素直に受け入れられないグレタ・トゥーンベリ氏について
小学生の頃の話になりますが、冬休みを利用して家族で田舎に旅行した際に、私たちは従姉の家に一泊だけお邪魔することになりました。従姉は既に自立し親元を離れていたため、その時に出会うことは叶いませんでしたが、私は既に使用されていない従姉の部屋を寝室として案内され、そこにはベットと勉強机と壁一面の本棚がそのままの状態で残されていました。年の離れた従姉でしたから並んでいる本の多くは小学生の私には理解の及ばない専門書やいまいち食指の進まない漫画ばかりでしたが、隅の方に年季の入ったボロボロな児童書が何冊か陳列しているのに気付きました。
■20世紀末における漠然とした不安
記憶は曖昧ですが70年代に出版されたドラゴンブックスだか何だかの怪しげな児童書が10冊程度並んでいたと思います。おそらく長年誰も手に取らなかったであろう埃まみれの本から幼少期の従姉の姿を重ね、何故か無性に惹かれた私はその本で時間を潰すことにしました。読んだのはおそらく「地球あやうし!」や「日本あやうし!」など人類滅亡系の本を数冊。デス渋谷系時代のコーネリアスのCDの元ネタにもなっている、ある意味キッチュでオサレな本です。
今でこそトンデモ児童書だの何だの言われているこれらの本ですが、妙にリアルな劇画タッチの絵柄と、さも科学的根拠があるかのような説得力を持たせた文章は当時の私の好奇心を満たすのに十分な内容でした。当時はノストラダムスの大予言がまだ有効な時期であり、大衆心理の中にも無意識的にそれが根付いていたためか世界の終末が描かれる作品なども流行っていました。従姉が持っていた児童書も、いわゆるノストラダムスブームの原点と言われる五島勉の「ノストラダムスの大予言」のあおりを受け、大量生産された系統の本の様です。当時の私の中にも「私が大人になる前に人類は滅亡するんだな」という絶望感やら期待感などが入り混じった漠然とした感情があり、この手の本はそういうモヤモヤを言語化・視覚化してくれる貴重なアイテムでもあったのです。
■トンデモ児童書で身についたリテラシー
ところが何冊かのトンデモ児童書を読み進めるうちに致命的な矛盾に突き当たります。「地球は年々気温が低下している。このままでは氷河期が訪れるであろう!」という項目と「地球は年々気温が上昇している。このままでは世界中が砂漠化するであろう!」という相反する項目(文面はうろ覚え)が一冊の本の中に掲載されていたのです。今ならそういう矛盾も含めて楽しめるとは思うのですが、当時の私はまだ子供ですから、こういうデタラメを許容できるほど寛容ではなく「お父さんこれ見て!おかしくない!?」と鬼の首を取ったかの如く興奮してしまいました。しかし従姉の家ということもあり、父親たちに軽くあしらわれた私はそのまま一気に興醒めしていったのを覚えています。トラウマをキャンセルする逆トラウマとでも言いましょうか、「子供たちの恐怖心を無駄に煽る大人は信用できない」と、図らずも他人の家で一つ大人の階段を登ってしまったんですね。
今になって思うとあの本はあえて矛盾した項目を掲載することで「こんなのデタラメだぞ!本気にするなよ!」という裏メッセージが込められていたのかも知れません。朧気な記憶ですし所詮小学生の読解力なので、もしかすると本の中で整合性は取れていたのかも知れませんが、もうそんなことはどうでも良いのです。結果的に私は従姉の児童書からリテラシーを学ぶことが出来たのですから。
その後1999年7月が過ぎてもノストラダムスの予言が当たることはなく、日常が繰り返されるにつれ、その懐疑的な姿勢はより強固なものになっていきました。
■オカルトと科学
完全に私見ですが、グレタ・トゥーンベリ氏もこういう体験を経ていれば今とは異なる道を進んでいたのかも知れないなと素朴に思うことがあります。2003年生まれの17歳ですし、我々が20世紀末に人類が滅亡する不安やら期待を抱えながら過ごしたことはおろか、ノストラダムスの事も知らない可能性はある。いわゆるジェネレーションギャップ。私にとっての恐怖の大王が彼女にとってのCO₂であり地球温暖化なのだろうなと。
そんなオカルトと同列に扱うなと怒られそうではありますが、科学的根拠があるのかどうかなんて小学生時代の私に判別が付くはずもなく、大人同士が実しやかに語っていたら子供も信じてしまうものです。人為的な要因による地球温暖化に関しても未だに是か非か両論あり、長期スパンで見れば地球は氷河期に向かっているという説まである。まさに幼少期に読んだトンデモ児童書における矛盾した説がそのまま現代においても飛び交っているわけで、そのいずれの説も既得権益が絡んでいたりプロパガンダの可能性もあるとなると、一体何が正しいのか私のような素人には判断しようがない。つまるところIPCCの報告を信じるか否かでしかないという点においてはノストラダムスの予言と大差ないのです。
1910年にもハレー彗星の影響で地球上の空気が無くなるであろうというフランスの天文学者による風説によって、パニックに陥った人たちが携帯用酸素吸入器を求めたという話がありました。ノストラダムスも当時としては最先端の医学や化学の知識を持っていたとされ、権力者のブレーンとしても活躍していたとなると彼自信がIPCCの様な存在だったのかも知れません。言い換えればいつの時代においても学問は不完全なものであるという認識を持つことが重要なのではないでしょうか。
■信じるものは救われる?
