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「遊☆戯☆王」感想

デュエルモンスターズの原典たる「遊戯王」、そのコミックスを読み終えた。

1996年に連載が開始し、今もなおカードゲームの一ジャンルはおろか少年漫画の金字塔として燦然と輝く名作である。
はじめに断っておくと、別にこれは初見というわけではない。私が遊戯王と出会ったきっかけは幼少期の、いわゆる東映版アニメからだった。明るい学園ものの明快さと「闇のゲーム」がもたらすダークな雰囲気を浴びた子供が夢中になるのにさほど時間はかからず、海馬よろしく「青眼の白龍」の美しさに圧倒されたことでバンダイ版のカードを集めるようになったのも今や遠い思い出だ。

そこからテレ東版の「遊戯王 デュエルモンスターズ」の放送でさらにボルテージは上がって毎週テレビをかじりつかんばかりに見ていた。当然OCGにも触れ、ルールが分からないまま友達とパックを剥いて迷宮壁-ラビリンスウォール-を手にした時は盛り上がり、千年原人のテキストを読んで「千年アイテムを持つ原始人ってなんだ…?」と混沌に包まれるなどした。つまるところファンアイテムとして愛好していたわけだが、よくよく考えるとGXを一気見した熱の冷めやらぬうちに超融合とパワーボンドを買うためカードショップに足を運んだ現在とさほど変わらない気がしないでもない。
アニメの最終回を迎えてしばらく後に漫画の方にも触れたが、アニメとは別として楽しんだとはいえあれだけトラウマを植え付けられたオレイカルコスの結界がどこにもない!??と驚愕したのを覚えている。アニオリの洗礼を受けたのも思えば遊戯王が初めてだったかもしれない。

あえて今漫画版に触れるのはそう多くない理由がある。ここしばらくの記事でずっと遊戯王のことしか書いておらずなんか遊戯王専用ブログみたいな様相を呈している当noteだが、ならばこそ原典に触れないのは片手落ちという思いが少なからずあった。
また、作者である高橋和希先生の訃報も作品に向き合う契機となったであろう。氏が亡くなったニュースを見た時は呆然としたし、今もって現実味のないものだ。それゆえに、かつて作品に夢中になり現在もカードゲームや派生した作品群に心を躍らせている者として、氏の葬送とともに遠き日のおぼろげな面影を見送るような自分への居心地の悪さもあったわけで…。

前置きが長くなったがそういった経緯もあり、自分の中にひとつの区切りをつけるためもあって遊戯王を読み返したのだった。

(※10/31 加筆修正)


学園編

東映版アニメの思い出が色濃い序盤の学園編は一話完結形式で様々なゲームが描かれるのが魅力的なエピソード群だ。たまごっちやデジモンを思わせるデジタルペットやゲームセンターの格ゲーを軸にした回といったホビー全般を扱うものから、アメコミヒーローをモチーフにした回など多様なエピソードが並び、さながら素敵が詰まったおもちゃ箱をひっくり返したかのような「面白さ」に溢れている。
そして、そんなホビーたちを光とするならその足元から延びる影があるように、闇のゲームの火花散らすギャップが大変心地よいバランスを生む。金を巻き上げる不良や弱者を踏みつけにする悪党を影から倒すダークヒーローじみた闇遊戯の活躍には、これはキッズ時代の俺も夢中になるわと再認識したものである。
悪党というか童実野町の治安が死ぬほど悪い。右を向けば不良グループが、左を向けばチンピラ集団がいるし、町を実行支配するのは海馬コーポレーションだ。なんで衣食住が保たれてるのにサテライトみたいになってんだよ。

随所で触れられ、根底に流れる「友情」のメッセージが眩しいまでの輝きを放つ。作品のテーマとして度々語られる友情・結束だが、初期からこの姿勢に一切のブレがなく、同時に遊戯がもつ「優しさという強さ」が一貫して描かれることで、作品に強靭な背骨を通していく。遊戯の愚かしいまでの優しさが荒んだ城之内の心を癒し、やがて繋がりゆく友情の輪が互いをかけがえのない絆で結んでゆく直球なメッセージは青臭くもあり、そして清々しい色彩で作品を彩った。
見えるけど見えないもの──後に様々な形で作品の文脈を補強するこのメッセージが第1話の時点で登場する辺り、高橋先生の類稀なる構成力の高さを思い知らされる。

