著作などに拠りながら「視覚の思想史」の創始者たるデカルトを取り上げ、また第2節ではミシェル・シュリヤの伝記なども参照しながらこの論文の対象とする時期のバタイユにおける《眼》や視覚の主題系について紹介する。
続いて第2章は「方法としてのパロディ」と題して、デカルトとバタイユの関係性を捉えるための言葉として「パロディ」という概念について取り扱う。第1節ではロラン・バルトやミシェル・フーコーのバタイユ論も参考にしながらバタイユにおける「隠喩」や「パロディ」の問題について考え、それを受けて第2節ではバタイユにおいてパロディという語がいかなる意味をもつのかさらに突き詰めて考察する。
さらに第3章では「デカルト、バタイユ、そして……」と題し、第1節ではデカルトとバタイユのテクストを具体的に《眼》や視覚という主題系のもとに比較検討していくことになるだろう。その中でも第2節では特に「盲目」という主題についてデカルト、バタイユから発展し、ディドロやラカンなども含めてさらに議論を進めていく。
最後の結論部では「カメラ・鏡・盲目――視覚の思想史のために」と題して、山下正男やジョナサン・クレーリーなどの著作を参照しながら、デカルトのパロディとしてのバタイユを「視覚の思想史」にいかに位置付けるべきかという問題を扱う。それは眼球をカメラ・オブスキュラとして見る思想モデルのほかに、眼球を鏡として見る思想モデルや盲目を基準として眼球を見る思想モデルを考えることで、「視覚の思想史」を単線的でないものとして捉えなおすという形をとるだろう。

ついては、これに続く第1章第1節ではまず、視覚の思想史を考える上でのデカルトの重要性というものについて、マーティン・ジェイやジョナサン・クレーリーらの言及をもとにして素描を試みることにしよう。

1.思想史における/バタイユにおける視覚


1-1.思想史としての視覚


 思想史、とりわけフランスにおけるそれを「視覚」という主題のもとで見ようとするとき、さしあたって参照したいのはアメリカの思想史家マーティン・ジェイの『ダウンキャスト・アイズ』である。ペイパーバック版にして600頁をゆうに超すこの労作は、膨大な文献を渉猟しながら「視覚」あるいは「反視覚」という問題系のもとに思想史を描き出している。プラトンに始まり、デリダやイリガレイ、レヴィナスやリオタールといった現代の思想家たちにまで及ぶこの(反)視覚の思想史において、特に重要な人物はおそらくデカルトであろう。プラトンからデカルトまでを扱った第一章「最も高貴な感覚」において言及されているのはもちろんのこと、巻末に付された索引を見ると「デカルト」や「デカルト的遠近法主義(Cartesian perspectivalism)」といった語が本書全体に通奏低音のように流れていることがわかる。あるいはそれに、ジェイがジョナサン・クレーリーを引きながらデカルトとの関係について触れている「カメラ・オブスキュラ」という語を含めてもいいかも知れない。
 ここでジェイの議論を逐一紹介していくことはしないが、デカルトが旧世代の哲学と新世代の自然科学とをつなぐような存在であること、そしてその出発点たる『宇宙論』の核となる部分は光学であったということについては知っておくべきだろう。その出版が断念されてのち『方法序説』に添えて発表された三試論も『屈折光学』が筆頭であり、続く『気象学』も太陽の問題が核であるし、またそうした仕事の根本にあるのが『幾何学』である。
 さらにデカルトにおいて重要なのは、上述のような自然科学的な著作に限らず彼の哲学体系そのものが視覚という問題と密接な関係を有しているということである。ジェイは同じ自然科学者のケプラーとデカルトを比較して、デカルトがむしろプラトン的な視覚に対する理性や精神の優位を認めていたことに触れたり、またミシェル・ドゥ・セルトーに拠って『方法序説』におけるデカルトがje dis(私は言う)という言い回しにみられる語りの側面と、vous voyez(あなたは見る)という言い回しにみられる「視覚=証明」の側面と、二つのレトリックを用いていることに触れたりすることで、デカルトの形而上学的な体系における「視覚」のあらわれについて明確化しようとしている。
 こうしたジェイによるデカルト観が最もよくあらわれているのが次の文章だろう。

かくしてデカルトは精神における「見ること」という観念の近代認識論的慣習に哲学的正当化を提供したということに責任があるだけでなく、その中では主体がその鏡像にすぎないようなアイデンティティ主義的反省の推論的伝統の創設者でもあったといえるだろう。

 同じジェイの『近代性における複数の「視の制度」』という論文でも、こうしたデカルト的な視覚観、彼の用語によれば「デカルト的遠近法主義」は、近代性における唯一の支配的な視覚モデルであり、それは科学的世界観によって支えられた「自然な」視覚経験を表現するうえでデカルト的遠近法主義が最適であったからだ、ということがいわれている。そしてデカルト的遠近法主義という「視の制度」に特有の鳥瞰的思考は、人間中心主義の特徴である超越的主観性という「疑わしい前提」と結びついていることから、哲学の分野において批判を受けてきたのだという。実際、ジェイの『ダウンキャスト・アイズ』は哲学や思想、文学といった領域でデカルト的遠近法主義に代表されるような近代において支配的な「視の制度」がいかに批判されてきたか、という軸のもとで20世紀のフランス思想史を捉えなおそうという試みに基づいた著作である。そのことは「20世紀フランス思想における視覚の凌辱(The Denigration of Vision in Twentieth-century French Thought)」という副題からも理解されるだろう。
 そうした「視覚の凌辱」としてのフランス思想史において、この論文の主たる対象であるジョルジュ・バタイユは、アンドレ・ブルトンを始めとするシュルレアリストたちと同じ章で扱われている。この通史的な著作でバタイユは第一次大戦を経た世代の思想家として、その戦争経験による視覚経験の変容を中心として、シュルレアリスト・グループの集合離散などを通してその視覚観を紹介されている。しかしジェイはあくまで通史的な記述をしているので基本的にはデカルトもバタイユもその歴史記述の中において捉えられるだけである。
 そこでこの論文においてはジェイやクレーリーのようにデカルトとバタイユそれぞれの「視覚の思想史」における位置付けを見ていくというよりはむしろ、デカルトとバタイユという二人の思想家の関係を特に「視覚」あるいは《眼》という視点から読み直していくことで、バタイユにおける《眼》や視覚のもつ意義を捉えなおすことを目標としたい。まず続く第1章第2節では具体的にバタイユの初期作品において《眼》や「視覚」に関する主題系がどのように取り扱われていたのかを、伝記的事項などとも関係付けながら見ていくことにしよう。