上述したオカルティックな風説と違いがあるとすれば、脱炭素化は規模が大きく国際的な政治ゲームにまでなっているという点でしょうか。人為的な要因による地球温暖化説が事実であろうとなかろうと「パリ協定」において国際的なルールが定められ、約180カ国が批准した以上、国際競争において主導権を得るために凌ぎを削って脱炭素社会を目指さざるを得ないのです。たとえそれが茶番であっても。
ポリティカルコレクトネスと似たようなものですね。例えばブラックフェイスに関しては、肌を黒く塗ることが差別かどうかを論じる段階は既に終わっていて、国際基準で差別的表現と定められているのだから、黒塗りする人たちの意図やそれが行われる社会的な背景、そして黒人たち自身の心情がどうであろうと"黒塗りNG"に従うことが「政治的に正しい」のです。こういう欺瞞に満ちたリベラル仕草に私も含めた多くの人たちは辟易していると思うのですが、環境保護に熱心なリベラルも、今後もし地球温暖化による危機的状況が訪れなかったとしても、「何も起こらなくて良かったね。」「俺たちが人類滅亡を防いだ。」「お前たちが気づいていないだけで既に危機的状況だから。」などとノストラダムスの大予言が外れた時のオカルティストと同じように開き直るつもりなのでしょう。
でもまあ良いですよ。IPCCの報告を信じようが信じまいが、こちらとしてはそれが嘘と断定することも出来ないのだから脱炭素化に付き合いますよ。もしIPCCが「ハレー彗星が地球の側を横切る5分間は呼吸出来ません」と報告するのなら酸素吸入器だって用意しましょう。人類滅亡の危機に瀕して何も行動しなかったことを後悔するか、後世の人たちの笑い者になるかの二択なら後者を選んだ方がマシでしょうから。──という風に、私も割り切って前向きに考えを改めようとしていたのですが、グレタ・トゥーンベリ氏の登場によって出鼻をくじかれてしまったのです。
■教義化する環境保護活動
いや、ここでトゥーンベリ氏を批判するつもりはありません。彼女自身は人為的な要因による地球温暖化説を信じて本気で地球の危機的状況に抗おうとしているのだろうし、私の様に人類滅亡の未来に少しワクワクしてしまう人や、ノストラダムスの予言を真に受けて自暴自棄に陥るちびまる子ちゃんよりも遥かに「政治的に正しい」行動だとは思います。仮にそれがヒロイックな欲望に駆られたものだとしても。
ではなぜ出鼻をくじかれてしまったのかと言うと、リベラルな方々やメディアがこぞって彼女を持ち上げ、脱炭素化を善悪二元論の感情的な扇動へと方向転換したからです。Twitterでも「グレタさんのような物言う女性が認められないおっさん共はみっともない」などと中年男性がマウントを取っている光景などをよく見かけますが、私からすればこういう「ボクはグレタチャンの理解者だよ😤」というおじさんLINEかのようなツイートこそ、気持ちの悪いマンスプレイニングだと思うんですけどね。
それはさておき、せっかく私の様な懐疑派が、地球温暖化の事実がどうであろうと脱炭素化に協力するか否かの2択なら協力した方がマシだろうという消極的選択に気持ちを切り替えようとしていたのに、「グレタちゃんに反発するのはみっともないおっさんである!」「我がIPCCの科学力はァァァ世界一ィィィ!」という謎マウントを取られると、どうしても耐えがたい拒絶感を覚えてしまうのですよ。というより私の信条として「我々の科学は疑いようもなく正しい」という非科学的な教義に乗るわけにはいかないのです。それはもうカルトの領域ですから。
■情の時代