数々のゲーム群から「マジック&ウィザーズ(以下M&W)」遊戯王OCGの原型となるカードゲームが突出した人気を誇ったためそちらに舵を切ったのは有名な話だが、私としてはこの回が群を抜いて面白かったか?と問われると首を捻ってしまう。個人的な嗜好としては、vsモクバのカプセルモンスターズの方が盤上の戦略シミュレーションとキャラクター商法のポップさが嚙み合って魅力的に感じた。
しかし、エジプトの話が書きたかった先生が人気低迷に伴いM&Wに路線変更したこと、「海馬 瀬人」…エジプト神話に登場するセトの名を冠する少年が偶然にもこの回の敵ポジションだったこと、彼岸と此岸の境界を超える「死者蘇生」のカードが古代エジプトにおいて生命を意味するアンクをモチーフとしていたこと、そしてこの路線が大ヒットしたことで結果的に古代エジプトへの文脈が遥かな時を越えて繋がったこと。
これら一連の流れはまさしく作中に膾炙する「流転する運命」の概念に導かれたかのような美しさを誇り、まるであるべきところに収まったかのような壮大な意思に吞み込まれるような気さえして圧倒されるのだ。

……それはそうとシャーディー回が原因で打ち切りの憂き目にあいかけたのはとてつもなく納得がいかなかったりする。スフィンクスの謎かけを思わせる古代の香りが色濃い闇のゲームや、あの闇遊戯が恐怖する「崩し」の展開、後にバトルシティ編で再話される「杏子が人質となり城之内と敵対する」流れをこの段階で打ち出す最終ゲームなど、実のところエピソードの打率はかなり高い方ではないだろうか?悪党を影から裁いてきた遊戯に呼応するかのように、千年秤によって罪を暴くシャーディーの対比構図も目を見張る。
「これがウケないとか当時のセンスはよ~~~~!!」と悪態のひとつもつきたくなるというものだが、路線変更がなければOCGが世に生まれなかったと思うと振り上げた拳が行き場を失い、結果的に自分の頬を張るしかなくなるのでなんともままならないものである。

DEATH-T編

海馬が仕掛けてくる死のゲーム…それを踏破していく流れは、なんとなく当時のジャンプのトレンドを感じてしまう。ナチュラルに傭兵やシリアルキラーが送り込まれるため、治安が終末に向けてインフレしていく思い切りの良さで楽しくなるもの。

初手から100万ボルトの電撃罰ゲームが二連続する辺りも含めてテンションがおかしなことになっている。むしろ初期遊戯王が電撃を好きすぎるのが別種の面白さを発生させているのかもしれない。

そんなDEATH-T編の見所は、闇遊戯がほとんど登場せず遊戯と仲間たちが力を合わせて困難を乗り越えるシチュエーションにあるだろう。これまでもゲームだけでなく城之内の「暴」で解決した単発回はあったが、仲間のそれぞれが得意分野を生かして突破を目指す流れは目覚ましい響きをもたらした。
遊戯が闇遊戯をもう一つの人格として認識し、人格が分化されるのも大きな転機となった。自分の中にある闇を恐れる遊戯を、そんな遊戯が心を通わせ繋いだ城之内や本田、杏子が手を取り友情を深めるという応用的な話運びが作品のテーマを踏襲しつつ、少しずつ文脈の純度を上げる構成が良い。悪党を倒してきたのは闇遊戯だが、荒んだ城之内や本田の心を救ったのは紛れもなく遊戯の優しさで、いくら戦う力が無くても彼は主人公なのだと飲み込ませる構成が見事なのである。

最終戦は海馬とのデュエルだが、実のところ学園編のvs海馬よりも遥かに見応えがあった。手に汗握る駆け引きもそうだが、醸成された文脈の使い方が上手いのだ。
絶体絶命の危機に、最後のドローに恐れを抱く闇遊戯。目の前のカードという「見える」ものと、デッキの一番上で引かれるのを待つ「見えない」未来。その未来を掴む最後のピースは、仲間たちとその手に刻んだ友情の力だった。
さらに、汚い方法で青眼の白龍──強大な力を3体揃えた海馬に対し、ひとつひとつは貧弱で意味不明なカードであるエクゾディアのパーツを揃えて特殊勝利する遊戯は、結束による勝利の表現としてこれ以上はないと思わせる説得力に溢れている。

この眩しいまでに直球な友情のメッセージを反復構造を用いて手を変え品を変える表現力、そしてそれらをゲームの展開でなぞらえる構成力…。読み返していて「この漫画…ギアが上がってきたな?」と感じたのは、実のところDEATH-T編なのだった。


RPG編

正直に言うと、私はRPG編が大好きだ。微かに残った東映版アニメの記憶においてこのエピソードの記憶が濃く染みつく思い出補正が多分に含まれるが、この年になりTRPG文化に僅かながらに触れたことでその補正が大幅に強化されたのだ。当時は悪役にしか見えなかった闇獏良の名GMっぷりがより光るオマケつきである。

