落合太郎ノート

仏文学者・落合太郎についてのノートです。Web上にぜんぜん情報がないので書籍をあたって手に入れた情報を、主に引用というかたちでまとめていきます。

略年譜と補完的な文章

まず落合太郎の略年譜を桑原武夫・生島遼一編『落合太郎著作集』(筑摩書房、1971年)から引用する(521-523頁)。編者の桑原・生島はともに京都帝大での落合の教え子。(ちなみにこの著作集にはいくつかのエッセイを桑原らの判断で収録しなかったほか、府立一中時代や旧制一高時代の文章など遺漏もある。これについては最後にまとめて記す。)

明治十九年(一八八六年) 八月十三日、父落合代次郞、母乃すの二男として、東京神田駿河台に生る。長男は嬰児のとき死亡。姉三人、弟一人、妹一人があった。
明治二十五年 銀座近くの泰明小学校入学。島崎藤村、北村透谷の母校である。一年から六年まで吉井勇と同級。
明治三十一年 東京府立第一中学校に入学。翌年肺炎をわずらったさい退学。この中学が万事規則づくめで、外套の着用も禁じるというふうであったのに、父が反撥して退学せしめたのだという。二年間静養ののち、明治学院普通部に入り、卒業。
明治三十二年 母を失う。
明治三十六年 七月一日、第一高等学校大学予科第一部入学。
明治四十一年 六月三十日、右卒業。七月十日、東京帝国大学法科大学に入学したが休学中、新渡戸稲造にすすめられ、京都帝国大学法科大学に転学。
明治四十五年 三月二十六日、赤塚平左衛門(自得)の妹、赤塚季(明治二十年生)と婚姻届出。
大正元年(一九一二年) 十月、代次郞隠居により家督相続。
大正二年 十二月十七日、京都帝国大学卒業。
大正五年 一月、黒岩涙香が出資して長男日出雄をして経営せしめた米問屋のチェーン・ストア、増屋の総支配人となる。翌年二月、増屋倒産廃業。
大正七年 一月、童話集『こほろぎと象』を阿蘭陀書房より刊行。十二月より大正十一年五月まで、フランス留学。
大正十一年 七月十六日、フランスより帰国。
大正十二年 九月、京都帝国大学法学部講師(国際法)。法学部での授業は昭和九年までつづけられた。
大正十三年 三月、京都帝国大学文学部講師(フランス語フランス文学)。神戸高等商業学校講師(国際法、昭和六年三月まで)。
昭和三年(一九二八年) 三月、京都帝国大学経済学部講師(国際法、昭和五年度まで)。
昭和四年 五月、『落合・フランス語要理』を鉄塔書院から刊行。
昭和六年 三月、京都帝国大学助教授、文学部西洋文学第三講座(フランス文学)分担。九月二日、父死去。
昭和十年 四月、『フランス文法』を岩波書店より刊行。『落合・フランス語要理』を訂正したものである。
昭和十一年 十一月、論文『具体的言語と抽象的言語』によって、文学博士の学位をとる。
昭和十二年 一月、西洋文学から言語学の講座へと分担が変る。六月、『モンテーニュ』(大教育家文庫)を岩波書店より刊行。十月、田中秀央と共編にて『ギリシア・ラテン引用語辞典』を岩波書店より刊行。十二月、京都帝国大学教授に任ぜられ、言語学講座を担任する。
昭和十四年 七月、「デカルト選集」のうち『方法叙説』の翻訳を創元社より刊行。十二月、九州帝国大学法文学部に出講。翌年も同上。
昭和十七年 十一月より昭和二十一年十二月まで、京都帝国大学文学部長。
昭和二十一年 十一月より昭和二十四年五月まで、第三高等学校校長。
昭和二十四年 五月、奈良女子大学学長。以後四期学長をつとめる。
昭和三十二年 十二月二十六日、夫人季を失う。
昭和三十三年 七月、吉田楢三郎二女喜久子を養子とする。
昭和四十年 三月、奈良女子大学学長を辞任。十一月、静岡県伊東市八幡野大字高原の新居に奈良より転住。
昭和四十四年(一九六九年) 九月二十四日、伊東市八幡野の自宅にて逝去。

付言しておけば東京府立第一中学校は現在の都立日比谷高校、第一高等学校はのちの東大教養学部、法科大学は法学部の前身、鉄塔書院は岩波書店創業者・岩波茂雄の娘婿・小林勇が一時期岩波書店から独立して経営していた出版社、第三高等学校はのちの京大教養部。
なお語学教科書や童話集を除けば生前唯一の単著『モンテーニュ』を刊行した「大教育家文庫」では、落合と同じく「書かない学者」として知られた林達夫も『ルソー』を刊行している。
博士論文『具体的言語と抽象的言語』は『著作集』に収録されているが、副題に「──言語学的文学論──」とある通り、古今東西の文学者・哲学者を引きながら文学論を展開したもので、言語学の博士論文とはいいがたい。分量も『著作集』で39頁と少なく、註や文献の書誌情報なども一切ない。『著作集』掲載にあたって削られた可能性もあるが、桑原武夫による「解説」にはそのような記載はない(博士論文の件については後述)。ちなみに『こほろぎと象』は「西洋の話をやさしく書き改めたもので、創作ではない」とのこと。
なおフランス語教科書『落合・フランス語要理』は若き日の中原中也もフランス語学習に用いており、例文からの引用が「日記」にみられることを題材に一篇の推理小説のように仕立て上げた堀江敏幸氏の好エッセイ「梅雨時の図書館で神様を試してみた午後」(『回送電車Ⅲ アイロンと朝の詩人』中公文庫、2012年、32-39頁)がある。
続いて同じ『著作集』の桑原武夫による「解説」から、落合太郎の生涯について略年譜を補うような箇所を引用する(528頁)。

