落合太郎メモ

京都帝大で仏文学・言語学の教授として研究と教育に当たったあと、旧制三高や奈良女子大学で名校長・名学長として知られた落合太郎の経歴について、Wikipedia含めweb上にはほとんど見られない色々のエピソードが集まってきたので、そのうちしっかり原典に当たり、出典を明らかにしてまとめて記事にしたいと思っている。これはそのための準備的なメモ。

黒岩涙香との関係

印刷業を営んでいたものの零落した?父親が知己の涙香に頼んで、落合太郎の学資を出してもらった。落合太郎は旧制一高から東京帝大の法科に進むが、翌年には一高の校長だった新渡戸稲造のすすめで京都帝大の法科に転じて卒業している。東大をやめた理由ははっきりしないが、競争の激しさ(最前列の席の奪い合いなど)や学生数の多さ(といったって「マスプロ教育」と言われた戦後の時代と比べればのどかなものだっただろうが)に嫌気が差したとも、病気をして休学したとも語られている(『落合太郎著作集』)。
卒業後、保険会社に勤めた太郎だったが、涙香が息子にやらせていた米のチェーンストアに入社。竹之内静雄が『偉人涙香』に拠って記すところによれば、涙香が業績がよくなくて損が出ないうちに撤退しようとしていたところを太郎は改善させるからと入社して、会社の金を使って放蕩、結局会社はダメになって涙香は大損をしたという。それでも弟子たちが太郎を罰せよというのを聞かず許したのだとか。
その後、落合太郎はフランス留学に出るのだがその資金源は不明で、これもひょっとしたら黒岩涙香が出したのかも知れない。

教員生活と専門の変遷

フランス留学から帰国した落合太郎は神戸高商などで国際法の講師をしていたのが、京都帝大が仏文講座を作るに当たって助教授に抜擢されている。モンテーニュ研究やデカルトの翻訳など広義のモラリストを専門としたことを考え合わせれば、仏文学者というのが落合太郎という人の肩書としてふさわしいように思われるのだが(桑原武夫から大岡昇平、野間宏に至るまで京大仏文卒業者の回想も教授の太宰より助教授の落合を恩師として扱っている)博士論文提出・教授昇進と同時に言語学講座に移っている。
このあたりWikipediaにもweb上にもどこにも記載がないので謎だったのだが(落合自身は過去を語ることをしなかった)、京都帝大で西洋古典学を講じた田中秀央の自叙伝『憶い出の記』にそのあたりの詳細が記されていた。曰く、もともと仏文学講座の教授・太宰施門とそりが合わなかった(確か鈴木道彦による父・鈴木信太郎の評伝『フランス文学者の誕生』で読んだのだと思うが、太宰は東京帝大で教えを受けた厳格な古典主義者でマリア会神父のエミール・エックの思想を忠実に受け継ぎ、18世紀の文学・思想──ヴォルテールやルソーなど──すら認めないほどだったようなので、近現代文学に没頭する若い学生に寛容だった落合と合わなかったのかも知れない)。
それが言語学講座の新村出教授が定年退職するに当たり、当初は東大言語学科卒の田中秀央に後任になるよう話があったものの、田中は西洋古典学に専念したかったため(田中は本来英文学講座のはずの外国文学第2講座の教授として西洋古典学を講じていた)落合太郎を教授に推薦した。教授になるためには博士論文が通過している必要があるので、言語学が専門ではない落合に急いで論文を書かせた(そのため落合の博士論文は言語学というより文学および思想の側から言語について若干の考察を加えたような、短くて言語学の論文とはいえないような特異なものになっている。『落合太郎著作集』所収の当該論文参照のこと)。言語学講座の教授になるには前任者の新村出が審査に当たっている必要があるため内容は変えずともいいから新村が審査委員になれるよう、題目を変えさせるなどの操作もあったようだ。
かくして法科出身の落合太郎は国際法〜仏文学〜言語学と(肩書上の)専門を次々と変えることになったようである。

仏文和訳のすすめ

落合は学生に、自分にとってcongénialな書き手を見付けてその文章を日本語に翻訳するexerciceを奨励していた。実際に竹之内静雄の記述によると野間宏の訳したフィリップ・スーポーの文章の訳稿を野間の卒論(『ボヴァリー夫人』論)とともに後年まで保管していたようだ。ちなみに落合は、「ジッドは全部読んだ」と退学を申し出た若き日の野間宏に、原書で読んだのかと叱り、また眼鏡が壊れていることを指摘してそのような眼鏡では世の中がうまく見えないだろうと諭している(『野間宏全集』)。

誤植に厳しく、校正に時間をかける

誤植に厳しかったエピソードは竹之内静雄が書いている。誤植を見付けるとウナ電(電報の速達)を打って厳しく叱ったという。
田中秀央の自叙伝本の解題に、落合との書簡のやりとりから、せっかちな田中が落合に校正刷りを早く渡すよう急かしたというような記述があるが、実際には(確かに落合にはやや〆切にルーズな傾向があったとみられるが)落合が誤植のないよう校正に時間をかけていたのではないかと推測される。

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