1-2.初期バタイユと《眼》


「視覚の思想史」という考え方は一旦脇においておくとしても、バタイユという作家=思想家はもともと《眼》という主題と密接な関係をもっている。少なくともその作品や伝記的事項から、彼の《眼》に対する偏執は多く言及されてきた。ミシェル・シュリヤによる詳細な評伝にみられるように、彼の父ジョゼフ=アリステッド・バタイユは次男ジョルジュの生まれるころには既に梅毒のため盲目となっていた。『眼球譚』の背景としてバタイユ自らが書いているように、のちに進行性麻痺によって四肢不随・狂気といった事態に落ち込んでいくこの父との思い出は、彼の著述活動や思想に大きく翳を落としている。
 バタイユは1926年に『W・C』と題される小説を書こうとして果たせなかったが、この原稿のうち破棄されなかった「ダーティ」は、のちの『空の青』(1935年執筆、1957年発表)に序章として収められることになる。また同年に受けたアドリアン・ボレル博士による「あまり正統的でない」精神分析治療を経て、バタイユは翌1927年にかけて『太陽肛門』(1931年発表)や『眼球譚』(1928年発表、ただし1941年発表版との間にはおびただしい異同がみられる)といったテクストの執筆に着手し、また『松毬の眼』関係草稿(生前未発表、1927年前後に執筆?)の着想を得る。ここに挙げたテクストは全て《眼》あるいは「視覚」といった共通の主題系を有しており、この論文の対象とする「初期バタイユ」というのも基本的にはこの時期――『眼球譚』の執筆が開始された1927年ごろから同じ『眼球譚』の第二版が発表される1941年までのおよそ14年間――を指すものとする。また同時期にはバタイユが中心となって発行されていた雑誌『ドキュマン』にも『眼』(1929年)、『腐った太陽』(1930年)、『供犠的身体毀損とヴァン・ゴッホの切られた耳』(1930年)といった、やはり《眼》あるいは「視覚」の主題系を共有する短いテクストが発表されている。
これらのテクストにあらわれる《眼》からは視力が奪われている。『太陽肛門』の太陽には見る者を「盲目にする(aveuglant)」という形容詞が付されていた。『眼』における《眼》はルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの映画『アンダルシアの犬』においてかみそりの刃によって切り裂かれる女の眼やそれを見ていた男がスプーンで抉りたいと欲望する猫の眼であり、「食人種の大好物」としての眼であり、死刑宣告を受けたクランポンが自ら摘出してみせるガラスの義眼である。そして『眼球譚』において同じ《眼》のイメージは様々な変幻を遂げながらあらわれてくる。主人公と初めての交接を終えたシモーヌが傍らに横たわるマルセルの縊死体に放尿する、その尿を浴びても閉じられない眼。スペインの太陽がさんさんと降り注ぐマドリッドの闘牛場で「太陽怪獣(monstre solaire)」たる牡牛の角に突かれたグラネロの死体、その右の眼窩からだらりと垂れ下がる眼。陵辱の末に殺された僧侶ドン・アミナドの、シモーヌの欲望に応じてエドモンド卿が鋏で切り取った、マルセルのそれと重なる眼。そしてこれらの視力という特権的能力を奪われた眼(œil)は、作中で形態や色彩、音韻の類似から玉子(œuf)や睾丸(couille)と交換可能な性質を負わされるとともに、旧版では「暗合(Coïncidences)」、新版では「回想(Réminiscences)」とそれぞれ題された第二部において、その眼こそは盲目だった父親の《眼》に通じていたという精神分析的な結論が引きだされる。――もっとも父が既に盲目=オイディプスである以上は息子のバタイユも二重のオイディプスたらざるを得ないという、単純な精神分析的言説には還元しきれない複雑な様相を呈しているわけだが。
以上のような《眼》から視力を奪うのは梅毒であったり、かみそりの刃であったり、あるいは牡牛の角であったりと様々である。しかし最初の『太陽肛門』に見られるように、バタイユにおいて「視力を奪うもの」は恐らく太陽に集約される。眼は太陽に代表される光源なしに視力を行使することはできないが、だがその光源たる太陽を直視したとき、あまりに強い光のために眼は視力を奪われてしまう。かくも強烈な太陽を直視することに対してこの時期のバタイユは異様な妄執を抱いており、『太陽肛門』と「イエスヴィアス山(Jésuve)」というイエスとヴェスヴィアス山とを掛けた造語が共通する『松毬の眼』草稿群は、そうした太陽凝視のための器官について思索を巡らしている。この傾向は1930年代末まで続くもので、1936年に『ミノトール』誌に発表されたのち1943年の『内的体験』に収録される『空の青』という短編(前掲の『空の青』とは別作品)の冒頭部にも同様の妄執を見出すことができ、またここに見られる「大空への墜落」は『腐った太陽』や『供犠的身体毀損とヴァン・ゴッホの切られた耳』にも通じる主題である。

 こうしたバタイユにおける《眼》の主題系の「視覚の思想史」における位置付けは、第3章において特にデカルトとの関係においてなされることになろうが、その前に次の第2章ではデカルトとバタイユの二者を繋ぐ方法論としての「パロディ」について考察する。