闇獏良、改めて見ると面白いキャラである。他者の命を闇のゲームで弄ぶという(闇)遊戯の反存在のようなキャラクターであり、ゲーム中にも初見殺しじみたトラップを幾つも仕掛けイカサマも厭わないが、RPにのめり込む姿にやや嬉しそうなリアクションをしたり、逆にターンを待たずにダイスロールする城之内に「ダイスの目もマナーも最悪だな…!」とゲーム道を説く辺りは悪役にも関わらずゲーム自体に縛られ、それでいて楽しんでいるような可笑しさがある。必殺の一撃を与えた後でも律儀にダメージ計算をする姿も愛おしいまであった。

このRPG編、剣と魔法のファンタジー世界を舞台にするためDEATH-T編よりも「仲間との結束」がより明確なビジュアルで描かれるのが面白い。特にこれ以降は非戦闘要員となっていく本田が、恐れに打ち勝ち致命の一撃を放つくだりなど思わず震えたものだ。

そしてこのRPG編、作品における最終盤「記憶編」のベースとなる描写がそこかしこにあるため「ここはあれに!こっちはあそこに対応してる!!」と符丁の数々に驚きながら読み進めることとなった。そもそもサブタイトルが「千年の敵」だ。もちろん獏良が千年リングを所持していることを踏まえたタイトルだが、この時点で遊戯と獏良、古代のファラオと盗賊王の因縁を構想していたのか•••!?と果てしない感情に襲われる。
象徴的なのはRPG世界のラスボス、ゾークの台詞である。

ひとつだけ教えてやる!この世界にオレを倒せる剣など存在せぬわ!!

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 4」 https://bookwalker.jp/de4cd7282a-86ca-4c5d-8164-b82f737c65f1/

魔王を倒す聖剣を求めた遊戯たちに対するものだが、RPG世界に魂を移された遊戯を世界の外側たる「現実」にいる闇遊戯が導き打倒する、その攻略法を想起させる台詞である。また、本来の獏良が肉体の主導権を奪うことで盤外から逆転の糸口となる展開も担うなんとも含みのあるシーンだ。
そして本作の遥か先、闇のTRPGの再話たる記憶編では、逆に王の記憶の世界に足を踏み入れた客人たる遊戯たちこそが、邪神ゾークを滅ぼす最後の切り札となった。
絶対的な秩序が定められたゲームの世界にて、それを凌駕するのが盤外にいる存在プレイヤーの意思…その構造が孵化を待つ卵のようにそっと置かれていたことに気づき、またしてもその構成力に舌を巻くのであった。

ここで初めて遊戯と闇遊戯が対面し、互いに認識しあうのがストーリーの本筋に大きく寄与する展開となる。これから繰り返される、もう一人のボクと相棒の構図である。
アニメ版DMでは全体的にアニオリが挿入されるため獏良の影が薄くなりがちだが、原作ではほぼ全ての旅に同行するためパーティの一人として存在感を確立するのが大きな差だった。それも城之内たちのように信頼のおける友と同時に、千年リングの闇が仄めかす緊張感をももたらして…。

それはそうと、東映版アニメも円盤化などと贅沢は言わないにしてもどこかで配信とかしないのだろうか。再視聴を望む心が乾いた叫びを上げ、挫けそうな胸を突き刺してそこそこの年月が経つのだが…。


決闘者の王国編

M&Wへ本格的に路線変更がなされた王国編は、言わずと知れたペガサスがボスとして立ちはだかるほか、孔雀舞やインセクター羽蛾といったある種のネットミームと化した有名キャラクターが登場するターニングポイントの趣が強い。
実のところ、これまで王国編を再読、再視聴することはほとんどなかった。バトルシティ編の終盤や記憶編は折に触れて読み返していたものの、それと比較すると何故か食指が伸びず、なんとなく思い出の中に閉じ込めていたのだった。それは朧げに「この頃のルールはハチャメチャ」なのを覚えており、今の自分が見返したときに思い出補正をもってしてもネタとして消化してしまうことの忌避感からだったかもしれない。

そんなわけで実に10年以上ぶりに読み返した王国編。千年アイテムを持つペガサスからの挑戦を受け、遊戯は双六じいちゃんを助けるため、城之内は妹の静香の手術費用を求めてデュエルに挑むわけだが…。