ただこれもポスト真実の時代における正しいメディア戦略なのかなと。トゥーンベリ氏のスピーチで感動するのは元から環境問題への意識が高い脱炭素化の積極的協力者のみでしょうけど、その一方で徐々に熱を帯びる"地球温暖化に対する懐疑論"を対話によって諭すのではなく、猪突猛進なトゥーンベリ氏を「環境保護活動のアイコン」として一致団結し、彼女たちにとって悪の化身であるトランプ大統領を「地球温暖化懐疑派のアイコン」とした上で、人々の情動によってねじ伏せる方針に切り替えたのでしょう。実に分かりやすい対立構造ですね。今の時代自分の主張を押し通したいのならSNSで勧善懲悪を煽るのが一番手っ取り早い。
しかし懐疑派を善悪二元論で邪悪な人間やらミソジニーなおっさんなどと決めつけ、強引にマウントを取るようなやり方は相手の自尊心を深く傷つけ必ず禍根を残すことになるでしょう。私も含めて懐疑派には懐疑派なりの信条があるわけで、イデオロギーや既得権益が絡んでいるとは限らないのですから。要は地球環境問題まで昨今のジェンダー論争レベルに堕してしまってもいいのかという話です。
こういう断絶やバックラッシュを生み出しかねない勧善懲悪的なマウンティングよりも、IPCCの不完全さをあえて認めた上で「それでも今は脱炭素化に進むことが最善である」と指南する方が建設的に啓蒙していくことが出来るのではないでしょうか。
■我々は常に間違っているという自覚を
実際、IPCCも過去に報告書の誤りを一部認めているわけですし、まずは彼らも不完全な存在であることを認めるのが科学的な姿勢でしょう。「IPCCの科学は疑いようもなく正しいのだ」という姿勢はIPCCに参加している科学者たちの首を締めるだけであり、そもそもIPCCのことを信用していない懐疑派に「我々の科学を真剣に受け止めろ」と迫るのは全くの逆効果です。さらに言えば「地球温暖化懐疑論批判」などに見られるような自らの正しさを誇示し合うエビデンス合戦も不毛と言えるでしょう。いくら科学的根拠を重ねたところで検証できない将来予測はあくまで仮説なのですから。そもそもマウント取れる程の代物ではないのですよ。
懐疑派を諭したいのなら「我々は間違っているかも知れない。脱炭素化も無駄なことかもしれない。でもやるんだよ!」と、消極的選択も含めた上で地道に啓蒙していくしか無いのではないでしょうか。脱炭素化が環境保護対策としてデタラメだとしても、国際競争力や経済復興政策の観点から見るとそれに向けて推進する方が国益としてのメリットが大きくなるのは事実でしょうし、この辺りを説得材料にする方が現実的ではないかと思いますけどね。いまさら仮説の正しさを誇示したところで検証しようがないのだから泥仕合になるだけだと思います。てか脱炭素社会を推進するのは「科学的に正しい」からではなくて「政治的に正しい」からでしょう?まあSNSにおける政治系アカウントを覗いているとマウンティング気質な人ばかりで懐疑派とコンセンサスを得るのは難しそうですけどね。
いずれにせよ「我々の科学は疑いもなく正しいのである!」という非科学的な姿勢を取ることは「地球温暖化によって人類は滅亡する!」と予言する行為と同じです。そうやって世界中の子どもたちを恐怖のどん底に陥れている方々は、是非まんだらけで「地球あやうし!」を25,000円で購入していただき、それを熟読した上で自分たちがその本と同レベルの存在になっているということをしっかりと自覚して頂きたいものですね。
おわり
(2020.2.9加筆・修正済)
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