 父君代次郞は偉大なジャーナリスト、黒岩涙香の古くからの仲間であった。すなわち、明治二十三年頃、涙香が「都新聞」の主筆であったときの職工長で、のち涙香の出資を求めてインク製造工場を創設したが、失敗して姿を消し、放浪生活に入った。しかし侠気のある涙香は、その子すなわち太郎先生のうったえを聞くと、これを引き取って、明治学院中学、第一高等学校に学ばしめ、学業成績が優秀であったので、さらに大学に進め、卒業まで、その学費を給したのであった。先生は京都大学法学部卒業後、一時さる保険会社に勤めたらしいが、大正四年の秋、黒岩家を訪れ就職口を求められた。たまたま同年二月から、涙香の出資によって、その長男日出雄(当時二十三歳)が、米問屋のチェーン・ストアのごときものとして増屋という商会を開業していたので、そこに採用され、翌年一月から総支配人となった。しかし経営不慣れのうえ、経理的にも杜撰な面があったため、一年後には倒産廃業のやむなきに至った。涙香の損害は莫大なものであったという。
 先生は大正七年から同十一年まで、フランスに留学しておられるが、その費用がどこから出たのか、また、どこで勉強されたのかは一切わからない。のち京都大学文学部図書室に収められた多くの書籍は、この間に集められたものであり、それらの精読によって豊かな学識をもって帰国されたことだけは明らかである。
 パリ滞在中、先生は太宰施門氏と交際があり、このフランス文学者を京都大学文学部のドイツ文学の教授で、同学部の有力者でもあった藤代禎輔博士に紹介し、太宰氏は大正十二年、京都大学のフランス文学の助教授に任命された。そして先生も帰国後、母校の法学部の講師をしておられたが、藤代教授のすすめによって一年後には文学部のフランス語・フランス文学の講師となられたのである。昭和六年助教授、同十二年、新村出博士の後を襲って言語学講座担当の教授となられた。

法科から文科へ、東大から京大へ

落合は旧制一高では一級下の九鬼周造、和辻哲郎、天野貞祐らと親しかったらしい(「友だち」『著作集』491頁)。和辻哲郎の随筆には落合太郎と谷川徹三と3人で蓮の花を見に行った話があるし、九鬼周造はやはり随筆に、落合太郎と天野貞祐と3人でお茶を飲みに行った話を書いている。5人とも東京の旧制一高を出ていながら東京帝大ではなく京都帝大にゆかりがあるのを考え合わせると、そのことで旧交を温めるというか、余計に仲良くなったのかも知れない。(落合・天野・谷川は京都帝大卒。九鬼周造と和辻哲郎は東京帝大卒であるが、九鬼のほうは京都出身者や京大卒と間違われることがあったらしい。菅野昭正編『九鬼周造随筆集』岩波文庫、1991年、98-99頁。)
京大法学部講師から文学部に移ったのは桑原の解説にもあるように藤代禎輔から「法学部もよかろうが、君はこっちに来てみっちり勉強するほうが君のためによくはないか。ひとつゆっくり考えてみたまえ」と誘われたというが、その背景には「たぶん友人の和辻、天野たちがわたしをしきりに推奨してくれたから」ではないかと落合自身で推測している(「好去好来」『著作集』500頁)。同エッセイによると西田幾多郎や美学の深田康算らも落合の著述を読んでいたらしい。また、このエッセイには病気がちで進級がかなり遅れた(ただし後年になっても病弱を理由に原稿執筆や校正の遅れを弁明していたようなのでルーズな性格も一因だったのかも知れない)落合が、留学を経て京大法学部に講師として招聘された経緯、また大学時代に東大を休学して京大に転学した理由などを書いているので、煩をいとわず引用しよう。