当初の杞憂はあっという間に打ち砕かれた。
面白い、なんて一言で表現できるものではない。あまりにも面白すぎた。
めくるめく攻防、まだ見ぬモンスターやコンボに打ちのめされながらも、信じたデッキが応えてくれる奇跡のドロー。戦場の決闘者は孤独だが、仲間と繋いだ絆が背中を押す王道のメッセージ。遊戯王における原初の面白さ、それら全てが高い純度で詰まっていた。
高橋先生がプロレスを意識したと記していたように、序盤は小競り合い、中盤で転機が訪れ、最後は切り札で逆転というメソッドが初期から確立しているのもエンタメとして強い骨子がある。
自分が幼き日、遊戯王の何に夢中になったのか。その記憶のピースが「実感」を伴い、確かに組みあがっていく。好きな回をいくつか選んでそこから話を広げる前回までの記事のスタイルを試みたが、そもそも好きな回が選べない
香水によりドローするカードを読む戦略を「見えるけど、見えないもの」のメッセージで看破し、背に受ける友情で勝利を掴み取るvs舞。
シーステルスに翻弄されながらも「海」がもつ特性を逆手にとって逆転するvs梶木。
強敵でありながら姑息な戦法を多用し、あまつさえ参加資格のカードを盗むまでした盗賊バンデットを、「墓あらし」によって盗みの腕で超える意趣返しが痛快なvsキース。

ベストバウト級の戦いが積み重なっていく。

ペガサス戦は、トゥーンの前哨戦とサクリファイスによる闇のゲームという二段構成となっているのも、古代エジプト・千年アイテムを巡る因縁で物語のメインストリームを貫いて痺れてしまう。さっきまでファンシーなモンスターが跋扈していたフィールドへおどろおどろしいサクリファイスが召喚され、主力モンスターを奪っていく展開は当時となんら変わらぬ恐ろしさがあった。

TCGとしてルールの練り込み不足だったり、デュエルの展開がハチャメチャなのは否めない。森フィールドは焼き払われるし5%しかない陸地フィールドにしか岩石の巨兵は召喚できないし、カタパルトタートルで空中の城を墜落させてモンスターを下敷きにしたり、時の魔術師の効果でハーピィレディは老化し機械は風化する。海馬が「ペガサスのマインドスキャンの対策は…このデュエルディスクだ!!」と息巻いたと思ったら、肝心のペガサス戦では「いや相手の土俵に乗るわけないでしょ…」と拒否されてしまい普通に座ってデュエルし出した時は「城之内とか遊戯と戦ったくだり何だったんだよ!!」と胡乱な気分になった。
言ったもん勝ちと言われればそうだ。一つのデュエルを対象にとっても、掘れば掘っただけツッコミ所が連鎖してくる。隣の芝刈りで大量のシャドールを墓地に送ったとしてもここまでチェーンはしないだろう。

それでもなお面白い、面白いのだ
ツッコミ所は無数に存在する。TCGを題材にした作品として完成度の面では劣るかもしれない。しかし、それを大きく上回る物語のポテンシャルが無粋な指摘を封殺しきる。前の章がトークによるコミュニケーションでゲームを運ぶTRPGを題材にしていたのも、飲み込みやすさを補助していたようにも思える。

あえて一番の回を選ぶとすると、「遊戯vs死者の腹話術師」事実上の学園編におけるvs海馬を再現した回だ。
デュエル終盤での学園編との重ね合わせのラッシュが、一気見していたことによる鮮明な序盤の記憶と重なって歓喜の声が思わず漏れた。

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 1」260~261頁  (https://bookwalker.jp/ded68f4ef5-07f6-4e7d-b4c4-43b7dd9ea60c/)
出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 6」 50~51頁 (https://bookwalker.jp/de01a6b2a4-be8a-4524-a8a3-93d5fc618505/)

青眼が攻撃をためらい消滅するシーンは構図、コマ割りをほぼ再現することで「青眼が己の戦いの宿命と忠誠心がぶつかり合う」決闘者とカードが運命的に結びつきあった絆の昇華を描き、続く海馬復活の盛り上がりを遺憾なく爆発させた。

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 1」262~263頁  (https://bookwalker.jp/ded68f4ef5-07f6-4e7d-b4c4-43b7dd9ea60c/)
出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 6」 68~69頁 (https://bookwalker.jp/de01a6b2a4-be8a-4524-a8a3-93d5fc618505/)

そして、遊戯が死者蘇生で青眼を蘇らせてかつての逆転劇を再現するシーンでは、「双六じいちゃんのカードを取り戻した」1巻と「海馬のカードを取り戻した」6巻を青眼を介して対の構図を作りつつ、罰ゲーム!のポーズで全体を締める変転の流れで魂を揺さぶられた。序盤の戦いを再現する回をオタクが好きにならないはずはないのである…。
遊戯と海馬の断ち切れぬ因縁と、海馬デュエリスト青眼カードの揺るぎない絆という終盤まで用いられる要素をセルフオマージュで鮮烈に打ち出したこの回は、むしろ一気読みしたからこそ胸を打ったように思う。

