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やさしくないオベンキョウ概論


どうして勉強するのですか?


 私自身はそう問われるほど勉強はしていない。都度気になることを調べる程度の人間だ。ピンキリってどっちがいい方なんだっけ? とかカップラーメンって案外1分で食べられるようになってるよな、とか。バリカタの細麺が好き。ネットニュースをたまに読んで気分悪くなって閉じるような、世間の事情には疎い人間だ。

 でも、最近買って読み始めている本が4冊ある

『うしろめたさの人類学』著:松村圭一郎

『WHAT IS LIFE? 生命とは何か』著:Paul Nurse 訳:竹内薫

『超圧縮 地球生物全史』著:Henry Gee 訳:竹内薫

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 著:三宅香帆

 これを読むぞ!と買った時は明確に勉強しようという意思が働いていたように思う。そんな気負いがないと読めない程度には骨太な本たちなので、さしもの私も勉強、という意識を持った。


読まなくてもいい話


 そもそも、わたしは世間で言われている勉強というワードが好きではない。読書とかもそう。なんだか偉くてすごくて、おそらく素晴らしそうという感覚をもって無邪気に礼賛されているものであるので、とっても嫌いだ。私は偉ぶって勉強をしているわけでも本を読んでいる訳ではない。ボランティアもその類だ。どの角度から見ても完璧な、球のような善などどこにもない。ボランティアが蔓延れば搾取が横行するし、書を捨て町を出たほうがいいのも一つの真実であるし、勉強だって笠に着だせば経験に劣る。

 「疑うことをやめる」と「信じる」は同義でない。信じながら、疑いを持つことをやめようという怠惰が浅ましいのである。そして不勉強な人ほどその傾向は強いんじゃなかろうか、という疑念があるので、私は(この表現は大変不服ながら)勉強しなければという気持ちになる。私も人間だ。もれなく、ただ生きていれば堕落する。堕落がただでさえ不全な脳を膿ませるのだから、そもそもインプットをやめて生きるなんて恥ずかしいこと、私にはできない。その期間に開きや波はあれど、もう勉強しなくていいやと思う日は来ないことを祈っている。



視線は等しく熱光線


どうして勉強するのか、興味があるからだ。興味を持つということは見つめること、注目することだ。それは加害の端でもある。だって、街中でジロジロ眺められてもみなさい。不快というか、怖いでしょう。インターネットでも同じだ。指をさすこと、指摘することは良し悪しに関わらず害なのだ。

 興味をただもって、表層をなぞって知ったような気になるとどうなるか。憶測と願望と事実の区別もつかない愚物になる。それではいけない。

 だから、興味を持ったからには学ぶ、学び続ける。そして、適宜口をつぐむのを覚えることも肝要だ。何年ROMっても結局多くの人間は素人で、有限の生物で不完全な偏った知識の総体であることを確信し続けなければならない。物質的に有限な私たちは、無限のカオス(世界)に多分なスパイス(解釈)を混ぜ込んで、どうにか食って生きている。


 ひとつ間違いのないように述べておきたいのは、有限であることは悲観に直結しないということだ。人間は生肉を食べない生活をしているが、どうして生肉を食ったら腹を壊すのだ、私はダメな人間だ…とはならないだろう。そのようにできているのだから仕方ない。生物的な限界を見極め、自分の努力の方向や余地を理解するのに、生物史の概略を私は知りたい。

わたしの長ったるい言い訳


 少々(それも説教くさい話を!)喋りすぎてしまった。共感のない言説をただそうであるというだけで疎ましく思う諸氏ではないと信じているが、いい加減恥ずかしくなったので、これまで氷山の一角を提示することで終いとしたい。

 表に出す用のうすら甘く軽々しい言い回しを用意できなかったことを謝罪するとともに、ここまでお目通し頂けましたことに格別の感謝を。先にあげました本を読んだら、あるいは読みながらまた思索を書いていけたらいいな。


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