2.方法としてのパロディ


2-1.隠喩かパロディか

 バタイユ『眼球譚』をめぐる最も著名な論考の一つがロラン・バルトの『眼の隠喩』である。バルトはここで『眼球譚』をもの(objet)の表層的な連鎖運動によるはなし(histoire)と捉えているが、その連鎖運動はさらに隠喩(métaphore)と換喩(métonymie)という二つの系列に分けられる。バルトによれば隠喩には眼球・玉子・睾丸などをつなぐ「眼の隠喩」の系のほかに、作中で頻出する尿やミルクといった液体のイメージをつなぐ「涙の隠喩」という二つの系があり、この二系統の連鎖を混乱させる動きを彼は換喩と呼ぶ。
 このバルトの指摘は優れて示唆に富んだものだが、隠喩と換喩という呼称はあくまでバルトがヤコブソンなど言語学の成果に基づいて独自に与えたものである。むしろこの時期のバタイユが好んで用いた術語でこの種の連鎖運動に相当するものを挙げるとすれば、恐らくそれは「パロディ(parodie)」という語になるだろう。「世界が純粋にパロディ的なのは明らかだ」という一文で始まるのは、1927年に執筆された『太陽肛門』であった。バタイユはこの作品中で鉛は金の、空気は水の、脳は赤道の、交接は犯罪のそれぞれパロディである……といった具合に、繋辞(copule)としての動詞「存在する(être)」を駆使して事物どうしを結び付けることで、世界をパロディという関係性の中で捉えようとしている。その運動はブルジョワと労働者といった社会的な次元にまで達する。
 こうしたパロディの運動は「この時期のバタイユのさまざまなテキストのほぼすべてに侵入していると言えるのではないか」と吉田裕は述べている。吉田はバルトの言う「隠喩」の運動を補完するためにパロディという語を持ち出しつつ、さらにそうしたパロディの運動に反弁証法的な性質、さらには鏡(『マダム・エドワルダ』)・分裂増殖(1949年の同名テクスト)・双生児(『C神父』)といった後年のテクスト中にあらわれるイメージにも通じるような性質を見ている。だがここでは隠喩とパロディという二つの概念の言語学的な位置づけの微妙な差異に拘泥したり、対象となる時期以外のテクストに目を向けたりすることは避け、あくまでバルトが『眼球譚』から「隠喩」として取り出した連鎖運動が、おそらくバタイユ自身にとっては『太陽肛門』と同様の「パロディ」という術語によってあらわされる一個の方法であったということを確認するにとどめよう。
 むしろここで提起したいのは、初期バタイユにおいてパロディという連鎖運動を認めるとき、そのパロディという方法論のもとに執筆された一連のテクスト群自体もまた何らかのパロディとして見ることはできないだろうか、という問いである。さらに踏み込んで言えばそれは初期バタイユのテクストを、視覚という主題のもとで捉える限りにおいて、視覚の思想史において近代の幕開けを飾る最重要人物だったデカルトの――とりわけ『方法叙説』に付された三篇の試論のうち『屈折光学』あるいは『気象学』における彼の――「パロディ」として位置付けることはできないだろうか、という問いでもある。
 バタイユをデカルトに対置するのについては、まったく何の根拠もないわけではない。ミシェル・フーコーは『侵犯行為への序言』と題したバタイユ論の中で、バタイユの著作における「眼」という形象への執着を取り上げて次のように言っている。

バタイユがつぎつぎに、「内的体験」とか、「可能なるものの極限」とか、「喜劇的操作」とか、あるいは単に「省察」と名づけたものが、その中に集められるように思われる、この執念深い眼は何を意味するのか? それがもはや暗喩ではないことは、デカルトにおける眼差しの明瞭な知覚、ないし精神の切尖acies mentisと彼が呼んでいるあの鋭い尖端が暗喩的でないのと同断であるにちがいない。

 バタイユにおける眼を暗喩(métaphore)ではないと言い切るあたり一見するとバルトの見解と真っ向から対立するようにも思われるが、恐らくここでフーコーの言う暗喩とは、バルトが「『眼球譚』は深みを持った作品ではない」というときの「深み」につながるようなメタフォルのことである。バルトの言う「眼の隠喩」はテクスト内だけで完結しているから外部へと結び付けられる運動ではありえないし、また隠喩によって結び付けられる辞項のうちいずれかが「深み」に相当する優先性を与えられるようなこともない。
 フーコーとバルトにおけるmétaphoreという術語の用法の差異はともかく、ここで注目すべきはフーコーがバタイユにおける「眼」をデカルトにおけるそれと比較している点である。この一節を詳細に検証するにはフーコーのデカルト観なども関係してくるため容易ではないし、そもそもフーコーがいかなるデカルトの著作を念頭においてこう書いたのかははっきりしないところがある。とはいえデカルトの『屈折光学』において眼というものが大きな位置を占めているのは確かであるし、バタイユが「松毬の眼(l’œil pinéal)」と呼んで執着していた松果体についてはデカルトも『情念論』などで眼との関係で触れている。またそうしたデカルトの著作においては太陽が視覚との関係で重要な意味をもっているが、同様の太陽への言及は『気象学』にも見ることができる。
 第3章では以上に挙げたようなデカルトと初期バタイユとのテクストを「視覚」という主題のもとに読み直すことになる。そうすることで両者に類似したモティーフが頻出することを確かめるとともに、その同じモティーフがそれぞれの思想的文脈においてどのような意味を負わされて登場してくるのか比較検討し、初期バタイユのテクストにおける視覚の主題がデカルトにおけるそれのパロディになっているのではないかという問いを検証していく。ついてはその前に、バタイユにおける「パロディ」の位置付けについてもう少し検討しておく必要があるだろう。

2-2.バタイユにおけるパロディ


 バタイユにおけるパロディとは何か。それを考える前にまず、一般に修辞学の上で言われているパロディというものについて少し確認しておこう。
『プリンストン 詩と詩学の百科事典』でパロディの項を引いてみると、パロディは主として「喜劇的パロディ」と「文学的あるいは批評的パロディ」に大別されている。前者はお道化や戯作(burlesque)に近く、悲劇に対抗して笑いによるカタルシスを供給するようなものとして、他方で後者は戯画(caricature)と近い側面を有するものとして、それぞれ定義づけが試みられている。歴史的側面としてもプラトン『饗宴』やアリストテレス『詩学』を始めとして様々な作品が紹介されているが、基本的にパロディは悲劇や叙事詩に代表されるシリアスな作品との関係のもとで理解されている。要するにここでパロディという方法は、シリアスな作品から文体や語彙を借りて卑近な出来事を表現するか、シリアスな物語の登場人物、たとえば神話中の人物を卑近な言葉で語らせるかのいずれかとして捉えられているのである。
 しかしバタイユが特に『太陽肛門』で用いているパロディという語は、前述のような修辞学的「パロディ」からは大きく逸脱しているように思われる。

 世界が純粋にパロディ的なのは明らかだ。すなわち、われわれの目にする事物それぞれが別な事物のパロディであるか、あるいはまやかしの形象のもとでしか同一物でありえないということは。

 ここでバタイユの見ている世界においてはありとあらゆる事物が何かのパロディであって、『詩と詩学の百科事典』がパロディに対置しているようなオリジナルに相当するものは存在しない。むろん『詩と詩学の百科事典』も「最高のパロディは単なる模倣を超える。自分自身の足で立っており、オリジナルの猿真似を超えて面白くあるには十分なほど独立したユーモアを含んでいる」と書いてはいる。とはいえバタイユの世界にはラビュリントスにおけるアリアドネの糸のごとく、「である(être)」という動詞が張り巡らされることで全ての事物をつなげているのである。この世界においてパロディに一つの解釈を与えることがもはや不可能なのは「誰もが意識している」のだ。「万物の原理(le principe des choses)」をたとえば地球の回転運動に求めようとすれば、同様の運動をする車輪や時計やミシンまでもが万物の原理になってしまう、というように。バタイユが『太陽肛門』や『松毬の眼』において提示する異様な宇宙観や神話的な人間観といったものは明らかに科学的な「万物の原理」には従っていない。だがパロディ的な世界においては万物の原理を求めようとする態度自体が相対化されるために、自然科学的・実証主義的な「万物の原理」のオルタナティヴとしてバタイユの神秘的な原理も提起されうるのだろう。
 バタイユにおけるパロディは戯作でも戯画でもなく、強いて言い換えるなら世界そのものである。そしてその模倣すべきオリジナルをもたないパロディ的な世界を織り上げている方法、いわばバタイユにとっての「アリアドネの糸」が「である(être)」という存在動詞であるのは非常に示唆的だ。バタイユはこの「である」という動詞に繋辞(copule)としての機能をしか認めない。

