17時の闇夜
通常、in-kyoの営業時間は10:00-16:00
閉店作業を終えて、日中にできなかった細かな
事務作業やらなんやらを片付けていると、
あっという間に17時を過ぎる。
冬になると、もうその頃には外が真っ暗で、
気分的には20時くらいの感覚。意味もなく焦ってしまう。
お店の目の前にあるヨークベニマルの灯りが頼もしい。
慌てて夕飯の買い物をしても実はまだ18時。
夜も更けていないそんな時間でも、街灯が少ない
家までの闇夜の道を歩いて帰るのは、大袈裟なようだけれど
途端に心細くなってしまうのだ。
陽が暮れる。というと「次第に」という意味合いが
含まれているように思うが、北の地の日暮れは
「ストン」と何かをポストに投函したときのような
音でもしそうなくらい突然やって来る。
東京から北海道へ移住をした友人は、暗くなるスピードが怖いと
話していた。が、その感覚はすごくわかる気がする。
それだけ人工的な灯りが少なく、自然が近いということなのだろう。
都会の明るさというのはまた別ものだが、
灯り、光、があるというだけで、人は安堵する生き物なのかもしれない。
三春で暮らすようになって9年目になるというのに、
この暗さばかりはまだまだ慣れそうにもない。
我が家のお隣りにはご年配のご婦人がお独りで住んでいらっしゃる。
頭の中では小川糸さんの小説「ツバキ文具店」に出てくる
バーバラ婦人のようなおつきあいができたらいいなぁと
引っ越したばかりの頃は勝手に妄想していたものだ。
まぁ現実では和やかなやり取りはありつつも、
なかなか小説のようにとはいかなかったのだが。
日が暮れると三春のバーバラ婦人(ということにしましょう)の
お宅には灯りが点り、その灯りはちょうど我が家のリビングの窓から
確認することができる。そのことでそろそろ夕食の仕度かな?とか、
こんなに遅くまで起きていらっしゃるようだけれど、眠れないのかな?
とか。直接のやり取りをせずとも、灯りが生活の気配を知らせる
役割を果たしてくれていた。三春のバーバラ婦人にしてみても、
空き家がリフォームされ、真っ暗だった場所に灯りが点り始めたことで、
わずかばかりでも心細さのようなものが和らいでいたのではなかろうか。
そうであったと願いたい。
先日、度々訪ねていらっしゃるご親族の方から
三春のバーバラ婦人が今週の水曜日から施設に入ると伺った。
そんなときには何か気の利いたご挨拶を…と、頭の中でウロウロと言葉を
探したが上手く見つからず、
「寂しくなりますね」としか返すことができなかった。
身近に感じていた暮らしの灯火が消えてしまう寂しさとは
一体どんなものなのだろう。深い闇夜のようなのだろうか。
闇夜だからこそ目にすることができる満天の星だってある。
怖いと美しいを行ったり来たりしながら、
見上げた冬の空にはオリオン座が瞬いている。