仲間との文脈としては、「遊戯と闇遊戯が交代することでマインドスキャンを攻略しつつ、最後は仲間たちの絆で阻止する」が有名で、この展開を知っててもなお涙腺が緩んでしまった。激闘に次ぐ激闘の王国編だが、杏子が(闇)遊戯に向ける恋心や憧憬といった感情が描かれる場面はしっとりと静謐な趣があり、その緩急が作品の魅力をより骨太にしていたと思う。
「遊戯と城之内が戦い、杏子が見守り、本田が別働隊として動き、獏良が暗躍する」流れはバトルシティ編でも用いられた立ち位置で、この段階で役割分担が効果的に描かれていたと気づくことも出来た。

遊戯の活躍もさることながら、城之内の存在が貢献のウェイトを占めていた。馬鹿で腕っぷしばかり強いが義理人情に厚い、元より熱血ホビアニ主人公じみた属性を兼ね備えた城之内だ。そのデュエルはそそっかしく技巧の面で遊戯たちの後塵を拝するが、それゆえに限界ギリギリの場面でのジャイアントキリングが爽快で、逆境を跳ねのける強さに拳を握って決闘の趨勢を見守ったものである。序盤では敵の戦略に翻弄され情けない姿を晒すこともあったが、クライマックスのvsキースでは射貫くような鋭い眼光とデッキを最後まで信じる姿勢が貫かれ、思わず「城之内くん!!!」と声が漏れてしまった。両方の遊戯が全幅の信頼をおくのも納得の、最高の男である。この再読では、特に城之内の存在に心を震わせられた。

「孔雀 舞…決闘デュエルを始める前にひとつだけ聞きてぇ事がある!
あんたが何のためにこの島に来たのかを…栄光か?それとも賞金かよ!」
「オレは… 光…だよ」

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 5」  (https://bookwalker.jp/de0286b026-0567-4097-a7a7-cf884e80804e/)

戦うたびに名言を発するのも特徴だ。お前は格好いいことを言わないと死んでしまうのか?と何度も思い、そのたびに好きになっていった。もしいまGBの「遊☆戯☆王デュエルモンスターズ4 最強決闘者戦記」を目の前に出され、三つのバージョンのうちどれを手に取るか問われたら迷いなく城之内バージョンを選ぶだろう。ラーも付いてくるし。

D・D・D編

王国編とバトルシティ編との間に挟まれたDDD編はどうしても幕間の雰囲気が強いものだが、「遊戯がその回のライバルとゲームで勝負する」学園編のフォーマットが導入となるため、その頃の空気が好きな私にとっては比較的楽しい回だった。
というかダンジョン・ダイス・モンスターズを買ってたので懐かしさが高められた。当時周りでやってる友達はほとんどいなかったが…。

この回は、闇遊戯が活躍した学園編のフォーマットを表の遊戯が踏襲することに意味がある。すなわち学園編で闇遊戯がしていた流れをなぞり勝利することで、遊戯がもう1人の自分と肩を並べいずれ向かい合うに足る存在となったと証明したのだ。
バクラの介入と「千年アイテム」の出自について言及されたことで「闇遊戯との別れ・自立」の土壌がこの時点で育まれている。
ダイスを振ってパズルを組み立てるがごとく迷路を作り出す、DDDそのものが遊戯と闇遊戯が対話するかのような構成になっているのも面白い。

双六じいちゃんと御伽の父との因縁が子孫に受け継がれてしまっている構図も、「自分の預かり知らぬ過去が刈り取りに来た」バトルシティ編の王とマリク(引いては墓守の一族)との関係を思わせた。
若き日の双六がやり手のゲームプレイヤーなのをさらりと明かさており、終盤に向けてピックアップできそうな要素を配置する溜めの動きも読み取れた。御伽はもうちょい活躍しても良かったと思うが、非戦闘要員は本田と被っているのが悩ましく…。

どうでもいいが文庫版10巻は「腕にシルバー巻くとかさ!」と「ならサ店に行くぜ!!」が同時に収録されており、ネットミームの観光名所に来たみたいな読後感があったりなかったりするのだった。


バトルシティ編

遊戯王において、頂点に位置する完成度を誇るのは間違いなくバトルシティ編だろう。改めて読み直してもこの評価に揺らぎはなく、それは驚くことでもなかった。

古代エジプトと闇遊戯名もなきファラオとが強固に結びついたシナリオのメインストリームが色濃く、M&Wのルールが整備されたことによりカードゲーム描写の面白さが格段に向上し、それらを渾然一体に融合する「神のカード」が戦略性・フレーバー面を補強しており、誇張抜きで最強の布陣となっている。(梶木が出てくると若干王国編の頃のTRPG風味が顔を出すのはご愛嬌)
グールズとの決闘や神のカードを巡る遊戯と王国編でのライバルたちと激闘を繰り広げる城之内とで視点を二分したことで、前者は不気味さを醸成しつつマリクと戦う本流を作り出し、後者は爽快な少年漫画としての読み味を確保する相補性を生む…。この緩急が心地よく、どちらの読み味も味わえる豪華な構成にはページを捲る手が止まらなくなっていくほどであった。