しかし中学から大学までのあいだに友だちから五年もおくれ、そのうえなお養生の日をおくらねばならなかった。まずよかろうと医師もいうので、第一次世界大戦(一九一四ー一八)の直後、アメリカで船便を待ち、ヨーロッパへわたった。大西洋はまだ軍艦だらけだった。わりに長居したのはフランスである。健康はますますよく、一心に勉強できた。関東大震災の夏に、また出なおすつもりで帰ったところ、まったく思いもよらず、京大法学部の招きを受けた。母校とはいえ、わたしは有能な卒業生ではない。ごえんりょ申したのだが、けっきょく先生方の仰せに従うことにし、常任講師で外国法第三講座分担の辞令をいただいた。むかしの京大では、法科でさえ一級の学生数はせいぜい四、五十名。しぜん師弟のあいだは親密であった。有能ならぬわたしまで、なにか見どころでもあると思われたのであろう。東京の家の焼跡などそのまま、わたしは生活の本拠を京都にきめた。それから四十余年、関西に居すわることになったきっかけである。学生で京都に来たのは明治四十一年(一九〇八)である。わたしははじめ東大の法科にはいった。市民としての常識がやしなわれるであろうと、ほかになにも考えなかった。そのころは九月が学年始めだった。講義をきくのに座席のうばい合いをするのを見ていやになった。新渡戸先生(一高校長)にその不愉快なことを話した。先生には在校中からかくべつに親しくしていただいていた。先生いわく、京都ではそんなことないよ、それに実にしずかで、勉強にはもってこいだ、東大入学は学校の手でとり消してやるから京都へゆくがよかろうとおっしゃる。わたしは即座にそう願った。先生はその二、三年前まで京大法科の教授(農政学)だったのである。大学内外の知人へあてた七通の紹介状(毛筆がきの封書)をいただき、それをだいじに持って、わたしは生れてはじめて見る京都へ立った。(『著作集』409頁)

ここで落合は東大法科をやめた理由について席の奪い合いが嫌だったからと書いているが、のちに「教育日本新聞」に連載したエッセイの第六回「入学」では同じエピソードについて語りつつ「およそ六十年前、わたしは東大法科に入学した。病後だったので一度も出席しないでいた。」と書いており、座席の奪い合いを実際に目撃したのかどうかはさだかではない。ここでは新渡戸稲造から「健康はどうだ。ひとつ京都へゆく気はないか。しずかに勉強するにはいいところだ。学生の多い法科でさえ一級四、五十人くらいで、東京みたいに教室で席の取りあいなどはない。問題は気候だが」と言われたことになっている(以上「六 入学」『著作集』515頁)。ほかに東大から京大に移った経緯はエッセイ「なつかしい三高」にも書かれているが、こちらでは「わたしははじめ東大に入学した。入学はしたけれども、病後だったので、一度も学校に出なかった。」(『著作集』487頁)とあり、座席の奪い合いについては一切書かれていない。恐らく落合はさしたる理由もなく、就職に有利ぐらいに考えて東大法科に入学したものの、座席の奪い合いが起こるほど熾烈な競争について誰かから聞いて、病弱だったこともあり授業に出ないまま休学、のち心配した新渡戸の配慮により京大法科へ転学した……というあたりが真相ではあるまいか。

黒岩涙香との関係

のちに筑摩書房社長をつとめ、小説「ロッダム号の船長」で芥川賞候補にもなった竹之内静雄(京大文学部で吉川幸次郎に師事)は、落合太郎に二度にわたって就職の世話をされている。一度目は河出書房に入社するも上司との対立などで辞職。落合から今度は岩波書店への紹介の話をうけるが、筑摩書房創業者・古田晁との出会いから筑摩書房の創設に参加することを決めた。そんな竹之内による落合太郎をめぐるエッセイ「陰翳(かげ)ふかき人」(『先師先人』講談社文芸文庫、1992年)に、落合と黒岩涙香との関係についてより詳しいことが載っている。涙香が出資して長男にやらせていた会社を倒産させたことについて、桑原武夫による『著作集』解説では経営に不慣れだったこと・経理が杜撰だったことが挙げられているが、ここではもう少し詳細に落合太郎の行状が書かれている。大部分孫引きになるが、以下に引用する。

 落合太郎博士の生涯、その人格と業績には黒岩涙香父子にかかわる事件が、消し去りがたい影を落しつづけていたのかも知れない。
 一九六九年、落合太郎先生逝去。
 一九七〇年に刊行された『偉人涙香』中につぎのような一節があって、先生を知る者をおどろかせた。
〈黒岩涙香が都新聞主筆の時、職工長の落合代次郞は、涙香に出資を頼んでインキ製造工場を作ったが失敗してしまった。
 のち窮状を訴え長子太郎を頼むと言うので、涙香は引取り、一高、京都帝大を出してやった。
 大正四年十月、太郎はすでに妻帯していたが保険会社を解雇され落魄して涙香を訪ねてきた。
 涙香は二十三歳の病弱な長男日出雄に資金九万円を貸与して米の精白、卸、小売をかなり大きくやらせていたが、拐帯ごまかしなどがあってうまく行かぬため──その時ならばまだ二万数千円の金は残るので──整理閉店しようとした、
 太郎は店をしらべ今迄が難関でこれから利益があがると自信ありげに主張し、とくに乞うて大正五年一月支配人となった。
  それから一年あまり、太郎はいつも懐中に百円札数枚を持ち、自動車で待合を遊び廻り、芸妓数名をつれ仲間と箱根の温泉へ行くなど放蕩を極めた。店員も思い思いに不正を行う。
 転地療養していた涙香が知った時、借金は五万一千円。別に濫発されている約束手形。調査した警視庁刑事が「泥棒の巣」だと言ったという乱脈ぶり。
 涙香は、もと毛利公の邸であった広大な家宅を売払って債務を弁済し、「落合を牢にぶち込め」とさわぐ弟子たちをおさえて太郎をゆるした。
 のちにかれが京都大学の教授を多年つとめあげ、奈良女子大学の学長となることができたのは、もと涙香の海のごとき度量のおかげである〉
 この伝の著者は書名に『偉人』と冠することができるセンスの持主である。立場にも黒岩涙香の〈海のごとき度量〉を強調するに急な心情が見られる。しかし、その事実はあったにちがいない。(『先師先人』191-192頁)

