「やりたいこと」の呪縛

どうやら日本では夢や目標、やりたいことへの執着心が強いらしい。

学校では将来の夢を書かされ、大学受験や就職活動の時はやりたいことは何か周りから聞かれる。

やりたいことを見つけないと人生の選択肢を取れない。そんな呪縛があって、周りと比べて劣等感を感じたり、無理に見つけようと必死になる。

やりたいこと。なぜこんなにもつきまとうのか。

僕は人生でやりたいことは一生見つからないのかなと思っている。一生見つからない中で、一時的にやりたいことが見つかって、また期間が経つと、そうではないとその繰り返しの連続ではないかと思う。
というのも人間は日々代謝して、昨日の自分とは違う自分がいて、気持ちや価値観も変動する。より悩みが沼に入って複雑になって、投げ出したくなるくらいモヤモヤ感を持って生きている。だから断定して、これがやりたいですと思っても、明日は違うことを思ってるかもしれない。むしろ大事なのは、自分自身や周りの他者と会話して、代謝をもがきながら、その場での回答を出す、その過程にある。何度もいうが、明確なやりたいことがあるのが大事ではなく、その過程である、と思っている。

所詮は一時的なやりたいことしか、見つからないし、内面の葛藤のほうが個人的には惹かれてしまう。人間らしいなと。

じゃあもう少し具体度を上げて、その一時的なやりたいことが見つかるためには、何が必要なのか。

現段階で僕は1つのある力ではないかと勝手に考えている。

それは「縁を掴み取る力」である。
この前noteにも書いたが、人生は縁と運の連続だとひしひしと感じている。

縁というものは、自分の常識や当たり前としたコミュニティから脱してくれる力を持っている。一時的なやりたいことを出すためには、過程が大事だと書いたが、それを支えてくれる強力な助っ人である。

縁を掴み取れば、他者との関係性が豊富になる。それは意図的に決められたものではなく、偶然にばったりと出会った人たちである。その関係性が豊富であれば、次々に新しい情報や価値観が入り、長く自分に居座るベテランの価値観と衝突し、葛藤が生まれる。そうすると人間の代謝が進み、何かを生み出そうともがき出す。内面が複雑化した状態であると、より社会や人がクリアに見え始め、アンテナの張りが良くなり、一時的にこれかなと思うものが見つかる。そんな次第である。

まーまー所々はしょっているが(体感的なことなのでこれが限界笑)、縁を大事にもがけばもがくほど、自分とマッチしたやりたいことが一時的に見つかるのではないかと思っているのだ。

ではもうワンステップ。
さらに縁を掴み取るには、どうしたらいいのか。日々流れゆく人の出会いと情報を掴み取るめに、恐縮だか1つだけこれだというのがある。

「呼ばれたらいく」
シンプルに誘われたら、いく。
縁が生まれるための台本はない。時が来るまで待ってるしかない、そんなときもありえる。でもお声がかかったら、なんだかよく分からなくても興味本位で行ってみる。
時には不発に終わる場合もあるが、大体はそこから派生して、ご縁が広がっていくと思う。

個人事だが、僕は卓球教室に通っている。それは意図して見つけたものではなく、家の周りを散歩してる時に、偶然卓球をしないかと声をかけられた。その時は通う気はなかったが、事の流れで入会して、今では日々の楽しみになっている。

小さいことだと思われるかもしれないが、呼ばれていくと新しい関係性が生まれ、また自分の代謝が始まるのである。そうすると先程述べてきた一時的なやりたいことが生まれるサイクルに入っていく。

縁を掴み取るのは、ある意味単純で、お声がかかるまで待ち、来たらいく。全ては無理だけど、振り返ってみると、見逃してるお声は沢山あると思う。それを一つでもノリで行くのが、大事な一歩なのかもしれない。

長々とまとまりのない話しになったが、僕がこれを書きたくなったのは、NHKでネット高校のドキュメンタリーを見たからである。
生徒がやりたいことを見つけて、集中して熱心に学習を受けていたのだが、やりたいことを見つけるのに急ぎすぎてないかと感じてしまった。やりたいことの呪縛にとらわれて、大事な過程をすっ飛ばして、表面的な一面を見てやりたいことに認定していないか不安に思ったのだ。
やりたいことに全力は注ぐのはいいことだ。
でも僕は学校という環境で、ねっとりと述べてきた過程を手伝ってくれる先生はどのくらいいるんだろうか。やりたいことの単純化が始まってないか。これが心配だったのです。

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