フラグメント002

アフォリスム風に

求道者であることと怠惰であることとは、たぶん両立する。自分では怠惰のゆえに退けているとばかり思っていた様々のことが、はたから見れば求道のために不要なものを切りつめていく態度でないとはいえない。苦行のなかに身を置いてじっと耐える求道者は、一日じゅう寝床を出ない無精者にも見えるだろう。

ジャン・ルーシュを読んで

観測者(observateur)ないし観客(spectateur)であること自体が、同時に加害者=供儀執行者(sacrificateur)であり、かつ被害者=犠牲(victime)でもあるということ。そこにはたらく視線(regard)の権力/力学は既に眼(oeil)を離れたものだ。たとえば『眼球譚』のクライマックス、シモーヌの膣に挿入されることでマルセルの眼に変貌する僧侶ドン・アミナドの切り取られた眼球。ラカン『精神分析の四基本概念』における「眼と視線の分裂」および「デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』賛」における視線の集中と反転(≒窃視者voyeurと露出症者exhibitionisteとの可換性)や三角関係の移行(作中人物だけの三角関係がロル、デュラス、ラカンの精神分析セッション的な三項関係へとすりかえられる手口)を参照のこと。西谷修「Georges Bataille et le mythe du bois」を読んで物足りなく思っていたこと(視線≒観客の問題の欠落)と「ドキュメンタリー」における観察者・記録者の問題。

「アイロニカルな没入」とジュネの『女中たち』

没入は常にアイロニカルにしかおこなわれえないものであろう。そこにおいて、カタルシスをもたらすような完全な没入というのは最終的には不可能に終わる。逆にいえば、常にアイロニカルな距離をその内にはらんでいながら「没入」が起こってしまう、あるいは「没入」によって何らかの事態が出来してしまう、そのことが問題であるともいえよう。すなわち、殉教者という役柄に「没入」して死んでゆくロトルーの聖ジュネも、”奥様と女中ごっこ”に「没入」して毒入りのジャスミン・ティーに口をつけるジャン・ジュネの女中たちも、それが所詮は演戯に過ぎない、芝居に過ぎないのだということを充分に自覚しながらしかし、そうするほかなかった、破滅の淵へと自ら誘いこまれていくしかなかったのである。ミサや供儀の場にあらわれた信仰から演戯、観劇にいたるまで、あらゆる「没入」はアイロニーを内に蔵したまま、初めからカタルティックな完遂を拒まれ、不完全燃焼に終わることを運命付けられたかたちでしか進行しない。

パロディ:演劇性の臨界点

パロディとは差異を伴った(同一物の)反復である、というリンダ・ハッチオンの定義を更にずらすかたちで、われわれはパロディ――ことにバタイユにおけるそれ――を「悪意を伴った(同一物の)反復」と位置付けたい。同一物の反復は反復された時点で完全な「同一物」ではありえない。反復は「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」(マルクス)おこなわれる以上、起源に達することは永劫にかなわない。その非人称的な悪意、「反復」そのものが不可避的に孕んでいる悪意をまた自分の悪意として引き受け直すこと、そこにバタイユ的な「永劫回帰」の受け止め方があるのではないか。バタイユにおいて演劇=悲劇は供儀をモデルかつ起源として設定していながら、死にゆく人物を演ずる俳優にせよそれを見つめることで死にゆく人物に自己同一化をこころみる観客にせよ、決して生きたまま死に達することはできず(死は経験Erlebnis=Er-lebenたりえないという撞着語法)、それゆえにこそ、死の完全な反復は不可能であるという意味で構造上つねにすでに「悪意」が孕まれているのである。かようにバタイユにおける「悲劇」は、その定義において既にそれ自体が決して完全には達成されえないものであることが書き込まれているために、いささかの悪意を伴って反復される「悲劇のパロディ」なのであり、それはもはや「喜劇的なもの」でさえある。神の死による自己同一性の喪失後、主体性を喪失した主体は複数の人物=仮面(ペルソナ)を生きうるのだというクロソウスキーの「多神教」的なニーチェ解釈は、まず第一義的に主体をいわば俳優的実存(l'existence actrice)として捉えることに基礎を置きそこから出発しているのに対して、バタイユにおけるそれは主体をまず観客的実存(l'existence spectatrice)として捉え、自己同一性をすでに喪失していながらも人物=仮面(ペルソナ)へと完全に同一化することもまたかなわないという不安定さの方に眼目を置いている。その対比は同じ事柄に対する照明の当て方の違いに過ぎないともいえようが、主体性を喪失した主体の不安定な位置をその不安定さゆえに肯定的な力へと変換するクロソウスキーの視座に対して、それが観客の立場にあるにせよ俳優の立場にあるにせよ、常に起源を想定していながらその起源には永劫に到達しえないという「悪意」を大前提に、その悪意を悪意のまま受け止めたうえでなおそれを笑うというバタイユの悲劇的=喜劇的な視座をわれわれは強調していくことになる。旧来の自己――そもそも本当にそんなものはあったのだろうか?――に復することもかなわず、しかし別な仮面へと同一化することも許されない(ゆえに「私」を主語として語るときもそれは「私」を演ずることでしかない)という不安定な二律背反のさなかに立ち続けることこそが、バタイユにおけるパロディであり、演劇性の在り方である。