竹之内は恩人・落合太郎にあくまでも敬意を失わず、

私は『落合太郎著作集』によって先生の学問の一端を知り、御生前をしのびつつ、若き日のその放蕩使い込み事件が陰の焔となって生涯消え去りえず、じつは落合太郎博士の〈すべて〉に深い意味を持つ隈取りを与えていた事をいま思わずにはいられない。

と文章を結んでいる。しかし、この『偉人涙香』なる書籍の記述が正しいとすれば、若き日の落合太郎は『著作集』解説にあるような経営への不慣れさや経理のずさんさだけでなく、相当派手な遊び方をして涙香に多大なる負債を負わせたことになる。それでも落合を許したという涙香は、もしかすると出所不明とされるフランス留学の費用も出していたのかも知れない。[※『偉人涙香』参照できたら出典を確認する。]

野間宏との関係

竹之内静雄の「陰翳(かげ)ふかき人」には他にも落合太郎に関する様々なエピソードが書かれているが、特筆すべきは京都帝大での教え子にあたる野間宏(竹之内とは旧制三高以来の友人であり、富士正晴を交えて同人誌『三人』を出していた)との関係である。
それによると落合は野間宏(1935ー1938年に京大仏文科在籍)が演習の単位を取得するために提出したフィリップ・スーポーの翻訳一篇と、卒業論文「ギュスタァヴ・フロオベェル」を戦争を挟んで80歳過ぎまで保管しており、これを竹之内に譲渡したという(『先師先人』142-145頁)。大学教員が出来のよい学生のレポートや卒論などを保管しておくことはままあるらしいが(たとえば後述の鈴木信太郎は小林秀雄や堀辰雄の試験答案を保管しており、のちに小林の「マラルメ、類推の魔について」という試験答案を題材にエッセイを書いている)、戦後野間が作家として出世したとはいえ、落合ほど長きにわたって保管し続けたのは稀なのではないか。なお野間は落合に提出したのとは別に卒論の写しか下書きを保存していたらしく、改稿のうえで『近代文学』1947年3月号に評論「マダム・ボヴァリィ」として発表している(『野間宏作品集9』岩波書店、1988年、378-379頁参照のこと)。野間の在学中に落合は言語学講座へ移っているが、過去の指導学生の卒業論文などは引き続き面倒を見たのだろう。
そんな野間は京大仏文科で太宰施門教授のラシーヌ『ベレニス』講読と落合太郎助教授のデカルト『方法序説』講読を受けていた1回生のころ、落合にきつく叱られたときのことを「”ノマッド学生”」というエッセイで回想している。(ちなみに「ノマッド」は現在カタカナ語として流行している「ノマド」のこと、すなわち遊牧民をさす。野間は京大在学中、身体を悪くしていたことに加え、戦争と軍国主義への恐怖から精神的にも不安定になっていたらしく、フランス人講師の授業に「よくおくれて行ってのろのろとして教室に入って行ったから」、名字をもじってノマッドというあだ名を付けられたとのこと。『野間宏作品集9』64頁)

 私は落合先生にきつくしかられたことがある。それは私が一回生の時のことだったが、講読がおわってから、教授室にのこのこ入って行って、授業をじっと受けるのが苦しいなどといってしまったからである。たしかに私はもはや授業に出ることができないような気持になっていたのである。しかし私は自分でそのような言葉を先生の前で口にしようなどとは考えてもいなかった。私は今後自分がどのようにして勉強していったらよいか、相談にのって頂こうと考えていたにすぎないのである。ところが私の口は私をうらぎってしまった。そして私はしかられた。私は白髪の下の光った先生の顔をみつめていたが、何を読んでいるのかと問われジイドと答えた。そして私はまた日本で自分がジイドを一番よく知っているのだなどというようなことを言ってしまった。先生は私のその言葉をきいてさらに立腹された。私がジイドを翻訳でよんでいたからである。そして先生は次の講読の時間に私にあてた。ところが私の発音は全くなっていないのだ。いまでもおぼえているが、私はアルジュレスという発音がいくらやってもできなかった。先生はさらに立腹された。そして私に家にくるように言った。私は、先生の家へ行って、長い槍のかけてある玄関で向かい合っていたが、私の眼鏡がまがっていると注意をうけた。「君は唯物論者であるのに、眼鏡をまげてかけていては、精神がまがるということがわからないのか。」私はこのすさまじく私の心をうった言葉を忘れることができない。私はなるほどなと、かえりながら考えた。先生は私の家の経済状態がどのようになっているのかをくわしくきいて、それから私をみちびく方法を精妙にとりだしたのである。(『野間宏作品集9』64-65頁)

