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原キー歌唱は必要か?

歌手の方が往年のヒット曲をテレビなどで歌うとき、当時とは違う音の高さ(キー)で歌うことがよくあります。
本来ならばその曲がヒットしていた頃のように歌ってもらえるのが一番だけど、加齢や筋力などの関係で声が変わってしまうのは誰しも避けられないことだし、プロとして歌い続けていくために色々考えた上での結論だとも思うので、キーを下げる選択をすることに異を唱えるつもりはありません。

ただし、それはキーを下げても音楽的にオリジナル時と遜色ない物を作り上げている場合であって、残念ながら多くの場合はキーを下げても修正しきれない声の張りの無さや音程の不安定さを隠すために、元々無かった不自然な抑揚やためなどを作って(しかもどや顔で)、更に音楽的でないものに作り上げてしまっていることが多く見受けられます(しかもどや顔で)。

また、キーが変わるということは、それだけで曲の雰囲気が変わってしまうことが多いです。これは感覚的なものではありますが、例えばGの曲が1音下げでFになると、音楽が柔らかくなる印象があります。もしこのような調性でキーが変更されたとき、例えばGではキラキラした爽やかな曲が、Fではソフトに落ち着いた感じになってしまうといった現象が起き(あくまで私見ですが)、そこに前述の歌声の変(劣)化が加わって曲のイメージがガラッと変わってしまうことがあるのです。歌い方を移調先のキーに合わせて、うまく曲想を整えてくれたらいいんだけど、残念ながら補正するだけの力が残ってないんだろうなぁ、と、時の移ろいをリアルに感じて寂しく思ってしまいます。

ということで、キーの変更自体にとやかく言うのではなく、キーを下げる行為によって、単なる音の高低では片付けられない課題があらわになって、結果的に何をしたかったんだろうと思うような公開処刑じみたことがテレビの中でされていることが見ていて辛いなぁと思うのです。

さて、ちょっと話は別になりますが、昨日は僕が大好きなウタウタイの浅岡雄也さんのライブがありました。
本番2日前に腰を痛められ、きっと普通に歌うことも相当身体に負担がかかる状態のようでしたので、後半辛そうな様子も見られました。そんな中、珍しく幾つかの曲を原曲よりもキーを下げて歌われました。

では、このことについて今日の投稿の主題でもある、原キー歌唱は必要か?について当てはめると、僕は好きな人に対して毒を吐きまくらなければいけないことになるのでしょうか?
結論は、特に不快や違和感は感じませんでした(浅岡さんご本人は悔しそうでしたが)。

というのは、結果としてキーは下げたけれど、今回のことは身体への負担を考えると仕方のないことだし、何より歌声が衰えたことによる変更ではないので、音を下げた歌唱でも歌の力は全く問題ありませんでした。それに、調性が変わることでの不自然な音楽性の変化もなく、変わった先での音の高さでしっかり音楽を作られていたので、また楽曲の違った良さが引き出され、たまにはこういうレアなのも聴けてラッキーと思うくらいでした。(別に推しているから甘く評価しているわけではありません。浅岡さんのヴォーカルとしての素晴らしさを僕が書くのはおこがましいほどなので)。
自分の好きな歌い手さんが、多少(非常に?)コンディションが悪くても説得力のある歌を届けてくれるということ、そしてキーが変わっても、音楽の良さをしっかり届けてくれることがわかったので、個人としては嬉しく感じました。

これからももちろん原曲キーにこだわるポリシーはできるだけ貫きつつ、良い音楽を作るために必要な変化は加えていくスタンスを取り入れていってもらいたいなーと思ったライブになりました。

後半の話の展開が急すぎましたが、今回言いたかったことはこんな感じで。

では、また明日!

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