だが言葉どうしの「繋辞」は肉体どうしの交接(copule)に劣らず刺激的である。そして私が自分に対して「私ハ太陽デアル」と書くとき、そこからは一個の完全なる勃起が引き起こされる。〈である〉という動詞は愛の狂熱の伝達手段だから。

 こう書くときバタイユは「繋辞」と「交接」のダブルミーニングを用いて、人間の言語活動の中であらゆる事物が別な事物と性交することによってのみ存在しうる、というような世界像を描き出している。ハイデガーを嚆矢としてサルトルなどが知らしめたように、英語のbeやフランス語のêtreといった存在動詞には日本語の「である」に当たる繋辞としての用法のほかに、同じく日本語の「がある」に相当する存在や実存をあらわす用法がある。そして後者の用法は前者の用法に隠されてしまっている、というのがハイデガーが『存在と時間』や『現象学の根本諸問題』で哲学史を念頭に置きながら暴こうとしていた問題であり、また『嘔吐』の中でロカンタンがマロニエの樹の根を前にして直面した得体の知れない吐き気の正体であった。
 ところでデカルトが『方法序説』に記した有名な命題「我思う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis.)」の「我あり」は後者の方の、いわば目的語をとらない自動詞的なêtreの用法であった。だがこうした用法は一般的な語感からは異質な響きがあるもので、たとえばポール・ヴァレリーがそのことを指摘している。ヴァレリーはこの違和感を、スタンダールが紹介している、ナポレオンが自らを奮い立たせるため口にした「その時はその時のことだ」という言葉と同様のものと捉えることで解消しようとしている。
 ヴァレリーの見解の当否はともかく、デカルトにおけるêtreが自動詞的に成立するもので「考える私(cogito)」という単独者としての存在なのに対し、バタイユにおけるそれは世界という巨大なパロディの体系を織りなす糸であって諸事物は他動詞的な「繋辞=交接」としてのêtreによって常に多数として「存在」する、ということは明記しておくに足る事項であろう。世界を支配するこのêtreによって、眼球、火山、肛門、松毬の眼といったそれぞれ一見すると無関係に思われるような諸事物は恣意的かつ暴力的に繋がれる=性交させられる。それこそがデカルトにおけるパロディの意義であった。さらに言えばこうした世界の根本命題ともいうべきêtre概念の捉え方の違いそのものが、この時期のバタイユ自身をデカルトとパロディという関係で繋ぐための、いわば一個のcopuleとして機能しているのだ。次章ではそのデカルトのパロディとしてのバタイユを、特に〈眼〉や視覚に関して見ていくことにしよう。

3.デカルト、バタイユ、そして……


3-1.デカルトとバタイユ

 バタイユとデカルトの関係については第2章第1節に挙げたフーコーなどが触れているにも関わらず、残念なことにバタイユにおけるデカルトの影響はニーチェやヘーゲルのそれのような実証的裏付けをもってはいない。マーティン・ジェイの筆法に従えばバタイユも近現代フランスの思想家の一人である以上はデカルト的な「視の制度(への反発)」からは逃れられないともいえようが、それもいささか乱暴である。
 そのジェイがバタイユとデカルトを繋ぐために挙げているデイヴィッド・ファーレル・クレルの「松毬のパラドクス:デカルトからジョルジュ・バタイユへ」という論文も、この二者を繋ぐための「本来的な繋がり、歴史的な連続性、必然性、推論」といったものは取り上げないと明言している。クレルはニーチェとハイデガーについての研究家として著名な人物らしいが、ケンブリッジ大学出版「王立哲学研究所レクチャーシリーズ」第21巻である『現代フランス哲学』に収録されたこの論述はあまりまとまったものとはいえず、デカルトとバタイユが「松毬の眼」もしくは松果腺について触れた部分の祖述がそれぞれ置かれている程度である(ジェイの言及もこの内容の当を得た要約に留まる)。前述のように二者を繋ぐ新しい見解や推論などは特にあらわれないまま、最後はカントやシェリングやハイデガー、あるいはカフカなどの名前を連想の赴くままに挙げていって結論に代えるといった具合である。
 それでもクレルが指摘する通り、デカルトという「言うなれば近代哲学の父」とバタイユという「巷間言われるポストモダン哲学の父」とがこの小さな腺に対する関心を等しく有していたのはれっきとした事実である。ここではクレルのように「中世学者としての訓練を受けた」バタイユをトマス・アクィナスに繋ぎ、そこからデカルトやアリストテレス、プラトンといった思想史に無理やり接続するような強引な道は取らず、「松毬の眼」に対する見解の差異を軸として二人の思想を「パロディ」と呼びうるような関係性のもとに捉えなおすことを目標としよう。差し当たっては「松毬の眼」についてクレルを参考に二者の見解の共通点と相違点とをさらったうえで、その議論を軸にして太陽・切開・牛・嵌め込み・盲目といった、デカルトとバタイユにおける《眼》の描写に共通するモティーフ群についても(クレルが意識的に触れることを避けた『眼球譚』や『太陽肛門』などのテクストも対象として)同様の検討を試みる。然るのち、デカルトにおけるフィクションとしての宇宙(le Monde)とバタイユにおけるパロディとしての世界(le Monde)という問題を扱うこととしたい。