しかし野間はべつの文章ではさらに詳細に、「ジイド(現在はジッドと表記するのが一般的であるがここでは野間の表記に従う)はほとんどすべて読んでしまったので退学する」と申し出て、落合から「ジイドはテキストで読んだのか」と聞き返され(ここでいうテキストとはフランス語原書の意味だと思われる)、そのあと眼鏡のことを叱られたと書いていたように記憶しているのだが、残念ながら当該文献を参照できないため引用することができない。[※野間にはいずれも生前刊行の『野間宏全集』『野間宏作品集』があるが、ブログ「全集目次総覧」で確認した限りでは該当しそうな文章はない。恐らく全集や作品集に収録されなかった文章のようだ。記憶をたどった限りでは古書店で買った『心と肉体のすべてをかけて──文学自伝 』(創樹社、1974年)または『鏡に挾まれて──青春自伝 』(創樹社、1972年)で読んだ文章のような気がしたのだが、取り寄せて確認したところ該当する文章は載っていなかった。]

博士論文と言語学講座への移籍

『落合太郎著作集』で「具体的言語と抽象的言語」を読んで以来、どうしてこれが言語学講座の教授になるために書いた博士論文なのかと不思議に思っていたが、京大で落合の同僚だった西洋古典学者・田中秀央(上述のように落合と『ギリシア・ラテン引用語辞典』を編纂している)の自伝的回想録に以下のような文章を見付けて、なるほどと得心がいった。(なお註釈によると以下に引用する田中の回想には一部誤りがあり、京都帝大文学部にフランス語フランス文学の講座にあたる西洋文学第三講座ができたのは1925年のことであり、太宰施門は当初助教授で教授は置かれなかった。)

 当時京都帝国大学文学部には仏文学・仏語の講座はなかったが、ようやくそれが設けられることとなり、昭和八年三月三十一日に西洋文学第三講座が出来、その内容は仏文学・仏語学で、その初代の教授として助教授太宰施門氏[一八八九~一九七四]が任命された。法学士落合太郎君は多くの教授の好意によって助教授となった。この両氏は何かしら、その間がうまく行かないようであった。
 その後、昭和一一年一〇月一九日言語学講座担当の新村出博士[一八七六~一九六七]が定年退官されることになるので、その後任のことを考える必要が生じた。そこで、東大文科言語学科出身の故をもって、私に言語学を担任せんかとの内交渉があった。しかし私は、私が動いては、日本におけるそれまでの西洋古典学の発展発達に障害を及ぼすし、恩師にも申し訳ないと考えたので、断然と御断りして、法学士ではあるが、彼は言葉というものについては、立派な一見識のある友人落合太郎君を推挙した。しかし教授たるには学位が必要なので、落合君に急いで何か書くようにと告げた。同氏もそれを諒として、やがて一論文が呈出され、その審査員を選定する必要が生じた。その際新村教授が、落合君の論文の題目では、その主審が自分でなくなるかも知れぬ故、内容は変えずともよき故、自分のところへ論文主審権が来るように題目を変えてくれぬかとの御考えを小生にもらされた。落合君も大分考えたようであったが、先生の御好意に従った。私は審査員の一人であった。その審査が何かと長引いているうちに、色々の事情もあって、落合君は九州帝国大学へ教え子進藤誠一君などの招きに応じて、そちらへ行かんかと考えられることになった。それを知った私は、ある日の夕刻彼の上京区東桜町の御宅に訪ね、極力思い留まるようにと願うた。その際折よくも同僚の故田辺元[一八八五~一九六二]から同じ意見の手紙が来たので、ようやく考を翻さすことが出来た。
 やがて新村教授主審のもとに落合君の論文は通過した。落合太郎君は昭和一二年一二月一五日教授となり、言語学講座を担当した。(菅原憲二・飯塚一幸・西山伸編『田中秀央 近代西洋学の黎明 ──『憶い出の記』を中心に──』京都大学学術出版会、2005年、167-168頁)

以上のような次第で、仏文科(西洋文学第三講座)内での太宰施門との不和に加えて、新村出の後釜として言語学講座教授をつとめたくない田中秀央の立場から、落合は言語学らしからぬ文学論を博士論文として提出し、審査にあたった新村・田中の思惑通り、ほとんど出来レースのようなかたちで博論審査を通過して言語学講座の教授におさまったのであった。なお田中は西洋文学第二講座(英文学)の教授をつとめていたが、正式に英文学科という名称でないこともあってもっぱら西洋古典学を講じ、英文学は助教授ほかの教員に任せていたという。
先述のように落合の博士論文「具体的言語と抽象的言語」は註も文献の書誌情報も記されていない学位論文とは思えないものだが、『著作集』を見てみると、1938年発表の論文「伝統主義」(『著作集』261-275頁)や1940年発表の「芸術のための芸術」(279-298頁)など博士論文提出後の論文に加えて、提出以前の1933年に発表された『岩波講座 哲学』掲載の論文「言語」(299-337頁)や、法学部教員時代の論文「フランスの貴族」(1924年発表、411-462頁)でも註や書誌情報を付している。「具体的言語と抽象的言語」に註や書誌情報が欠けているのは、上記のような理由により急ぎかつ間に合わせで書かれた論文ゆえのことであろう。変更したという論文のもとの題目は、もしかすると副題になっている「言語学的文学論」のほうだったのかも知れない。
しかし田中は落合と太宰との間がしっくりいかなかったというが、桑原武夫の『著作集』解説によれば落合は太宰施門が京大仏文に就職できるよう藤代禎輔に斡旋を依頼するなど、深い関係があったはずだ。両者のあいだに不和が生じたとして、それは何のためだったのか。ここでは不和の原因を両者の文学観の違い(学生を指導する上のことも含め)にみる仮説をとりたい。

