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愛を持ってブチギレる

舐め腐った態度を取ってきた生徒がいた。

僕の心は一瞬で煮え立った。
「舐めんな、小僧」と。

速攻、体育館から連れ出そうとしてブチギレる寸前で、一度考えた。

〝自分は舐めた態度を取られたから、この生徒にブチギレるのか、それともこの生徒の将来を考えた上でブチギレるのか〟と。

感情に任せ、この生徒にブチギレて怒りをぶつけ、萎縮させることは簡単にできるが、それは自分のエゴ。
それに彼らは数日後に僕と見学旅行で沖縄に行く。
楽しみにしている見学旅行を、萎縮させたまま一緒に行くのは少々酷ではないかとも思った。

しかし一方で、今の彼の態度を見逃して、今後、彼に取ってそれは本当にプラスになるのか。
このまま見逃すことは自分が嫌われたくないからではないのかとも考えた。

1分ほど冷静に考えた後、僕は彼を体育館から連れ出すことにして、彼が初めて見るであろう形相で静かに口を開いた。


「お前、舐めた態度かましてんじゃねえよ」



怒りたくないのでなく怒れない

「時代の流れ」

その一言で済ませば、色々な事柄やものの考え方、教育思考や人間関係は大幅に変わった。

当たり前ではあるが、僕自身のものの考え方も若い頃と今では大きく違う。
今の学校に勤め、部活で生徒を教えるようになってからも、できるだけ生徒に対して怒るようなことは避けてきた。

それが、本来ならぶちぎれてもおかしくないような場面でも。
なぜなら、僕自身が常に怒られながら部活を続けていたこともあって、同じような状況下で部活をさせたくなかったし、厳しい部活だと思われたくなかった。

もっと言えば、僕が勤める学校では部活に重きを置いているわけでもなければ、中学校に通わなかった生徒や、様々な経歴を持った生徒が複数在籍し、彼らのメンタルや忍耐も耐性が強いわけでもない。

しかし、これらはちょっとした理由づけに過ぎず、僕自身の心のどこかでは「嫌われたくない」と言う気持ちもあると言うのが本音だったのかもしれない。

学校という場所に勤めて、時々感じていたこと。
教員同士であっても、教員が生徒に対しても〝怒る〟ということがめっきり無くなっていると感じていた。

そんな矢先に、流れてきた一つのニュース記事。
記事はイチローのものだった。



怒らないという無責任

「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいなるかな。僕が初めて高校野球の指導にいったのが2020年の秋、智弁和歌山だね。このとき既に智弁の中谷監督もそんなこと言ってた。なかなか難しい、厳しくするのはと。でもめちゃくちゃ智弁は厳しいけど。これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。(中略)

やはり言葉というものは、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」が大きく左右する。
これを、名の知れていない指導者が語ったところで「時代遅れの思考」と一蹴されるだろう。


イチローはこの記事で生徒に怒れないことは、自分自身の責任を避けており、生徒にとっては残酷なことだと語っていた。


この記事を読んで自分自身を振り返ってみた時に、怒られるべきところで怒られる経験がないまま今に至っていたら、何の結果も何の力も持つことのない大人になっていたかも知れなかった。

人間、自分に厳しくすることが、一番難しい。
バドミントンという世界の中で僕が全国大会で優勝できたのは、僕が自分に厳しかったわけではなく、僕を指導してくれた指導者が自分にも他人にも厳しかったから。

これは僕自身が一番実感している。
あの指導者なくして、今の僕はいない。
僕は常々、教えるジュニアたちに語ってきたことがある。

「僕は全日本ジュニアチャンピオンになったのではなく、僕はチャンピオンにさせられただけ」と。


彼らは自主的に自らの能力を上げれるほど、技術も心も出来上がっていない。
それを分かっていて、正そうとしないことはただの無責任コーチと言われても仕方のないことかもしれない。



愛を持って

イチローのこの記事を読んでいなければ、僕は怒りをグッとこらえて我慢していただろう。

彼を呼び出す時に、最終的にキレると決めたのは彼に対する〝育成愛〟があったから。

その生徒は、卒業後には格闘技をやると口にしている。
僕自身も格闘技が好きで色々なことを経験し、海外でも色々やっていたのでそれらの経験を彼にシェアすこともある。

彼がバドミントンをやっているのは、他に入れる部活がないからだが、チームのエースとしてきちんとやっている。
卒業後に格闘家を目指すことに異論はなく、むしろ背中を後押ししている。
だからこそ愛を持ってブチギレることにした。

「お前が格闘家を目指すのなら、二度と俺以外の指導者に対しても舐めた態度をかますな」と。


気持ちの半分は自分に対して二度とその態度は取るなというエゴの気持ち。
もう半分は、いずれ格闘技を始めた時に厳しい指導者の元でもやっていける選手になってほしいという気持ち。


彼は元々、中学校にはほぼ行っていない。
他人に本気で怒られた経験は、もしかすると初めてかもしれない。

本当に自分がやりたい競技は格闘技であることは知っている。バドミントンという本命ではない部活動で、僕に怒られることは不本意であり、ふてくされるものと思っていたが、予想に反して反省の色を見せ背筋を伸ばした。

その態度を見た後にいつも通りの部活へと戻したが、逆にいつにも増してハキハキとやるようになり、いつもよりも張り切り、表情もスッキリとしたよように見えた。



本気で将来を一緒に考える

「教育者ではないので教育はしない」

そう学校には伝えてあるが、実際には教育を〝してしまっている〟時もある。
どうせ何かを教育するのならば僕の希望としては、存在だけで教育ができる人間でありたいと思っているが、やはり口で伝えなければ伝わらないこともある。

僕にキレられた彼は、僕が若い頃オーストラリアで生活していた話を聞いてから、オーストラリアでの仕事を卒業後に考えるようになり、どのように稼ぐか、生活はどんな感じか親身に聞きにくることが増えた。そんな進路を考える生徒が一人、また一人と学校内で増えていくことは嬉しくもある。

彼らにとって進学か地元就職かの二択しかない選択肢に「世界を旅する」「海外で働く」という他の選択肢を、僕は自らの経験を通して描かせてあげている。

「え?そんな簡単なもんなの?」と、感じるように伝え、海外へのハードルを下げることによって、身近に、尚且つ自分たちでもできることなんだと思わせる。まるで、隣町で生活をするかのようにイージーなことだと。

僕個人の意見で言えば、高卒で就職か進学の二択しか見せることのできない教育はあまりにも選択肢がなさすぎると感じている。僕たちの生きる地球がもこんなに広いというのに。


「人に怒るのは好きではない。怒られる方も気持ちが良いものではないのも知っている。だからこそ、二度とあのような態度は取るな。そして俺にこんなことを言われるな」

そう伝えた彼が、海外で働きながら格闘家を目指し、僕との高校での出会いがターニングポイントだったと振り返れるような人生を歩んで欲しい。


その為に、僕は君に愛を持ってブチギレることにしたのだから。

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