 デカルトが松果腺について言及するテクストは『人間論』(1633年ごろ完成、刊行はデカルトの没後)と『情念論』(1649年)である。デカルトにおいて松果腺は「精神の主座(siège de l’âme)」と称され、その地位はクレルによれば書簡中で「人間の死後すぐに蒸発する」といった神秘主義的な域にまで高められているらしい。また松果腺は人間の脳におけるそれの方が動物の脳におけるそれよりも小さいという唯一の部位であることから、そこに人間的知性の根拠を見ようとさえしていたという。クレルは他にもこの二著作の間で脳における松果腺の位置が微妙に異なっていることや動物精気(les esprits animaux)による記憶プロセスについてなど詳述しているが、ここではバタイユとの見解の差異に関係ないので扱わない。デカルトにおいて松果腺が「精神の主座」たるのは脳において松果腺が、感覚器官から血液や神経を通じて送られてくる動物精気の動きによって松果腺が動かされれば精神は印象や知覚を受け取り、逆に精神によって松果腺が動かされればそれに伴って動かされた動物精気が神経を介して筋肉へと流れていくことで肢体が動く、といった機能を果たしていると考えられたからである。
 むしろ問題なのはなぜデカルトが脳のさまざまな部位の中で、敢えて松果腺を以上のような機能を果たす部位として選び出したのかということだ。ここで重要になってくるのは、松果腺について触れられた二つのテクストとも眼球を「二つで一対」のモデルのもとで取り扱っている点である。『人間論』より先に成立していたと推定される『屈折光学』(刊行は1637年だが、『人間論』と同時期に成立した『宇宙論』には『屈折光学』への参照を求める文言がある)において眼球はカメラ・オブスキュラと類比される単眼モデルとして扱われていたのと対照的である。というのも、眼球がカメラ・オブスキュラと同様の原理によって単独で像を結びうるのであれば、眼球は基本的に一人につき二つあるのだから脳内には二つの映像が存在することになる。ところが人間が最終的に認識する映像は一つであるから、知覚を精神へと伝える器官はその二つの映像を一つに統一するものでなければならない。そこでデカルトは脳の中で唯一「対をなさない」器官である松果腺がそれに相当する器官だと考えたのである。眼球のほか対をなす感覚器官については全て松果腺が同様の役割を果たすわけであるが、特に事例として引かれているのは『人間論』『情念論』ともに両眼の知覚の問題である。デカルトが一連の自然学的著作につながる構想を思い立った動機は、1692年3月に見られた「一つしかない太陽が複数見える」という幻日現象について説明を求められたからだといわれるが、なるほど彼の中には複数のものを一つに還元したいという強い志向があったように思われる。これは第2章第2節で触れた、デカルトのje suisにおいて存在動詞が二つ以上のものを結ぶ繋辞としてではなく、あくまで単独のcogitoの存在をあらわすため自動詞的に用いられている、という事項とも関係づけて考えることが可能だろう。
 翻ってバタイユのいう「松毬の眼」について考えてみると、なるほどこの小器官を視覚と関連付けて捉えようとする態度こそデカルトに共通するものの、そこに付与される意味付けはまるで異なっている。その凶暴ともいえる意味付けはそのままデカルト的な(ということはすなわち近代科学的な)宇宙観に対する「純粋にパロディ的」な世界観へと通じているのだけれど、まずはバタイユにおける「松毬の眼」について概観しておこう。
 第1章第2節で触れたように、バタイユにおける「松毬の眼」を一言で要約してしまえば「太陽凝視のための器官」である。ガリマール社版の全集に収められた彼の『松毬の眼』関係草稿群は『太陽肛門』から『眼球譚』までの間に執筆されたと考えられているが、その中でも特にまとまった内容を示しているのは仮に「松毬の眼(1)」と表題を付けられた、10節からなるテクストである。他に(2)から(4)までの番号を振られた同タイトルの関連草稿と、「イエスヴィアス山」という表題を付されたテクストとが同じ草稿群に含まれている。クレルの引用している個所を中心にこれらの草稿群の大枠をまとめれば以下のようになる。
『太陽肛門』執筆と前後してバタイユは「人間の体験の限界から抜け出したい」という願望から、頭蓋の頂に太陽を凝視するための眼球を持つことを夢想する。その眼球とは松果腺が肛門から排泄物が、火山から溶岩が噴出するように「ついに頭蓋骨を貫いて実際に出現」したものである。それはデカルトと同様に動物と人間とを分かつものとして要請されるのだが、こちらは動物と人間が二つで一対の眼をもつことで共有する水平的な視覚を脱して、むしろ植物の直立形態に擬せられるような垂直的な視覚を獲得するというかたちをとる。その垂直的な視覚というのが頭蓋を突き破ってあらわれる「松毬の眼」であることは無論のことである。
 バタイユにおける「松毬の眼」による太陽凝視はそのまま太陽との同一化である。彼は『太陽肛門』で「私ハ太陽デアル」と高らかに謳い、その太陽は人を盲目にするようなものであったわけだが、ここではもはや盲目にされた《眼》と盲目にする太陽との主客の区別すら交換可能なものとされてしまう。そして太陽と《私》とを繋ぐ「松毬の眼」は「存在」そのものでさえある。さらにいえばバタイユにおいて「松毬の眼」を発想する源となったのは1927年にロンドンで見た猿の肛門であったわけだが、それは「松毬の眼(1)」において生き埋めにされた手長猿の肛門としてあらわれる。その肛門と太陽との関係が「臭い穴と太陽とのささやかな交接(copulation)」と表現されるとき、猿の肛門=松毬の眼は私と太陽とを繋ぐための交接=繋辞(copule)としての地位が与えられる。第2章第2節で述べたようにバタイユの世界において万物が別な何かのパロディであり、存在は常に二つ以上のものを対として繋ぐ繋辞というかたちでしかありえないとしたら、その「存在」の筆頭は太陽と《私》とを繋ぐ「松毬の眼」であろう。言い換えれば、人間の肉体における繋辞すなわち「存在」の顕現こそが松果腺なのである。
 さて、バタイユにおいて《私》と繋がれる太陽はその私を「盲目にする」ものである。なるほど小学校の理科の時間、望遠鏡の使い方を習うときに何より注意されるのはレンズを通して太陽を直視してはいけない、ということであった。ところがその望遠鏡の草創期、それこそガリレイの同時代人として教会権力の弾圧に怯えていたデカルトは、なるほど『屈折光学』の中で望遠鏡の作り方について仔細に述べているにもかかわらず、小学校の先生でも教えてくれるような太陽直視の危険性について一言も述べていない。デカルトにおける太陽は視覚を可能にする光源としての役割しか認められていないのだ。
 こうした太陽の事例をはじめとして、デカルトとバタイユは《眼》や視覚について共通の題材を取り上げているにもかかわらず、そこに負わされている意味は「視覚を可能にする太陽」と「視力を奪う太陽」のように対照的である。
たとえばデカルトとバタイユは眼球の切開、解剖や牛についての関心を共有している。デカルトは『屈折光学』を書くために人間も含め様々な動物の眼をえぐり出し、切開し、解剖している。特に第五講の、デカルト的単眼モデルを支えるカメラ・オブスキュラと眼球の原理を類比する部分では、彼はそのレンズに代えるため「すなわち死んだばかりの人の眼、がなければ牛かなにかほかの大型の動物の眼をとり、これを包んでいる三重の膜をうまく底の方に向かって切り、内部にある体液Mが、そのために垂れたりしないようにして、大部分をむき出しにする。次にそれを陽が透けるほど薄いなにか白いもの、たとえば一枚の紙か卵の殻RSTでふたたび覆い、この眼をわざと窓の穴、Zにはめこ」むのだ。デカルトは『気象学』の中でも第七講で「牡牛の目」という由来のはっきりしない語を用いており、時代背景も含め彼の中には牛の眼について特別な関心があったのであろう。
バタイユも眼球、とりわけ牛のそれの切開については異様な関心を示している。『松毬の眼』関連草稿の中にも「牡牛の供犠」について触れているし、『ドキュマン』誌に発表したエッセイ「眼」の中では映画『アンダルシアの犬』における眼球切開シーンについて長い註を付してまで執拗に触れている。バタイユはこの映画で切開される眼球(観客にはモンタージュによって女性のそれに見える)を驢馬のものとしているが、マーティン・ジェイは同じ映画に触れて「要するに、『アンダルシアの犬』における挑発的な牛/女性の眼の切開は、デカルトの『屈折光学』における〈牛の眼〉(l’œil de bœuf)の静謐な切開からはまったく程遠いのだ」と書いている。そこで切断された眼が本当に驢馬のものであったかそれともジェイの言うように実は牛のものであったか、これがもしバタイユの記憶違いであったとしたらそれは精神分析的に意義深いものであろうが、ともかく次のようなことは言えるに違いない。すなわち、バタイユは牛あるいはその他の動物の眼球の切開と人間の眼球の切開とを重ね合わせる、という主題への関心をデカルトと共有しているが、デカルトにおけるそれが牛の眼球と人間の眼球の構造的な類比によって視覚のシステムを解明するという「静謐な」目的を有していたのに対し、バタイユにおけるそれは牛あるいは驢馬の眼球が切開される様がそのままモンタージュの魔力により女性の眼が切開されるという「挑発的な」イメージへと連鎖させられている、と。
そしてバタイユにおける牛と眼球との関係は『眼球譚』において、さらにデカルトとは対照的な方向へと発展していく。バタイユ自身が1922年5月17日にマドリッドの闘牛場で目撃した闘牛士グラネロの死亡事故。その記憶が『松毬の眼』関連草稿の一つ「イエスヴィアス山」での記述に従えば1928年ごろに「眼球が決定的に闘牛のイメージと結びついてあらわれる」こととなり、『眼球譚』のあの有名な場面になったのである。そこではもはや人間が牛の眼球をえぐり出すのではなく、牛が人間の眼球をえぐり出すのだ。そしてグラネロが牛に眼球をえぐられる瞬間、その前に殺された牛の睾丸はシモーヌの膣に挿入される。この睾丸は『眼球譚』という小説がもつ特異な――バルトが隠喩と換喩と呼び、この論文では仮にパロディと総称しているような――イメージの連鎖運動によって、後半で殺された僧侶ドン・アミナドから摘出されて、やはりシモーヌの膣内に挿入される眼球と繋げられている。前半で狂死した少女マルセルの眼と重なって「私」を見つめてくるその眼球は、なるほどデカルトがカメラ・オブスキュラの「窓の穴、Zにはめこ」んだ牛もしくは人間の眼球と重なってくる。だが尿=涙にまみれたそれはもはやデカルトの言うような主体としての〈私〉が何らかの客体をよりよく見つめるための《眼》ではなく、こちらを見つめてくることで「私」を客体へと転じさせる《眼》なのである。
かくしてパロディという原理のもとで終わりなき連鎖運動を続けるバタイユの世界は、それ自体がデカルトの宇宙観に対するパロディとして位置付けることができよう。実際、『太陽肛門』や『松毬の眼』でバタイユは人間の直立した姿勢や「松毬の眼」の噴出を惑星の運行や潮汐などの運動と「幾何学的」に関連付けて論じるのであるが、その惑星の運行や潮汐を最初に幾何学的に還元して論じてみせたのは他ならぬ『宇宙論』におけるデカルトであった。しかし、いみじくもクレルも指摘しているように、デカルトの『宇宙論』自体もまたその時代の公式の宇宙観に対するフィクションの宇宙として描き出されたものであった。なるほど、フィクションという形式も実際上は教会権力による弾圧(それこそガリレイの地動説が弾圧を受けたとの報をうけてデカルトは、同様の地動説に基づいて惑星の運行を幾何学的に記述している『宇宙論』の公表をためらったのだから)を恐れての苦肉の策だったのだろう。だがフィクションという形式を与えられたからこそ教会権力の公式の宇宙観を相対化し、揺るがすことができたともいえる。それはバタイユの世界観がやはりパロディという形式を与えられたがゆえに、近代の自然科学の公式の世界観であったデカルト的宇宙を揺るがしえているということに通じる。そうした共通性、関係性をも「パロディ」という関係性のもとで捉えてしまってもいいかも知れない。