バタイユは悲劇と喜劇とについて明確な区別をつけていないが、彼にとってニーチェの体験を反復するという不可能な試み(回帰の回帰は不実でしかありえない。クロソウスキーの表現を借りれば、それは「伝達不可能なものの伝達」であるがゆえに教説ではなく「教説のシミュラクル」となる)はその不可能性ゆえに一個の喜劇であり、バタイユについてパロディということを言うときはこの絶望的な「笑い」の要素を欠くことはできない。

サバト、黒ミサ――演劇としての

クロソウスキーが「ジョルジュ・バタイユのミサ」(『かくも不吉な欲望』)や『画家とそのデモン』で証言している、キリスト教の儀礼的側面(カトリックのミサ)に対するバタイユの関心(『エロティシズムの歴史』『ヘーゲル、死と供儀』『C神父』)とその裏返しとしてのサバトや黒ミサへの関心(『ジル・ド・レ裁判』『ミシュレ論』)。人類学的な視座による「供儀=プレ・テアトル」としての相対化。ドゥルーズにおいては同じ「賽の一振り」でつながっていながらも依拠する構図がディオニュソスの秘積であるかカトリックのミサであるかという一点の差異によってニーチェとマラルメとは道をたがえ(『ニーチェと哲学』)、クロソウスキーにおいてディオニュソスと十字架のイエスの一致はニーチェの狂気によって贖われなければならなかったが(『かくも不吉な欲望』)、バタイユにとってはディオニュソスと十字架のイエスはいずれも供儀における犠牲のイメージなのであって、そこにおいて両者は必ずしも相容れぬものではない(要検証)。ここにさらにミシュレ『魔女』におけるサバトや黒ミサの記述を演劇として捉える記号論的な試み(篠田浩一郎)を導入できないか。

回帰と自失(九鬼周造)

なぜ永劫回帰において自己同一性は喪失の危機に晒されるのか、ということについては九鬼周造「La notion du temps et la reprise sur le temps en Orient」とその坂部恵『不在の歌』による解釈が納得いくものだった。九鬼が論じているのは直接的には仏教の輪廻をはじめとするインド思想だが、そこにニーチェの思想(とりわけツァラトゥストラ)が重なりあうことも明言されている。九鬼の考える回帰的時間とそこにおいて同一性のこうむる変容は、バタイユ~クロソウスキー~ドゥルーズというフランスにおけるニーチェ解釈の流れに呼応するものである。あるいは九鬼がハイデガー『存在と時間』における現在過去未来にまたがるエクスタシスを「水平的」なそれとして定義付け、そこに無数の現在が回帰してくる「垂直的」なエクスタシスを対置することでこの語の神秘主義な色彩を取り戻そうとしたのは、坂部がいうようにバタイユと少なからぬ共通項をもつ考え方であろうが、同時にブリス・パラン『ことばの思想史』の影響下でカミュが『反抗的人間』において用いた「垂直的超越/水平的超越」とも重ねて考えることができるかも知れない。『九鬼周造と輪廻のメタフィジクス』。

私(je)――エクスタシスの残余

脱自(エクスタシス)においてなおも残り続ける「私」という主体=主語について、古井由吉は『神秘の人びと』で触れ、また私小説の「私」が「私」を書くという構図によって生じる「私」の解体について『「私」という白道』で考察を加えている(書く私と書かれる私との間の「卵が先かニワトリが先か」的なパラドクスについてはドミニク・ラバテが『Figures du sujet lyrique』で論じている)。古井の近作「たなごころ」(群像2017年8月号)ではこの問題が「私」には「私の死」は体験しえないというブランショ的なアポリア(ただし松浦寿輝との対談『色と空のあわいで』によると古井はブランショを読んでいないとのこと)から出発して、書くという行為は死後の生を、魂というものを踏まえなければ成り立たないのではないかと書いている(同様の仮説は『魂の日』やその執筆当時を振り返った『半自叙伝』にも記述がある)。バタイユにもまた、神秘主義のエクリチュールからの影響がもっとも濃厚な『内的体験』において「私(je)」という主語を客体的に扱おうとしていた箇所がある。これをたとえば鶴岡賀雄『十字架のヨハネ研究』における「合一の人称」論や、古井が『神秘の人びと』で依拠したマルティン・ブーバー『忘我の告白』などと重ね合わせて論じることは可能だろう(ただしバタイユは後年の『エロティシズム』になると神秘家たちの在り方をエロティシズムの一般理論のなかに還元しようとする欲望のほうが強くなっているように思われる)。ここにバンヴェニストの人称代名詞論などを理論的な補助線として用いることで、古井由吉との対比から新たなバタイユ像(あるいは、新たな『無神学大全』像)が見えてくることはないか。『無神学大全』三部作はディスクールによる思弁を中断して自伝的あるいは日記的なエクリチュールが侵入してくる破綻した構成をもつが、古井の最高傑作と目される『仮往生伝試文』もまた往生をめぐる古典テクストを追いながらそこに日記が介入してくるという構成をとっていた。

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