冒頭から王の記憶の石板が登場したように、「過去」がひとつのテーマと明示されているのも気持ちよい。これはマリクや養父への復讐心に囚われた海馬にも表れているが、遊戯と城之内の初戦を鑑みるに作劇場の意図が明確なのも強さがある。
闇遊戯が自己の正体と記憶、いわば過去を求めて戦うのがこのバトルシティ編だが、初戦がかつて失った切り札であるエクゾディアデッキなので文脈との接続具合がかなり高い上に、杏子とデートした際に入手した「光の封殺剣」が勝利へのターニングポイントだったのが友情のテーマに忠実だ。
城之内とエスパー絽場の直接の共通点はといえばきょうだいの存在だが、むしろ遊戯と出会う前の城之内がくだらない自分を厭悪し、決闘後の城之内が絽場に「自分を見下すのは自分自身ではないか」と投げかけている辺りがより意味合いが通るか。というのもこのデュエル後、絽場を見つめる城之内の意味深なカットが連続して入るのである。共通項をもとに過去を乗り越える話運びを構成している上手さに舌を巻く。そしてここでも城之内は格好いいことしか言えないの好きになっちゃうから勘弁してくれ…。

やりたいことのテンポが異常にいいのも特徴だ。遊戯&海馬vs光・闇の仮面戦で結束がより強固な力を生むことを提示したと思ったら、直後のvs洗脳城之内で真の絆とは?と問いかけられ、めまぐるしく状況が変転するので更に目が離せなくなる。週間連載のライブ感でこれを味わえた当時の読者はさぞ楽しかっただろうな…と思いを馳せてしまう。

また、このバトルシティ編は「執筆中に何らかの境地に達したのでは?」と素人目にも分かるほど、表現力が底上げされている。底上げなんてものではなく漫画媒体における一つの極地を垣間見てると言ってもいいかもしれない。
視線誘導が計算されつくした技巧的なコマ割り、とても週間連載でやったとは思えないほど緻密に書き込まれたモンスターのイラスト、そして迫力のある見開きなど枚挙に暇がない。

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版 15」243~244頁 (https://bookwalker.jp/def8dc2b9e-8998-47e1-9595-0f677c5b5bdf/)

海馬vsイシズでオベリスクをドローする場面である。(本来はページを跨いでいる)海馬がデッキからカードを引く一動作だが、右上から変則的なコマ割りで神の到来へのボルテージを高めながら、閃光と共に視点を再び右上に移し、ページを捲ったところで神のカードをドロー!海馬が紙面を貫きながら「神はオレの手の中に!」と不敵に笑うなど、一連の流れが映像媒体をも凌駕せしめんとする臨場感や迫力が満ちている。
いま自分が凄い作品を読んでいると肌で感じた一幕であるが、vs人形でオシリスがブラックマジシャンガールに招雷弾を放つ「モンスターではない、神だ!」のシーンやvsパンドラでカードをチェーンしつつ死者蘇生でブラックマジシャンを蘇らせる流れなど、語ろうと思えばいくらでも語れるほどにこのレベルの表現が飛び出すのが凄まじい。ン年越しに読んでも、その牽引力が一切色褪せず、見惚れる。

王国編に続き、ベストバウトが連発する。やはり1番が選べない。遊戯と海馬とが宿命の決着をつけるバトルシティ準決勝や、これまでのライバル達の切り札が逆転の秘策となった城之内vsリシド、決闘者の魂を揺さぶり友情がその手を掴む遊戯vs城之内あたりが鉄板と思うが、そのほかのマッチも魅力の面では負けてない。なんとも贅沢な悩みである。

神のカードは強烈な特殊能力や圧倒的な火力など一手で盤面を変化させる力の反面、3体の生贄が必要とコストが超ヘビーなためモンスターをいかに揃えるか?の戦略構築が肝になる過程が楽しいほか、いざ召喚されると大ゴマや見開きでインパクトを与えるのがメリハリを効かせるし、かといってフィニッシャーとなることは少なく他の切り札の出番も損なわない。オベリスクを生贄に青眼の白龍を召喚する場面は「運命を超えた」メッセージ性も相まって震えたもので、オシリスもラーも王国編の盛り上がりを上回るのにこれ以上ないカードとなった。