 以上のように「パロディ」という関係性でデカルトとバタイユを捉えたとき、最後に触れておきたいのが「盲目」の問題である。デカルトは『屈折光学』において盲人の例を挙げているが、それは視覚と触覚との共通性を示すためのものにすぎない。このことを突き詰めて考えていけば、視覚を喪失した盲人にも触覚を通じて或る程度まで知覚可能であるのならばデカルトにおける視覚空間はどれほどの独立性、自立性をもちうるのかが疑問符に付されることになる。こうした盲目の捉え方について、次節ではバタイユはもちろんのこと、デカルトの盲人観を批判したディドロや、あるいはバタイユとの影響関係が推察されるジャック・ラカンの観点も含めて、もう少しだけ確認しておくことにしたい。

3-2.太陽と盲目あるいは第三の眼


 前節の最後に述べた通り、ここではデカルトの盲人観にディドロ、バタイユ、ラカンといった思想家たちの盲人観を対比させることが主たる目的となる。まずデカルトにおける盲目の捉え方に対して批判的な見解を有していたディドロの『盲人に関する手紙』について触れたのち、デカルトに対してはもちろんディドロに対しても批判的な見解を述べているラカンの第11セミネール『精神分析の四基本概念』を紹介する。またバタイユの同時代人であったラカンは同じセミネールの中で「太陽と眼」の主題についても少なからずバタイユに通じるような見解をとっているので、それについても簡単にではあるがまとめておきたい。
 18世紀の哲学において「モリヌー問題」という盲人に関する問題が重要なものとして取り上げられてきたことについては、ジョナサン・クレーリーもマーティン・ジェイも触れているが、この問題は要するに「生まれながらの盲人が後天的に視力を獲得した場合、それまで触覚によって知覚していた対象を知覚によっても同様に知覚できるのか」といったものである。この問題についてディドロが取り組んだのが『盲人についての手紙』(1749年)である。この著作においてディドロはル・ピュイゾーに住む生来の盲人を訪ねていろいろと話を聞くのであるが、その盲人の視覚観をもってデカルトの『屈折光学』にあらわれているような視覚観が何度も批判される。盲人が眼を杖や腕といった触覚に関する器官と類比して捉えていることに触れ、ディドロはこう書く。

