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【劇評198】独自の藝境に至る白鸚の「河内山」。福助の「鶴亀」、染五郎の「雪の石橋」はいかに。
歌舞伎役者もまた、いつかは父を、乗り越えようと試みるものなのだろうか。
国立劇場の第二部は、『天衣紛上野初花』、「河内山」と呼ばれる芝居を「上州屋」「広間」「玄関先」と通している。白鸚の河内山だが、二代目を襲名してから二年、自分の芝居を突き詰めて、独自の領域を切り開いている。
もちろん、筋書に掲載された談話には、「播磨屋(初代中村吉右衛門)と高麗屋(七代目松本幸四郎)から、父が受け継いだ大事なお役です。父は「河内山には品がなくてはいけない」と言っておりました」
と、語っている。
もちろんこうした談話で、藝統を語るのは、ご定法だけれども、受け継いだ家の藝のなかから「品」の言葉に焦点を合わせるところに、今の白鸚の独自性がある。
ひとことでいえば、俗な御数寄屋坊主河内山宗俊ではなく、宮に使える使僧北谷道海を貫いていく立場で、肚を割らないという意味でも理にかなっているのはいうまでもない。
さて、現実の舞台はどうか。
まず、「上州屋店先の場」。河内山の無法なふるまいに、業を煮やした番頭(高麗五郎)が、後添いのおまき(歌女之丞)が娘のお藤大事さに、前と後でそれぞれ百両の大金で救出を依頼するくだり。腕こきの脇が揃っているだけに、さらさらと舞台が進んでいく。
「ひじきに油揚げ」の惣菜ばかり食っているから、よい智慧が回らない。河内山のくどいばかりの悪罵も、品を失わない。
和泉屋清兵衛(友右衛門)が割って入って、河内山に任せると落着するが、友右衛門のあっさりとしが藝風もあって、このあたりも、白鸚はくどく突っ込んだりはしない。
「広間」になってからは、梅玉の出雲守が出色の出来。
蒼白の様子で、よろめきながら登場すると、狂気とも乱行とも思える日常をにじませる。
高麗蔵の数馬がさすがに年輪があるだけに巧い。錦吾の北村大膳、彌十郎の高木小左衛門と、この松江邸の面々が揃う。
同じ家に仕える武士とは言っても、禄高、家柄、世代によってさまざまだ。集団を構成する人々の緊張関係を描いたところで、江戸の世話物が普遍性を持つ。
「書院」は、十八万石の大名と上野寛永寺の使僧が渡り合う場。
大きな家を抱えている出雲守には、幕府のおとがめがあっては家の大事という弱みがある。
逆に、北谷道海実は河内山宗俊からすれば、弱みを握っているだけに、宮の権威をかさにきてためらいはない。
この勝負は最初から付いているのだが、梅玉の出雲守に感情の極端なブレがあり、芝居になっている。白鸚は下卑たところを最低限に抑えて、金子の催促や袱紗の下を見ようとする件りも破綻がない。今回の上演も、この「書院」を全体の見どころとする。
続く「玄関先」は、観客向けのサービス、気持ちをすかっとさせる大団円である。
錦吾の北村大膳は、こうした向こうっ気だけが強い武士をやらせても、内実に主君第一、殿様のためを思う真情がにじむ。彌十郎は近年、役柄を広げているだけに、北村大膳も今回の高木も両方、勤められるが、この配役、日替わりで逆の配役も観たいくらいである。
幕切れの白鸚がいい。高木と北村を比較して「しゃしゃり出て土手に手をつく蛙かな」としゃれのめすときの流れるような美しさ、「馬鹿め」も当て込まずにいう。
上演台本にはト書きに「出雲守、前へ出るを、小左衛門制して」とあるが、ここは万事控えめに芝居にしない。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。