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野うさぎが草原を軽やかに駆け抜けて行く。
道路の真ん中には大きなツノを生やしたエゾジカが堂々と立ちはだかり、
空ではオオワシが地上の獲物を狙っているのか、グルグルと旋回していた。

車から漏れるカントリーミュージックが、軽快に僕の心を弾ませてくれた休日の昼下がり。
少し車を走らせれば、サファリパークのど真ん中を運転しているのとなんら変わりはないような町を走る国道275号線。

野生動物の彼らには規則も決まりもない。
道路脇から突如飛び出してくるエゾリス、道の真ん中で車を気にする様子もなく居座るキタキツネ。集団で行動をして畑の作物を食い荒らす鹿の群れもいれば、道路にはアライグマもタヌキもヘビも現れる。

町は待った無しで過疎化していくが、この町との相性は良いようだ。
便利な生活が必ずしも豊かな生活ではないと気づくには、不便な生活をしなければ気づかないこともある。

その不便さを差し置いても、豊かな山間の暮らしには自然の楽しさが宿っていて楽しめる。


好奇心と持続心

知らない国や土地に行って、20代の頃のような高揚感はどこかで磨耗してしまった。小慣れた旅人を気取り、外国や知らない町を歩く自分が、昔ほど高揚せず自分自身に寂しさすら感じた数年前。

今となっては新しい町や国よりも、若い頃に旅をしたどこかの小さな田舎町に足を運ぶ方がよっぽど胸が高鳴る。
まだ見ぬ国や町を見たいという好奇心は、旅を始めた頃と同じ温度には戻らない。

いつの日か、人生の終わりを見る前に、かつて歩いた東南アジアの田舎町をのんびり回ってみたいと思っている。あの頃の僕の気持ちと、今の自分を擦り合わせてみたい。
ただただ心のエンジンに好奇心というガソリンを注ぎ続け、どんどんと自分の世界観を広げていったあの頃に。

今では長きにわたり旅をすることがなくなった変わりに、生まれ育った北海道の生活を、より豊かな自然環境下で味わっている。

僕にとっては毎朝のことでも、多くの人は鳥のさえずりで目を覚ます生活ではないだろう。キツネやタヌキがそこら辺を歩き回ることを見ることもない。

こんな野生動物たちと生活できる時間を、少しでも長く持続的に続けば良いと思っている。
要は、今の土地と生活に満足をしているのだ。

まるで人間に自然界の自由を伝えるかのように、走り回る野うさぎや、車の前に立ちはだかる野生の鹿に飽きることなく、オオワシの優雅な旋回を眺めては吐息さえこぼしてしまう休日の午後。


北国の移住生活

沖縄の宮古島から兵庫の淡路島。
果てはメキシコでマヤ族と生活を共にし、ネパールやベトナム、そしてオーストラリアでも生活をした。

僕の今住む町は北海道の北にある、山間に囲まれた小さな小さな町。
生まれ育った旭川から車を40分も走らせれば着くが、生まれた町ではなくとも、ほぼ地元の生活圏と変わらない。

今までで一番寒く、一番雪深い不便な町だが、大きな不満はない。
多くの人がイメージをする、南国でのんびりとした移住生活や、畑をやりながらの自給自足生活でもなく、ゆったりと過ごせるほど暇もない田舎生活だが、それはそれ。

自分のやりたいことや個人の仕事、町の仕事もウエイトが高いが、友人との遊びや依頼されるイベントへの出演もできるだけ疎かにしないようにしている。こなしているタスクが多すぎて、数ヶ月先まで予定があれやこれやと次々と入ってくる。

「忙しい」と言葉にするのは性に合わない。
今まで忙しいと感じるような生活も長らくしていなかったし、やりたいことはあっても〝やらなければいけない〟ことをやっていなかったから。

この〝やらなければいけない〟ことを小さな田舎町でやっている僕は、のんびり田舎生活とは程遠い存在になってしまった。


今、思うこと

自分がやりたいこと感じることには向いていないのに、やらなければいけないことはなぜだか向いている。
そう考えたことはないだろうか。

また、その逆でやらなければいけないことには、どうも向いている気がしないが、やらなければいけない。そしてやりたいことは自分に向いている、とも。

何かを始めるより、何かをやめることの方がよっぽど難しい。
清い人は、すっぱりと何かをやめる決断ができる人、そう思う。

新しい仕事を始めた人よりも、長く続けてきた仕事を辞める人を見た時に、他人が驚くのは、それだけ人は続けていたことの何かを辞めるのが簡単ではないことを、心の底で知っているからではないか。

何が言いたいわけでも、深い意味があるわけでもない。

何かを書き残しておきたいときに、書くことを放棄してしまうと、次が書けないことを僕は知っているからこそ、書き続けている。

僕にとって書き残すということは、止めてはいけない表現の一つ。
20年以上は何かを常に書き続けてきた。

ここまで続けてきたことは、きっと見えない誰かに何かを伝えるためだからなのかもしれないし、それは自分自身なのかもしれない。


そんなことを考えながら僕は今日も国道275号線をひた走る。
誰に読んでほしいわけでもない、頭の中を駆け巡る独り言を、心に留めておくかのように。

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