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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと… もっと読む
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2020年8月の記事一覧

50 長岡のモダン茶屋の五月かな。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第五十回、最終回)

 昭和三十八年五月六日、その日の東京は、若葉に小雨が降っていた。 中村汀女主宰の俳誌『風花』十五周年大会に出席した久保田万太郎は、慶應義塾病院に俳句の弟子、稲垣きくのを見舞い、家に戻り入れ歯をはめて、画家、梅原龍三郎邸で行われた「明哲会」に顔を出した。到着は四時五分だった。  銀座の名店、なか田が鮨の出店をだしていた。  つがれたビールを飲み干して「じゃ赤貝でももらいましょう」と注文する。弟子達の証言によると、万太郎は食べにくい赤貝を注文することはなかったのたという。  

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49 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十九回)

暗転

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48 晩年のやすらぎ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十八回)

色男

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急に、彼が吉良上野介になったような気がしていた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十七回)

名声  昭和二十二年、慶應義塾評議員に就任して以来、万太郎には、数々の肩書きが加わっていった。  讀賣新聞社演劇文化賞選定委員、日本芸術院会員、芸術祭執行委員。昭和二十四年、毎日新聞社演劇賞選定委員、日本放送協会理事、郵政省、郵政審議会専門委員、文化勲章・文化功労者選考委員。  昭和二十六年、日本演劇協会会長、国際演劇会議代表。  昭和二十七年日本文藝家協会名誉委員。  昭和二十八年、俳優座劇場株式会社会長。  昭和三十一年、国立劇場設立準備協議会副会長、法務省、中央更正

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道楽に毎日を暮らす"風流人"にはなれなかった。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十六回)

市井人  後期の小説のなかで、もっともちからの入った作品は、『市井人』(「改造」昭和二十四年七月ー九月)だろう。  万太郎、六十歳。大家による久々の長編である。関東大震災前の東京、大学生藤岡の目を通して、俳人の世界を描く。  吉原遊郭、八重垣の息子として生まれた「わたくし」は、水菓子屋の若主人の萍人(ひょうじん)の誘いによって、俳人蓬里(ゆうり)に弟子入りする。紅楼の巷にあっては学業に差し支えると、親によって麻布の寺に下宿するよう吉原からは遠ざけられはいるが、「わたくし」

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再婚相手は、ブレーキの壊れた自転車。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十五回)

鎌倉  昭和二十一年十二月、五十七歳の久保田万太郎は、三宅正太郎夫妻の媒酌により、三田きみと結婚している。前妻、京の死から十一年を隔てての再婚である。  当時、文部省文化課長だった作家の今日出海は、万太郎に、実はきみと結婚の約束をしたのだと突然知らされ、顔を曇らせた。  旅館を経営していた三田の三姉妹をつい二、三週間前紹介したのは、今だったからである。  それには理由がある。人がよいといえば止めどなくよいのだが、次女の久子が嘆くほど、きみは「ブレーキの壊れた自転車」だっ

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七人の作家が執筆禁止になる。公職追放は、日本文学報国会に及んだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十四回)

時代を少しすすめて、終戦後の話に飛ぶ。 公職追放  第二次世界大戦が終わると、演劇界もまた戦後の主導権争いで騒然となった。これまで弾圧されてきたプロレタリア演劇の側から、戦争中に当局に協力した者の責任追及を求める声がおこったのは当然のなりゆきであった。  戦犯(戦争犯罪人)、パージ(公職追放)ということばが流行語となり、だれがその対象となるか噂がとびかう。  公職追放の対象者には、「大政翼賛会などの幹部」の項目があった。日本文学報国会とかかわり、しかも国策によって統合

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