初めてマラルメを読んだ頃

自己は確実な将=来たる〈死〉のための唯一の場所として在るがゆえに、〈わたし〉という将=来を蔵した個人的【ペルソネル】な存在となる。虚構【フィクション】とは恐らく将=来しないものの謂だ。そしてあらゆる方法【メトード】は論理や物語や韻律を追うために利用される、言語による虚構【フィクション】である。

方法【メトード】は全て個人的【ペルソネル】なもの(たとえば、デカルト)に始まり、それを突き詰める(たとえば、コギト)ことで単一=特異【サンギュリエル】なもの、さらにはむしろ非人称的【アンペルソネル】なものと化す。方法【メトード】{という/としての/による}虚構【フィクション】は、恐らく〈わたし〉を個人的=人称的【ペルソネル】な場所から解放する。

個人的【ペルソネル】な場所【プレース】から非人称的【アンペルソネル】な空間【スペース】へと解放された〈わたし〉 はすなわち虚構【フィクション】という方法【メトード】の中で死よりもなお死ぬことができる(かも知れない)。〈わたし〉の死が〈あなた〉の死であっても〈彼 /彼女〉の死であっても〈他人=ひと〉の死であっても大差ないような非人称的【アンペルソネル】な空間。

虚構【フィクション】に於ける死の非人称性【アンペルソナリテ】――あるいは恣意性――を逆手に取ること。誰が死ぬのかわからない、誰も死ぬことができない、誰もが死ぬしかできない、〈誰でもない【ペルソンヌ】〉しか死ねない……。デカルトだけのものであるがゆえに誰のものでもあり誰のものでもないコギトの夜。

そしてそこに(兎穴に落ちてゆくアリスのように)永遠に墜落してゆく、そして墜落しきらない宙吊りの運動(運動の宙吊り性?)こそが、恐らくは一個の「自由」なのだ。そして方法【メトード】としての虚構【フィクション】あるいは虚構【フィクション】としての方法【メトード】が進行させていくのは、過程【プロセ】であると同時に審判【プロセ】でもある。

のちにその《ix》という異様な脚韻と、そこから紡ぎ出されたptyxなる「存在しない語彙」のために 《yxのソネ》と仇名されることになる《それ自体への寓意【アレゴリー】たる十四行詩【ソネ】》。その第一稿を同封した書簡で、当時精神的な《危機》の只中にあってなおそれを「逆手にとる」ため言語学研究に着手していたマラルメは、友人アンリ・カザリスにこう語っている。

「そして不在と尋問とからなる夜の中には(…)いかなる家具もない。鏡は不可解にも星らしきものを映し出している。それは〈大熊座〉で、それが世界に見棄てられたこの住まいを唯一、空に繋いでいる」(マラルメ、カザリス宛書簡、1868年7月18日付)

北斗七星を映し出す鏡のほかは何ものもない、部屋の主【あるじ】たる「幸いにも死を完全に死にきった」詩人のその〈不在〉における真夜中の一室。鏡に映し出される《自分自身》は、マラルメ個人であり、詩そのものであり、死そのものであり、コギトと化した〈わたし〉であり、〈あなた〉であり、〈他人【ひと】〉であり、〈誰でもない【ペルソンヌ】〉すなわち〈個人【ペルソンヌ】〉である。

まずは、この非人称的【アンペルソネル】な「自由」から、始めよう。「私を破壊したこの夢が、私を再建してくれるだろう」(マラルメ、カザリス宛書簡、 1869年2月4日)。

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