城之内が遊戯への依存を捨てて真の決闘者デュエリストとして成長していく過程は、翻って遊戯がもう一人の自分と決別する最後のステップが間近に迫っていることを否応なく突きつけつつ、それぞれの魅力が存分に放たれていた。また、王への怨念に囚われていたマリクが、最後は自分の手で幕を下ろすのを「サレンダー」で表現するのも、カードゲームを媒体にした作品として感心させられる。これまで諦めの象徴でしかなかったサレンダーに、勝負に負けて未来を勝ち取る転機の意味合いを持たせたラストは、その透き通ったタッチもあり感嘆のため息が漏れたものだ。


…と、長々と言葉を並べたが、そんな小難しい理屈を差し引いても完成度がとてつもなく高い長編だった。これは遊戯はもちろん、城之内も海馬も、マリクでさえも彼らの人生の主人公なのだとスッと心に落ちるほどに、彼らの血の通った生き様が描かれていたためだろう。遊戯王を名作たらしめる、まさしく「神回」たちでのバトルシティだった。


王の記憶編


ロマンの溢れるエピソードだった。神に守られ栄華を極めた古代の王国が、怨念・未練・憎悪など様々な激情の坩堝に呑み込まれやがて落日を迎える。神の時代は終わり、神秘はやがて薄れて、超自然の横たわる世界を人は歩み続けていく──諸行無常、万物流転の定めをナイルの流れと共に描く一大スペクタクルだった。
砂漠の過酷さと力強さを感じさせる熱、死を運ぶ夜闇の切なさ、そして光と闇の描く軌跡の尊さを言い表すためには、やはりロマンという言葉が最も相応しいと思う。

かなり好きなエピソードでありつつ、ここで人気が再び低迷を迎えたことに忸怩たる思いを抱く反面、納得してしまう部分もある。というよりバトルシティ編が少年漫画としてあまりに鮮烈で、面白すぎたのだ。

実際のところ滅びを迎える物語としてクオリティが高いのは言うまでもない。一人また一人と神官たちが死にゆく中、死してなお王に付き従うマハードや新たに力を覚醒させるマナ、王国を守護するために奮起するシモンとエクゾディアなど、名もなき王のルーツを巡る絶望と希望の旅路はこれまでの総決算として文句のないものだ。
力を求め闇の道に寄せられるセトが、異国から迷い込んだかのような美女・キサラに一筋の光を見出だし傍にいてほしいと願った美しさもまた、海馬と青眼の関係性の昇華として十分なパワーがある。
バクラの正体が古代の盗賊王と判明し、序盤から続く遊戯との因縁が「遊戯を介した王と王」の太極図を作っていたのも痺れる。持て余すほどの憎悪を腹に抱え、残虐な性根を隠そうともせずやがて世界を混沌の闇に陥れるバクラの崩壊のカタルシスは、ある種の昏い魅力があった。

…のだが、バトルシティ編が激闘!逆転!友情と勝利!といった直球なエンタメに寄りかつ大成功していたのもあって、記憶編の移ろい変わりゆく詩的な話運びに、見劣りを感じてしまったという感想があってもそれを咎めることはできないだろう。まぁ記憶編がつまらないなどと言われたら即決闘ディアハ!!!!!と叫んでしまうが……。

闇のTRPGの再話となる記憶編はこれまで闇遊戯と同じデッキで戦っていた遊戯が自分だけのデッキで戦うのが、王と友情を結び巣立っていくこれまで全ての過程をメッセージに込めていて好きだし、カルトゥーシュに王の名前を浮かべるシーンがDEATH-T編で友情を確かめ合った際の「ピースの輪」の構図になっているのも、この漫画が常に友情と共にあったからこそ達成感にも似た読後の感傷を高めていったように思う。

少し話が逸れるタイプの好きなシーンは「遊戯を心から案じて博物館についていったのに、ボバサに闇人格がアウト判定を食らって泣きながら帰る獏良」と「古代エジプトで囚人を拷問していた官吏が海馬邸の執事の前世」だったところ。魔術師師弟が魂のしもべしてたり青眼が海馬の真の光していた流れで海馬の執事が魂のリレーしてくるの何?

闘いの儀

だれにも出せない 答えが僕の中にある

出典:「渇いた叫び」field of view

遊戯王の総決算であり最終章を飾るイメソン、もとい主題歌として「OVERLAP」が最高のものなのは最早当然のことだ。しかし、この一気読みを経て闘いの儀に辿り着いたとき、ふと浮かんだのは「渇いた叫び」の一節だった。
いじめられっ子で情けない一面もあるが、誰よりも優しい少年だった遊戯が、多くの決闘とその中で育まれたもう一人の自分に出した彼だけの答え。それはまさしく遊戯だけの旅路だった。