太宰施門の文学観と落合太郎

太宰施門は当時まだ日本人教員がいなかった東京帝大仏文科で(仏文科最初の日本人教員になるのは太宰の後輩の辰野隆である)マリア会神父でもあるエミール・エックの指導を受けた。エックはカトリックの司祭ということもあって「文学に宗教的批判を加へることは、常に忘れなかつた」(鈴木信太郎「二人の恩師」)ような人であった。エックの授業を受けていた哲学者・仏文学者の河野与一は自伝的回想「学問の曲り角」で以下のように振り返っている。(「須川」とは鈴木信太郎の同期にあたる須川弥作のことで、のち九州大学の教授となる。)

古くさいフランスというものは高等学校でアンベールクロード先生から覗かせて貰っていたが、エックさんは又一層正統派の古典主義者で十八世紀を認めずヴォルテールやルソーをけなした。(「そのくせ読んでいるんだよ」と悪先輩の須川は時間中にささやいた。)ヴェルレーヌの『秋の歌』も手ひどくやられた。(行の末が冠詞で終わる「パレイヤラ」の憎々しい発音など。)たまに仏作文を差出すと、エックさんにすっかり直されてこっちの思想は元も子もなく書き換えられてしまった。図らずも愛国心が却ってあの教室でかき立てられると云って苦笑いすることもあった。(「学問の曲り角」原二郎編『新編 学問の曲り角』岩波文庫、2000年、234頁)

ほかにも河野与一は、のちに個人全訳することになるアミエルの日記を「あんなもの陰気でやり切れない。第一、悪文だ」(235頁)とけなされている。このようなエックの文学観を、どうも太宰は色濃く受け継いでいたらしいのである(村田裕和「仏蘭西学会の設立と伝統主義論争──エミール・エックと太宰施門の第一次世界大戦」『比較文学』第50巻)。同じくエックの指導を受けた鈴木信太郎の評伝(鈴木道彦『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』筑摩書房、2014年。なお道彦氏は信太郎の子息)によると、太宰施門の著した『佛蘭西文學史』(1917年)は17世紀に多くのページを割く一方で18世紀にはごく簡略にしか触れておらず、この著書に序文にかえて掲載されているエックからの書簡は、そのことを賞賛しているという。孫引きになるが、エックの18世紀批判を以下に引用する。

 この世紀は『哲学者の世紀』と言はれて居て、一般の文明史上から見ればむろん重要な役目を演じて居りますが、その文学的価値、芸術的価値、又特に哲学的価値に於いて、遺憾ながら余程貧弱な時代であります。この時期の文学者は盛んに論争に努め、多くの思想を呼号し、極めて重大な行動なり事実なりを準備し、佛蘭西全国に不吉な、革命的な多くの萌芽を蒔き散らして居ります。併しその作品は十七世紀の作物の美と完成と道徳的な価値と余程距離のあるものであり、且つモンテスキゥとビユツフォンを除けば、殆ど総ての十八世紀の文学者、殊にその最も偉大な二作家と言はれて居るヴオルテエルとジヤンージヤツク・ルソオとが可なり醜悪な人物であつた事は認めねばなりません。その影響は佛蘭西ででも外国ででも著るしかつたのですが、遺憾ながら総ての方面に好結果を齎して居ないのであります。(『フランス文学者の誕生』112-113頁)

エックは同じ書簡の中でほかに19世紀末の「偉大な価値を具へて居る作家」を挙げているが、そこではポール・ブールジェ、モーリス・バレス、ルネ・バザン、アンリ・ボルドー、シャルル・ペギーなど、エック自身が保守的なカトリックであることをうかがわせる人選がなされている(『フランス文学者の誕生』113頁)。このような17世紀の古典主義を文学の正統とし、宗教批判を含む18世紀やそれ以後の文学を認めないエックの立場は、上述のようにそのまま太宰施門にも受け継がれた。こうした太宰の立場は、たとえばジイドやスーポーのような当時の現代文学に入れあげる野間宏のような学生に寛大であった落合と相容れなかったのではないか(もっとも太宰施門の博士論文は古典主義の作品ではなく19世紀のバルザックを取り上げたものではあるのだが)。
竹之内静雄の前掲書によれば、野間宏が演習の課題として訳したスーポーの文章に、落合は〈実によし!〉という評価を与えている(竹之内『先師先人』143-144頁)。落合太郎は自身の専門こそモンテーニュやデカルトといったモラリストの文学や17世紀の哲学思想であったものの、シュルレアリスム運動に参加したスーポーの翻訳に〈実によし!〉の評価を与えているわけで、そうした学生に対するスタンスとは、太宰は相容れなかったのだろう。田中秀央が記述するような両者の不和は、案外こうした文学観の相違によるものなのではないかと思う。

