こいつアホやん。
「50歳になったらサックスで食っていこうと思ってるんで」
そう言うと、職員室の空気が一瞬で凍りついた。
〝こいつアホやん。無理だって〟
そんな無言の心の声が職員室に響いた。
数ヶ月前にギターを始めた生徒がいて、彼が音楽の道に進みたいと言ったら職員室で失笑が起きた。
「無理だってあの子には。現実を見なきゃ」
僕は何も言わずに黙ってその話を横で聞いていた。
きっと、僕も彼と同じように思われたんだろう。
ほっとけ俺の人生だ
できるかできないかではない。
やりたいかやりたくないか。
安定した仕事を見つけへばりつくことが、自分の生きる目的ではない。
自分が心から挑戦したいと思うことに挑戦するかしないかが、僕の中では一番大切なことだ。
今の仕事を続ける限り、今の生活を続けることはできる。
安定した給与、安定した保険、安定した生活。
このご時世、そんな生活ができることは素晴らしいことだと思う。
仕事のやりがいもあるし、色々なジャンルの人たちとたちと繋がっていくこともできる。そして自分なりに真剣に取り組んでいる仕事でもあるし、周囲との信頼関係もある。
40歳からサックスを始めて、50歳でサックスで食べていく?
現実的でないことは百も承知だ。
でも、僕は目指している。
いや、百も承知だからこそ目指している。
あなたの物差しと僕の物差しは違う。
そして人生観や人生の中で大切にしている軸も。
僕は30代で親友が2人も亡くなっていった。
一人は目の前で。もう一人はある朝、起きたら亡くなっていた。
死を目の前にして何かを後悔しても、その後悔が報われることはないことを僕は知っている。
LIFE SHIFT(ライフシフト)
数年前に世界的にヒットした書籍がある。
多くの人が耳にしたことがあるかもしれないし、本屋で目にしたこともあるかもしれない。
〝LIFE SHIFT (ライフシフト)〟
これから、多くの人が100年を生きる時代に入る。
今まで「教育→仕事→引退」となっていた人生のモデルが崩壊し、マルチステージへ突入するという時代に入り、スキル、健康、人間関係といった「見えない資産」をどう育んでいくかという問題を定義している書籍だ。
そして仕事というものも、70歳、80歳になっても続けていくことが特別なことではなくなる。
そもそも、僕自身も80歳になっても稼ぐつもりでいる。
年金生活は望んでいない。
僕は今も昔も数年単位で仕事を変えている。
もはや何が仕事で何が遊びかも境目はないが、一つのことをずっと続けて収入を得ていくという考えは全くないし、一つのジャンルの世界でちやほやされていくことも好んではいない。
今の仕事を続けていけば、教育というジャンルや高校を軸とした地方創生を手掛ける者として、それなりに際立つ存在になれるかもしれない。
バドミントンだけにコミットをしていれば、何も言わずともバドミントンの世界ではそれなりに名が通る。
石を編むマクラメの技術だってオリジナルの作品を作り続けているしファンもいる。
でも、そんな世界で賞賛され続けると、自分自身が勘違いを起こしてしまうことも知っている。居心地のいい世界は、時に盲目になり気がつけば安住という居心地の良さから、新しいことへ挑戦する意欲と機会を失う。
それが今からサックスを始めて、50歳になった頃にサックスで食っていこうとすると、時にはその世界で笑われるだろうし恥もかく。
それくらいのことは容易に想像がつくし、わざわざ誰かに笑われることに挑戦するリスクを今から負う必要もない。
40代でサックスを身体に叩き込み、50代でそのスキルを使って生きていく。
今更なのかもしれないが、それであっても僕は僕が描く将来に向かう価値があると思っている。
今、僕はそんな人生を歩きたいと本気で思っている。
変身し続ける
「変化」ではない。
「変身」することに、恐れを抱きたくない。
だからこそ、全く違うジャンルのスキルを身につけて変身をする。
キャリアアップを目指して、今やっている仕事の延長線上や教育に関わる仕事を追いかけるつもりはない。
それは自分のためでもあるし、周囲のためでもある。
50歳で全く違うジャンルの仕事に就くとしたら、他人はどう感じるだろうか。
例えば、会社の営業マンが漫才師へとキャリアを変えたならば。
収入面では大きく落ちるかもしれないし、そもそも漫才を仕事として収入を得ることができないかもしれない。
不安でいっぱいになるだろうが、僕はそこに飛び込める勇気がある。
そしてそこまでのプロセスとストーリーが、変身を遂げた時の自分の味になることも知っている。
サックスで勝負をするということは、音楽で勝負をするということではない。
僕がサックスで勝負をするというのは、そこまでのプロセスとストーリーまでもが一つのコンテンツとして楽しめると思っているからだ。
40歳から始めて50歳で勝負に出ようとしているからこそに価値がある。
ストリートでサックスをプレーしながら旅をして、行く先々で自分の作品を売る。
その時には、バドミントンでどうだったとか、教育に関わる仕事をしていたとか、そんなものはどうでもいい。
簡単に過去を手放す覚悟がある。
僕がサックスをやる理由
中学に入った頃、吹奏楽部に入りたかった。
でも、バドミントンの技術が優れていたため、北海道の強化指定選手に選ばれ、その道に進むことは許されなかった。
もちろん、憧れていた楽器はサックス。
しかし高校に入った頃、隣の席に座る女子が吹奏楽部のサックスプレーヤーだった。
一度だけ彼女からサックスを借りて、サックスプレーヤーもどきの写真を撮ったことがあったが、今でも実家のアルバムには眠っている。
そして、彼女は今でもサックス片手に旅をしている。
さすらいの旅人音楽家のように。
あれから数十年。
たまたま今の町でアルトサックスを安価で譲ってくれた人がいた。
あれよあれよという間に、僕が憧れていたブランドのテナーサックスが、破格の値段でやってきた。
子供の頃に憧れていたものが手に入り、どうせなら本気で挑戦したかった。
趣味ではなく、本気で。
僕が今本気でサックスをやる理由は、子供の頃に抱いた憧れを大人になったからという理由で過去のものとして終わらせたくなかったから。
今なら年齢を言い訳にできる。
今なら仕事を言い訳にできる。
今なら体調を言い訳にできる。
今ならお金を言い訳にできる。
そう、他人には。
でも、僕は子供の頃に抱いた憧れを自分に言い訳したまま人生を終えるつもりはない。
「こいつアホやん。無理だって」
そう誰かが思ったとしても、僕は僕を信じてる。
自分が自分を信じないで誰が僕を信じるというものか。
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