フラグメント001

エクスタシスはabsence du moiであるが、それを語るに際して非人称の話法に訴えず、むしろ『無神学大全』期のバタイユは一人称単数代名詞の主語を多用していることからmais il y reste encore le jeということが言える。私=自我(moi)が名詞であるのに対して、jeのほうの「私」は空虚な指示詞である(バンヴェニストの代名詞論)。非人称によってmoiの不在を語ることは、ともすれば不在そのものを名詞化=実体化してしまうことにつながりかねない――サルトルが『シチュアシオン』でバタイユの文体をあげつらって批判したように。「私」jeは「人称personnel」である以上「非人称impersonnel」ではありえないものであり、主語=主体として言葉のうえで残ってはいるが、もはや名詞として実体化されていない主体性なき主語(sujet sans subjectivité)である。ランボーふうの言い回しをするならば、「私」は私=自我ではない(le je n'est pas le moi)のだ。それは演じるべき俳優のいつとも知れぬ訪れを待ち続ける空虚な役柄(rôle vide)に過ぎず、あるいは俳優なき演戯=私(le je(u) scénique sans acteur)といってもいいかも知れない。

疲労と睡眠の書というべき『無神学大全』、特に『内的体験』『有罪者』。そこにはしばしば揶揄されるような「作者の気持ち」が、推論的思考(pensée discursive)ないし哲学的推論を断ち切る(interrompre)かたちで、あられもなく書き込まれている。だが睡眠そのものを記述することはできない。睡眠はわが身に差し迫った死とその恐怖のアナロジーでもありうる。睡眠は疲労とともに抗いようもなく訪れて推論的・連続的な記述を中断し、何を書き継ぐつもりであったか忘却することで未来への(実存哲学の術語でいう)投企を妨害する。

『内的体験』冒頭でバタイユが言うように、沈黙、という言葉を発してしまった時点でそれは既に沈黙ではなく一個の音(un bruit)である。沈黙(という語ないしそれを発話すること)は沈黙そのもののパロディに過ぎない。そして死の言語とは沈黙でしかありえないことから、それは死もまたパロディとしてしか記述しえない、語りえないものだということをも示唆する(モロイ論)。「無(rien)」を名詞的に用いることで実体化してしまう――サルトルから言葉遣いをからかわれたように――のを避けるために、主体(主体性なき主語)における無すなわちmoiの不在を示すためには『モロイ』におけるベケットの冗語のように、あるいはデ・フォレのお喋り男のように、ひたすらjeという空虚な主語を立てて語り続けなくてはならない(それも非人称の話法に訴えることなしに)。言葉を用いて言葉を無効化することでしか、言葉によって無を、死を、沈黙を表現するのは不可能ということか。

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