奥様、デカルトの『屈折光学』を開いてごらんなさい。その中に、視覚現象が触覚現象と比較されており、杖をつかってものを見ようと懸命になっている人間の肖像をたくさん載せた光学の図版をごらんになれます。デカルトと、それ以後に現れたすべての人たちも、視覚についてこれ以上明確な観念を私たちに与えることができなかったのです。しかも、この偉大な哲学者も、この点では、眼の見える有象無象とおなじように、この盲人よりもまさってはいなかったのです。

 ディドロは他にもこの盲人の、眼が見えるようになるより途方もなく長い腕を獲得するほうが、眼の見える人々が望遠鏡によって月面を観測するよりもずっとよく月面の状況を知ることができるという発言も引いている。いずれにせよデカルトが『屈折光学』で盲人の事例を引くことで視覚を触覚との類比で語っていたのに対し、ディドロはさらにそれを進めて触覚の地位を高めようとしている。それはクレーリーの言葉を借りればこういうことだ。

知の確実性は視覚のみに依存しているのではなくて、統合して働く人間の感覚器官と区切られた秩序の空間とのあいだにある、より包括的な関係に基づいている。その秩序空間の上で、事物の位置が認識され、比較されうるのである。目の見える人のなかでは諸感覚はお互いに似てはいないが、ディドロが「相互協力」と呼ぶ過程を通じて、諸感覚は世界についての知を与えてくれるのである。

 なるほどディドロは視覚に対する触覚の地位を上昇させたし、その触覚重視の姿勢は唯物論者としての側面に通じている。しかしクレーリーの言うように、結局はデカルトが両眼の不確実性を松果腺に宿る理性的精神(クレーリーはそれをカメラ・オブスキュラの単眼モデルとして図式化するのだが)において知覚が完成されるとみたように、ディドロもまた同様の「カメラ・オブスキュラが占有する認識論的領域のなかにいる」のである。
 そうしたクレーリーによる批判と近しい見地で、やはりデカルトとディドロの盲人観を批判的に捉えているのが『精神分析の四基本概念』におけるジャック・ラカンである。ラカンはこの1963年に行われたセミネールの第6講から第9講において眼や視覚、光の問題について触れる中でデカルト的なcogitoへの対抗を試みている。ここでラカンはやはりディドロの『盲人に関する手紙』を引いて、デカルト的主体の設立と密接な関わりをもつ「実測的遠近法」による視覚空間を批判している。こうした触覚に還元可能な視覚観に通じるデカルト=ディドロの盲人観はラカンにおいて「視覚という領野そのものが始原的な主体化する関係として我われに提示するものを、決して汲み尽くしてはいない」ものとして批判されるのである。この数回の講義においてラカンはデカルトへの対抗という願望を意識的にせよ無意識的にせよ、かなり強く抱いていると見受けられる。デカルト=ディドロ的な「実測的」視覚観に対してホルバインの「大使たち」という絵画を用いて自己の視覚論を立ち上げようとするわけであるが、そこでラカンが発する「カードの裏面(le dessous des cartes)」という語は「デカルトの裏側」とも読めてしまう(特にセミネールは口頭での発言であるからなおさらである)。あるいはロジェ・カイヨワの動物における擬態論を引きながら、「大使たち」におけるアナモルフォーズの髑髏のような絵画におけるシミ(tache)として主体を捉えなおそうとする中で、カイヨワの名前を「ルネ」と言い間違えている(さらに次の講義でわざわざ訂正している)のも、ルネ・デカルトへの対抗心がふとあらわれたものかも知れない。
 もっとも素人がラカンをさらに精神分析しようなどと試みても仕方ない。むしろラカンにおいて最後に少しでも触れておきたいのは、前節までに扱ってきたバタイユの「太陽を直視することで盲目になる」こととの関連性である。バタイユとラカンとの関係については妻シルヴィアを巡るあれこれを始めとして様々なものがあったと推測されるのだが、特にその思想的関連性についてはシュリヤのバタイユ伝などを繙いてみてもはっきりしない点が多い。そうした部分に深入りすることは避けるが、僅かばかりでもラカンとバタイユとの思想的親近性について触れて、この論文の本論部分を終えることとしたい。
 ラカンは同じセミネールの中で、光源というものを単に視覚を可能にするだけでないという、バタイユの太陽観にも通じるようなことを述べている。

見かけと存在との関係、哲学者が視覚の領野を征服することによって簡単にその支配者となってしまったこの関係の本質はもっと他のところにあります。その本質は線の方にあるのではありません。それは光点、つまり放射の原点、きらめき、炎、輝きの湧出の源にこそあるのです。たしかに光は線状に広がります。しかし忘れないでください。光は目というカップから溢れています。だから、目というカップのまわりには一連の器官、装置、防衛が必要になるのです。虹彩が反応するのはたんに距離に対してだけではありません、光に対しても反応します。虹彩は、こうして、カップの底の過程を防御しなくてはなりません。これがなければカップの底の過程は場合によっては毀損されるかもしれません。我われの瞼もまた、強い光を前にし、まずは瞬きをし、それからお馴染みの眩しそうなしかめ面になるのです。

 バタイユのような眼球を光によって毀損することへの憧れこそないものの、光源を単にデカルト的、遠近法的、実測的な視覚空間を可能にするだけではなく、時として眼を毀損してしまうという側面をも捉えている点は共通している。そしてバタイユが太陽を凝視するための第三の眼として「松毬の眼」という別な器官を想定していたように、ラカンも「我われみなが知っているように、光に感受性のある器官は目だけではありません。外皮の表面のすべてが、視覚とはまったく異なるさまざまな形で、光感受性を持っています。この次元はどうしても視覚という機能へと還元してしまう訳にはいきません」と述べている。こうした光源にとどまらない光の身体毀損的な性格への言及や、そうした光に向かう器官が両眼の他にも存在しうるという考え方は(ラカンのセミネールはバタイユが『太陽肛門』や『松毬の眼』関連草稿を執筆した30年以上も後のものではあるが)ある程度まで同時代性をもって共有されていたものといえるかも知れない。
 他にもラカンが同じセミネールの中で触れている「鰯の缶詰の眼差し」というエピソードは、たとえば前節で触れた『眼球譚』でシモーヌの膣内から「私」を見つめてくる眼球のまなざしと同種の経験として「視覚の思想史」の中に位置づけることができるかも知れない。そこにはサルトルにおける他者のまなざしとラカンにおけるそれとの差異など、さらに思想史的事項へと通じていく問題があるだろうが、この論文ではそこまで触れるわけにはいかない。次にくる結論部では全体のまとめとして、山下正男の「眼球モデルの二つの哲学」という短い論考を基調として、本稿で触れたようなバタイユ=ラカン的な盲目の要素も取り込んだ「視覚の思想史」の見方について述べておきたい。