誤植に厳しい落合太郎と、せっかちな田中秀央

付け足しのようなかたちではあるが、落合太郎と田中秀央の関係についてもう少し触れておこう。落合は上に挙げた若き日の放蕩使い込み事件のように一面でだらしないところがあったのかも知れず、それは後年に至っても病弱を理由にした原稿や校正刷りの提出・戻しの遅延などにあらわれているのかも知れない。前掲の『田中秀央 近代西洋学の黎明 ──『憶い出の記』を中心に──』は田中の自叙伝と書簡およびそれらの解題を一冊にまとめた本であるが、その解題にはせっかちな性格の田中に触れて以下のような記述がある。

もう一つ、落合太郎との共編『ギリシア・ラテン引用語辞典』(岩波書店、一九三七年)も、現在まで増補版・新増補版と版を重ねて長く利用されている辞典である、同辞典編纂については、一九三六年八月一一日付の落合太郎書簡に、恐らく田中秀央から校正の遅れを指摘されたのに答えた返書があり、せっかちな秀央と対照的な落合太郎の性格を彷彿とさせる内容となっている(史料編2-9-1)。(飯塚一幸「田中秀央の人的ネットワークと学問的業績」『田中秀央 近代西洋学の黎明 ──『憶い出の記』を中心に──』343頁)

ここで指示されている落合の田中宛書簡(1936年8月11日付け)から該当箇所を以下に引用する。

御一統様御元気の由何よりと存じます。カード二度目も拝受しました、先便之御受取申し忘れて甚失礼、御ゆるし下さい、何しろ連日の暑さ(湿気多く一層不愉快)で半病人です、しかし明朝岩波へ発送するE部にて校正は一応をはりますから御安心下さい(『田中秀央 近代西洋学の黎明 ──『憶い出の記』を中心に──』249頁)

しかし落合の作業の遅れには、校正にひどく気を遣うという完璧主義的な性格にも起因しているのではなかろうか。竹之内静雄は、ある上司のために乱脈をきわめ、本を出しても誤植や図版のミスなどがひどく多かったという当時の河出書房の内情に触れて、以下のように書いている。

 落合太郎教授は、著書の誤植に対し極めてきびしく、S社から訳書が出る時見本で誤植を発見すると、ウナ電を打って発売をさし止めた。
 S社の最高責任者は京都へ急行して平身低頭、ようやく正誤表を入れる事でお許しを頂いた、という。
 私は落合先生に本をお願いに行かれない。それは落合先生だけの事ではなかった。いったい何のために私は出版に従事しているのだ、という思いが絶えず起る。かねのためか、と。(『先師先人』167頁)

落合の訳書は限られているから、恐らくS社というのは「デカルト選集」を出した創元社で、落合が担当した訳書とは『方法叙説』のことであろう(なお上述した野間宏が落合によるデカルト講読を受けていた時期と『方法叙説』刊行の時期は近いので、落合は自分が翻訳中のテクストを授業に使っていたのかも知れない)。ちなみに「ウナ電」とは電報の速達のこと。かように校正に厳しかったことを考えれば、落合と田中の書簡の遣り取りも、単にルーズな落合とせっかちな田中の衝突というよりは、校正にこだわる落合のスタンスがあらわれたものだといえるのではないか。

名校長・名学長としての落合太郎

落合太郎は戦後、奈良女子大学の初代学長として長い任期をつとめたが、学長退任後もその名学長ぶりは知れ渡っていたらしい。西村一朗氏のブログ記事によれば、

旧制・三高時代から「名物校長」のようであり、奈良女子大に来てからもそうで、例えば卒業式式辞などは、京大総長等とは別に必ずといってよいほど新聞に報道され、私が京大生の時も、その記事を見た記憶がある。

とのことである。管理職向きの人物だったらしく、桑原武夫によれば、

晩年管理職を歴任され、雑務はつらいとよく私たちにこぼしておられたが、実はこうした職務がかなりお好きであったらしい、というのが親友田中秀央博士の御観察である。(『著作集』528頁)

