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結果にこだわらない

地獄のステージを味わった。

サックス演奏の依頼を受けて、ステージに立ったものの最初の曲で頭が真っ白になり、全くプレーできなかった。
文字通りの「頭の中が真っ白」に。

「恥ずかしかったか?」と問われると、もちろん恥ずかしかった。
でも「どうだった?」と問われると、良い経験ができたと言える。

サックスを始めて1年半。
それなりにいくつかのライブをこなしてきたが、もちろん今でも緊張はする。
「緊張しない人だと思ってた」と時々言われるが、他の初心者と同じように緊張はする。

なぜなら、自分の実力を知っているし、サックスや音楽で人前に立つ経験を何百回もこなしているわけではないから。

「サックス始めて1年半くらいでして」

プレーを聞いてくれる人にステージ上でそう言って自らハードルを下げては、自分の面子を保っていた。

“1年半ならミスしても仕方ないよね”

そう、思われたいから。

これから綴るのはそんな“腰の抜けた”男の話。



行きたいとこへ行くために

いつかはこんなこともあるとは思っていた。

「サックス始めたんだよね」

周りの友人にそう言うと決まって「うちのお店でやってね」なんて言われては“何年後になるかな”なんて思っていた。

しかし1年も経たずに人前でプレーするようになり、バンドとのセッションもした。
音楽を人前でやるのは、40歳を超えてサックスを始めてから。

今では1ヶ月に1回は、どこかでライブのオファーがある。
ありがたい話だが、心のどこかでは逃げたい気持ちも少なからず残ってる。


今回、頭が真っ白になってしまったのはそれなりに大きなステージと、普段のライブとは違った客層。

スポットライトを浴びながら、初めて見る観客たちを見下ろしてプレーすることはあまりなかった。
それであっても、今後もそのようなオファーがあれば、ステージには再び立つ。

それは誰かに僕が奏でるサックスの音を音を聴いてほしいからではなく、僕がサックスを通してこれから何をやっていきたいのか、明確な目的があるから。

この程度で心を折るわけにはいかない。

メンタルが強い?

違う。
僕には人生を通してサックスでやり遂げたいことがあるんだ。

大失敗のステージを経験したことで、改めて自分のやりたいことが,
再度はっきりと確認できた。
小さな成功を100回重ねるよりも、大きな失敗を1回経験することの方が自信に繋がることだってある。


プレーする理由

「サックス、良かったよ」

そう言ってもらえることは確かに嬉しいし、僕自身も良い音楽を聴いた時はその人にそう告げる。

でも、結果にこだわらない。

誰かがサックスを聴いて良かったと感じたか、感じなかったかではなく、自分がやりたいプレーができたかどうかが大事だと思っている。

その日、バラードの気分だった人がファンキーな音を聴いて心地良かったと感じることはなく、逆もまた然り。
要は、その人のその時の気分がその人の感じ方を左右させる。


ステージ上で頭が真っ白になり、曲を飛ばしてしまったが、それでも「サックス良かったです」と声をかけてくれた人もいた。

お世辞や励ましの言葉だったかもしれないが、とても良いプレーをしても、言って欲しい人に何も言ってもらえないことだってあるだろう。

結局のところ自分がやる以上、他人の意見や結果にはこだわらない。
結果に期待してサックスをプレーしているわけではないのだから。



プロセスを楽しんでもらいたい

何かの表現ができるようになって、人前に出せるようになってから表現したいわけではない。

どうだ、俺うまいだろ?と、納得のいく完成品を見せるだけはつまらない。

全くできなかったところから、失敗や恥ずかしい部分まで見てもらって上達していく様を、僕は周りの友人たちに見て届けてもらい、一緒に楽しみたい。

一人の人間が少しずつ成長していく姿と行く末を。


この日、僕の生徒が最前列で見ていた。
生徒には、僕のカッコ良い部分だけを見せたいなんて思ってもいない。

学校での僕と、ステージ上で全くできなくなっていた僕をしっかりと見ておくべきであり、僕が失敗を重ねて歩く姿を見せることが僕なりの見せるべき背中だと思ってる。

上手な演奏を見せたいのなら、上手くいった時の動画を彼女に見せればいいだけの話だ。

40歳からサックスを始めて、上達する速度と伸び代に限界があることは百も承知。
世界一のサックスプレーヤーなど目指していない。

でも、一人の大人が好きなことをやり続けた結果、どんな歳の重ね方をしていくのか、見ていけばいい。

きっと、そこにはリアルなドラマ感と物語が映し出され、見ている誰かの心を揺さぶる。


 
これからも失敗を見せれる人に

SNS社会になってから、人は自分の良い面だけを晒すようになったのではないかと思う時がある。

それなりの写真と、適当な文言をつけてアップすれば、他人をごまかすことは誰でもできるようになった。

以前の僕だってそうだったかもしれない。

SNSが日本で流行るようになったのが今から約20年ほど前。
多くの人は自分をカッコ良く、可愛く見せようと勘違いを始めるようになってしまった。

恥ずかしい姿は誰にも見られたくない。
でも本当は恥ずかしいと思うこと自体が、恥ずかしいことだと理解しなければいけない。


先日のライブで僕がステージ上で苦笑いを浮かべていたことを、今この瞬間どれほどの人が覚えているだろうか。
きっと世界で僕一人だけだろう。

他人のことなんていちいち誰も覚えてはいない。


成功か失敗かの結果は、こだわらなくていい。
僕がこだわりを持つべきことは、これから自分が何をやっていきたいのか、そしてどうなりたいのか。

シンプルにそれしか求めなくていい。



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