結論にかえて:カメラ・鏡・盲目――視覚の思想史のために


 視覚の思想史というものを考えるときにこの論文内でたびたび参照してきたジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』とマーティン・ジェイ『ダウンキャスト・アイズ』の二冊は、ともに1990年代になってからの著作である(前者は初版が1990年、後者は1993年)。この二冊の出版を機に欧米圏でこの種の議論が増えてきたということなのだが、それに先駆けること10年以上、日本の『エピステーメー』誌は1978年9+10月号で「眼球」特集を組んでいる。六部構成をとるこの特集のうち「世界――触覚と視覚」と題された第三部には、土井虎賀壽の「触覚的世界像の成立」というニーチェ論の再録とともに、山下正男の「眼球モデルの二つの哲学」という短い論考が収録されている。クレーリーがデカルトにおけるカメラ・オブスキュラというモデルに基づいた眼球観を問題化するよりずっと以前に、山下はこの論考でデカルトやロック、パスカルらの思想背景にやはりカメラ・オブスキュラとして捉えられた眼球というモデルがあることを指摘している。そこでこの論文の結論部に代えるかたちで、山下の論考をもとにしてこれまでに展開してきた議論を「視覚の思想史」に組み込むための道筋をつけることにしたい。
 ともあれ、まずは山下の論考を簡単にまとめておくことにしよう。5節からなるこの論考はまず第1節で、恐らくは前の土井の文章の採録を受けて「視覚モデルの哲学」として観念論を、「触覚モデルの哲学」として唯物論をそれぞれ定義する。視覚と触覚を区別して考える、ということ自体も第3章第2節における「盲目」の議論と通じるものがあるだろうが、ここではそこまで展開できるほどの話はなされていない。視覚モデルの哲学は幾何学から発達した数学に、触覚モデルの哲学は筋感覚を基礎に置いた力学とそれぞれ結びつき、また視覚モデルと触覚モデルの双方の流れにまたがって存在する聴覚モデルの哲学は論理学と結びついて「言語的理性の哲学」を形成している、と山下はまとめる。
 そのうえで山下は視覚モデルの哲学を「眼というものは鏡であるという想定のもとに立った哲学」と「眼というものは、キャメラであるという主張にもとづいた哲学」の二つに分かち、現代科学からみれば正しいのは後者であって前者は「近世科学の成立以前の古い立場」とする。そして眼を鏡とみる立場は古代ギリシャにも古代中国にも認められ、それらは近世の初めごろまで残っているという。この立場は中国においては禅思想などに見られる壮大な人間観、宇宙観へと通じているが、これに対応するヨーロッパ側での哲学として山下はヨーロッパ中世の思想などを経てライプニッツのモナドロジーを挙げる。

無数のモナドはそれぞれ一つの鏡として、互いに他を映しあい、調和のある世界を構成しているのである。このようにライプニッツのモナドが鏡であるとすれば、よくいわれるようにそうしたモナドにはいかなる窓もいかなる穴もないのは至極当然のことであって、モナドは実に一個の凸面鏡、いや一個の球面鏡だといえるのである。

 こうした眼球=鏡モデルの哲学に対して山下は眼球=カメラモデルの哲学についても簡単に論じているのだが、こちらはクレーリーによる論述とほとんど変わらない内容なので割愛する。山下のこの論考がクレーリーに影響を与えたとは考えにくいし、逆に時間的前後関係からいってクレーリーの研究に山下が示唆されたとも思われないので、この二者の共通点についても気になるところは大きいのだが、それよりここで触れておきたいのは山下とクレーリーにおけるライプニッツの眼球モデルの捉え方の違いである。
 前掲のように山下はライプニッツを眼球=鏡モデルの哲学者として眼球=カメラモデルの哲学に対置するかたちで捉えているのに対し、クレーリーはあくまでライプニッツを眼球=カメラ・オブスキュラモデルの思想史における一様態として捉えている。カメラ・オブスキュラが単眼モデルであるのに対し、ライプニッツのモナドについては複眼的なモデルながらスクリーンや襞というモデルをそこに組み込むことで、各モナドの複眼性による限定的な視点がしかし同時に全宇宙を自己のうちに反映=反射(reflect)するという矛盾を調停することに成功している、というのがクレーリーの読解であり、ライプニッツもまたデカルトなどと同様にロックに端を発するカメラ・オブスキュラのモデルを受け容れていたとするのである。

 ライプニッツの位置付けについて山下とクレーリーのいずれを取るべきかという問題についてはここでは保留するのであるが、ともかく視覚の思想史においてカメラ・オブスキュラのモデルが支配的であった一方、山下のいうような鏡のモデルやクレーリーのいうようなスクリーンの導入された改良的カメラモデルなどといった「別な視覚の思想史」への契機が胚胎されていたということができるだろう。その視覚的モデルが鏡であるかスクリーンであるか、ということが問題となる思想家といえば第3章第2節で取り上げたラカンがまさにそれに当たる。その節で扱った『精神分析の四基本概念』などに見られるように、ラカンはその視覚的モデルを当初の鏡像段階論に基づく鏡のモデルから、次第にスクリーンや絵(tableau)のモデルへと移行していく思想家であった。視覚の思想史を考えるに当たっては、単にデカルトに代表されるカメラ・オブスキュラ的なモデルへの反発の歴史として捉えるのではなく、視覚の思想史にはこうした複数の流れが孕まれており、それらが交錯しながら成立してきたものと捉えていく必要があろう。
さて、こうした「眼球=鏡」モデルと同様に、山下が触れていないもう一つのモデルとして「眼球=盲目」というモデルを視覚の思想史に導入することはできないだろうか。その「盲目」に通じる思想史として『屈折光学』で盲人について触れていたデカルトを皮切りに、クレーリーやジェイが論じているディドロをはじめとする思想家たち、そして何よりこの論文でみてきたように、デカルト的な視覚観のパロディとして太陽によって盲目となる特異な眼球モデルを打ち立てようとしたバタイユを組み込んでいくことが可能ではなかろうか。……というのがこの論文のいちおうの結論である。この論文の表題とした「《眼》のhistoire」というのは、一つにはもちろん論文中で扱ってきた初期バタイユのテクストにおいて中心的な位置をなす『眼球譚』(Histoire de l’œilすなわちStory of the Eye)のことであるのだが、それと同時に、バタイユ自身が一個の「パロディ」としてそこに参入しているような「《眼》の思想史」(すなわちHistory of the Eye)のことでもあるのだから。

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