闘いの儀についてはもはや散々語りつくされているのもあるし、今更多くを語ることもないだろう。アニメ版の三幻神集結や、ガイアにマグネットバルキリオンといった切り札が総出演する豪華さも好きだが、原作のテンポよく進み駆け抜ける余韻をもたらす心地も捨てがたく、結局自分の中で優劣はつけられない。
ずっとアテムの背中を追い続けていた遊戯が初めて向かい合う最終決戦、「遊戯 王」のサブタイトルだけでも目元が潤み、心が締め付けられる。
M&Wで初の逆転を飾った「死者蘇生」が、「死者の魂は現世に留まってはならない」のメッセージと共に王の魂を還るべき場所に送った。ラストシーンは何度見てもため息が漏れるほど美しいものだ•••。

「遊戯…オレは誓うぜ!遊戯の中にもう1人の遊戯がいたって……オレ達はずっと友達だってな!!」

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版3」(https://bookwalker.jp/de45ef8c31-c19c-4003-95c7-59e5d6fc8348/) 

「遊戯!!王だろーがお前は遊戯だ!千年経とうがオレ達はずっと仲間だ!!」

出典:高橋和希「遊☆戯☆王 モノクロ版22」(https://bookwalker.jp/dea062886a-071b-467a-8058-579279fabb39/) 

城之内…お前作品の総括までしてたんだな……。


総評とか

折角なのでと流れで「THE DARK SIDE OF DIMENSIONS」も見直した。放映当時も劇場で見たものの、頭の中で整理されて当時より解像度を高めて飲み込めたように思う。
終わりを迎えた物語の再話を「王の眠る場所」を荒らす海馬によって描く分かりやすさが良いほか、養父の呪縛を乗り越え「過去は踏みつけにするものだ!」とまで言い張っていた海馬が、アテムのAiに勝利しても「過去のビジョンに勝利することに何の意味がある!」と吼えることに深い納得を覚えた。死者蘇生のメッセージが効かないのもまぁ分かるし、それを見越していたかのようにカウンターを仕掛ける遊戯の容赦なさで「あの頃と変わってない…」と遠い目になってしまった。大スクリーンで無限ループをしかける主人公、ただごとではない。
遊戯達が卒業を控えているのも、この作品自体が別れの刻限が迫る限られた時間の物語なのだと、メタ的な要素を含めて全体の寂寥感とお祭り具合を彩っていた。いつものメンバーの他、御伽とその父が元気にしていたり、バクラの犠牲になった体育の刈田先生が登場したりとファンサービスに気合が入っているのも胸を熱くさせた。城之内のアゴは悪いオタクが入ってたけどな!!劇場で見てた時も笑ったけど今回も笑ってしまった。あれは完全にMADで遊戯王を楽しんでた者たちに対する爆弾だと思う。
アセンションの思想自体はZEXALでも触れられていたが、よりインド神話にクローズアップしたことで原作が持つオカルティズムの香りが色濃くなり満足感が高い。闇バクラは消滅したとはいえ、シャーディーを殺害したくだりの伏線を回想として描くことで結果的に出演させる手腕はさすがだった。ついでとばかりに獏良が不憫な目に合うの「分かってる」スタッフだと思う。

藍神が城之内を別次元に送った際、「ここに存在しているが互いに見えない次元」と説明していたが、これも見えるけど見えないもののテーマを再構成していて唸った。これだけでも面白いが、次元を超えてもなお繋がり続けたアテムとの記憶が城之内を送り返すスパイスが友情 YU-JYOの構図を大胆に再現する。
城之内がアテムの姿を垣間見た場所が、バトルシティ編ラストで二人が向かい合った地点なのがあまりにも強く、この映画のハイライトの一つと言っても過言ではなかった。バトルシティの終わりが描かれなかったように、二人の友情にも終わりが訪れることはないのだ。
遊戯が倒れる最後の瞬間に降臨するアテムの、「あの」効果音に感じた震えは、DSODにおける最高最大のファンサービスだっただろう。遊戯とアテム、二人が向き合いつつも何も語らず、しかし「少しだけど話せた」と言葉以上の想いを交感した余韻が優しく包み込む。エンディングで疾走する海馬も文句なしに駆け抜けていった。それでこそ海馬、それでこそデュエリストである。


改めて読み返し、紛れもなく名作だったと彼方の記憶を取り戻すことができた。記憶編は高橋先生の体調不良も重なり駆け足になったという惜しさはあるものの、作品全体を「友情」の柱で一本通しテーマにブレなく最後まで走り切った構成力や、画力・表現力はまさしく一流のそれ。全力で駆け抜け、有終の美で幕を下ろした作品だった。
本編はもとより劇場版に至るまで通されたその文脈には、昔も今も変わらず魅了された。薄れた記憶の中にこそあったが、間違いなく今の自分の血肉となっていただろう。

輝く光のように眩しく、完結すれども心の中で確かな脈動が止まらない。私にとっての遊戯王は、今もなお生き続ける物語だった。

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