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逃げることの美学

今年の年始に久しぶりに、高校の友人と卓球をした。その時にふと気づいた。

高校の時、卓球の練習をあまり真面目に練習をしていなかった。むしろ大学受験に向けて勉強の方が大事やろって、不貞腐れていた。何回も辞める詐欺をしていたと思う。グチグチ不満を言うてた。最後は持ち直して頑張れたけど。
それが今では社会人になり、卓球教室に通い始め、練習が楽しいというか、もっとしたいと思う。まさにやる気の不一致である。このやる気が、あのときにこのくらいのやる気があればと。こういうことが多々ある。

大学4年のとき、韓国しかないと思って、韓国語を勉強し始めた。留学して、明確にやりたいことはなかったが、とりあえず韓国人と話したかった。自分ならできると思っていた。渡航する前、トビタテ留学は落ちたし、交換留学も落ちた。本当に何のビジョンもなく、具体的なやりたいことはなかったんだろうと思う。そういうのが羨ましかった。
そして実際に行くと、イメージと違うことは沢山あった。まず言語力がしょぼすぎて、話し合えるレベルまであと5年は必要じゃねえか?ってなった。日韓交流会にいくと出会い目的の人が多く、語学学校も雰囲気が合わなかった。あれだけ勉強したいと思ってたのに、韓国語の勉強も、身が入らず。
おりゃ教育のこと日本でしてえってなって、3ヶ月で帰国した。

でもしばらく離れていた韓国語が、社会人になってから毎日30分勉強するようになった。韓国社会も知れば知るほど高揚する。
自分でも驚くくらい、継続して続けられてると思う。ただこれほどやる気は、あのときにはなかった。目の前の状況に、不安と葛藤が生まれ、その場を去ることしかできなかった。

色々な状況や不安が重なって、逃げ出したくなることがある。過去に何度も逃走犯になってきた。

逃げたことは、なぜかよく記憶に残っている。たまに思い出し、過去の自分に後悔の念が生まれる。あのときこうすればよかったと、脳裏に焼き付くのだ。

よくあるような人と比べて劣等感を感じるという、その手の悩みは、この逃げた記憶から繋がってることが多いと思う。意図的に安心安全な環境を選んでないかとか、周りは難なくできてるのに、自分はできなかったとか。

でも逃げることは、マイナスのことばかりではないと、個人的に思っている。

やる気の不一致のごとく、時間が解決してくれることもある。なにかの巡り合せで、過去に逃げたことに、実はいま向き合えてるということも起きる。時間が経てば、視座も思考も感じ方も変わるだろうし。

そして、どっかで自然界は競争から下りることで、種の多様性が豊かになったと聞いたことがある。すなわち、逃げることで、人と違うレールも開拓できる。

最後に、逃げる基準は人それぞれだ。だから意外と真正面から向き合ってたときもあれば、他の人はやらないことを平気でやってることもある。

あのとき、選択肢を変えていれば。ひとつのことをやり遂げれたら。もっと目的持って一気通貫した行動ができれば。

こういうことを頭の中で繰り返し、ひとりで悩むことがあるが、逃げることも決して悪くない。大事なことは、逃げ方と逃げたあとの向き合い方。そして本気を出せるときは真正面から向き合えばいいと、自分に言い聞かせている。そして今日も、あの時こうすればよかったと、うだうだ悩むのだ。




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