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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと… もっと読む
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#泉鏡花

祝杯をあげても、鏡花はいまだ膝を崩さない。 「ところが、其処で、ひとつ御願があるんです」(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十七回)

 翌、大正十年三月には、久保田万太郎は、市村座で鏡花の『婦系圖』を、やはり新派のために演出している。これが万太郎の初演出となる。  万太郎は、『『婦系図』の稽古』と題した詳細な演出ノートを残している。  序幕と三幕目の道具に明解な注文をつけ、全体をとおして台本に手を入れる。その趣旨は、舞台の都合にあわせたご都合主義を避けて、説明的な台詞を排するところにある。  主役以外の人々の動きでその場の状況を観客に納得させる改変もある。  この時点で万太郎が、演劇の文法に精通していると

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松竹が新派へ対する冷ややかな態度を憤慨するあまりに、酒がのめたのだと笑った。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十五回)

 大正・昭和期に活躍した新派の俳優 柳永二郎は、『新派の六十年』のなかで、新派の演目の内容的な観点からの分類を行い、「八」として新聞小説、文藝作品脚色時代をひとつの項目にあげている。  その代表的な演目として、広津柳浪『目黒巷談』、大倉桃郎『琵琶歌』、尾崎紅葉『金色夜叉』、小栗風葉『恋慕流し』、鏡花『婦系図』『通夜物語』があり、「九」の項目にあげられた花柳情話時代にも、鏡花『日本橋』が現れる。 「創作戯曲には、その(新派の)創始期から発見に努力を重ね、その得られる限りは各

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初代喜多村禄郎は、明治四年、東京、日本橋の薬種商の子として生まれた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十四回)

 万太郎がはじめて新派の喜多村禄郎と会ったのは、大正四年、鏡花の『日本橋』が、伊井蓉峰の葛木晋三、喜多村禄郎の稲葉屋お考の配役で初演された本郷座の楽屋である。  鏡花はその前年、小説『日本橋』を、小村雪岱の装幀で本郷曙町の書肆千草館から上梓している。  刊行される早々、喜多村は上演の許可を鏡花に得た。  脚色にあたったのは、のちに歌舞伎作者として一家をなす真山青果だが、「生理学教室」の場にこだわりを持った鏡花は、みずから東京帝国大学医学部に調査にでかけ、台本に朱筆を入れ

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「さふいふ若いかくれた読者のあることを認めて頂きたい-----先生のために先生の芸術のために」(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十三回)

 万太郎が鏡花に会う機会は意外に早くやってきた。  瀧太郎留学の翌年、明治四十五年十月、俳句結社ホトトギス主催の観能会が水道橋の喜多能楽堂であった。  鏡花を見かけた万太郎は、いあわせた生田長江に頼んで紹介してもらったのである。  万太郎の内気な性格からしても、何か理由がなければ紹介の依頼もできずに、遠くから憧れのまなざしをそそぐばかりだったろう。  けれど、万太郎には、意を決して紹介をたのむための、よき口実があったのである。事情を話し、 「一度お宅へお邪魔したい旨」を伝

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番町の銀杏の残暑わすれめや(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十二回)

 第五章 泉鏡花に入ります。写真は、鏡花の旧居です。この家で亡くなりました。 番町の銀杏の残暑わすれめや 万太郎  何処(どこ)かで会(くわい)が打(ぶ)つかって、微酔機嫌(ほろよいきけん)で来(き)た万(まん)ちゃんは、怪(け)しからん、軍令(ぐんれい)を忘却(ぼうきやく)して、 「何(なん)です、此(こ)の一銭(いつせん)は-----あゝ、然(さ)う  。」 と両方(りやうほう)の肩(かた)と両袖(りやうそで)と一所(いつしよ)に一寸揺(ちよつとゆす)すって、内懐(う

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