とのこと。落合自身も旧制三高の校長時代が特に思い出深かったらしく、懐かしげに回想した文章「なつかしい三高」(『著作集』486-488頁)を残している。

 奈良に移ってからまる七年になるが、東京の一族の子どもらはいまだにわたしのことを京都のおじさんとよぶ。小田原で療養生活したり、ヨーロッパに放浪したりした、そのあいだの八、九年をべつにすれば、学生時代から通算して三十いくねん、わたしはほとんど京都でばかり暮した。六十歳を越えて三高の校長をつとめたときが最後になる。この勤めだけは、任にたえられるかぎり、わたしとしては一日もながくつづけたかった。生徒は優秀で、すべてに物わかりがよく、というのは論理的で、筋みちの正しいことにはことごとく柔順だった。先生たちも立派な人がそろっていて、なにひとつわたしを煩わすようなことがなかった。わたしは校長であることを忘れて、ただの老書生のままにふるまっていればよかった。山川は日夕に佳しというしだいで、わたしにもようやく安住の感があったのである。不慮の出来事、たとえば厳冬一月の真夜なかに、自由寮出火というような事件がないではなかった。寮生が電熱器でモチをやいた過失からであった。過失はいたし方ないが、かわいそうに逃げおくれた生徒をひとり殺してしまった。これにはまったく心を痛めた。いまでも火事と聞くたびにふるえあがる。
 わたしは未練がましいことをきらうが、三高のような、学校らしい学校のなくなったことを残念におもう。いかにわたしが気楽だったからといって、こればかりは身勝手でいうのではない。戦後まもなく、学制改革について論じ合った東京の会議で、わたしは旧制高等学校をなにかの形で存続させたく、それをつよく主張した。が、多数決でやぶれた。わたしがたまたま高等学校校長の現職に在ったために、あらぬ誤解をうけたりした(会議の委員のうち、高等学校校長は天野貞祐君とわたしだけだった)。わたしにむかって失言した委員は、もと東大教授で、善良な工学博士であった。わたしはどなりつけた。相手は、ふだんわたしの信頼する友人だが、すぐにその場で陳謝した。あとで笑い合った。その会議はおよそ五年間つづき、総会だけでも数百回におよんだであろう。功罪はしばらくべつとして、わたしどもは勉強もしたし、真剣であった。(『著作集』186-187頁)

西田幾多郎にモンテーニュをすすめた落合太郎

最後にひとつ、微笑ましいエピソードを引いて本稿を終えようと思う。西田幾多郎が落合にモンテーニュの『エセー』を読んでみたい、と相談したときのエピソードである。

 これも思い出ばなしである。古い話である。西田哲学の西田先生が『エセー』を読んでみたいとおっしゃった。わたしは八冊本のドイツ訳とヴィレーの三冊本を持参した。源氏は須磨、明石まで読めば、およその見当がつくという俗説がある。モンテーン(先生の発音)を読むのにわるいかも知れんが、はじめに何から読んだらいいか、と言われるので、やはり第一巻で「子供の教育」、第二巻で「書物について」、第三巻では「三つの交わり」「ウェルギリウスの詩句」「人相」などがよろしいでしょうと申し上げた。まだ一つ二つあったように思う。数日後お目にかかったら、いやどうも、モンテーンという人はまったく珍らしい人だ。最上の意味で物わかりのいい人だ。類のない人だ。どうもありがとうとおっしゃった。「マルクスゆゑにいねがてにする」と歌におよみになったくらい、弁証法論議のやかましかった当時である。先生も肩のこりをすこしはほぐされたであろうか。「三つの交わり」の中の書斎と散歩の話もたいへん面白いといわれた。西田先生も、歩きまわりながら物を考える方であった。(『著作集』133頁)

参考:『落合太郎著作集』「著作目録」遺漏リスト

「春夜喜雨」『学友会雑誌 34号』東京府立一中、1901年
「永生の獲得」『校友会雑誌 175号』第一高等学校校友会、1908年
水野葉舟・高村光太郎・落合太郎『智慧』阿蘭陀書房、1918年(※童話集『こほろぎと象』と同じ阿蘭陀書房から刊行されているためリストに含めたが、国会図書館サーチによると恐らく落合太郎という同姓同名の歌人がいたようで、もしかするとそちらの著書かも知れない。)
「ゾラとモンテーニュ」『浪漫古典 第3輯 (エミイル・ゾラ研究)』、昭和書房、1934年
「丸川順太郞編「コンサイス佛和辭典」」『科学ペン』三省堂、1937年4月
『學問について 復員學生諸君へ』京都帝國大學學生部、1946年
「そのころの三木君」谷川徹三・東畑精一編『回想の三木清』文化書院、1948年(※未見なので何とも言えないが、三木清訳デカルト『省察』岩波文庫版に落合が寄せた「後記」と同一の文章の可能性もある。もっとも岩波文庫版『省察』の後記も『著作集』の著作目録からは漏れている。)
「序」都筑博『ニーチェ論ノート』比叡書房、1949年(都筑博は1948年に早世した独文学者。戦後は旧制三高で教鞭をとっていたため、彼の遺稿に校長の落合太郎が序文を寄せたものと思われる。)
「序」大浦八郎『三高八十年回顧』関書院、1950年
「無題」『中央公論 67(8)(763)七月特大號』1中央公論新社、1952年7月
「けさの新聞に」『図書 (40)』岩波書店、1953年1月
「思い出すままに」鈴木俊郎編『回想の内村鑑三』岩波書店、1956年
「伸びて行く」『わが校五十年の教育』奈良女子大学文学部附属小学校、1962年

追記(別記事)

追記①

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