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二つの「オンライン」の間で

甥っ子が大学に進学した。コロナ禍の中、多くの大学がそうするように甥っ子の進学先も緊急事態宣言を受けて休学となり、しかも自宅待機のため大学から遠く離れた高知で過ごしている。オリエンテーションはかろうじて開催されたらしいが、学校推奨のPCの購入もままならない状態なのに、履修の申請などは学校標準のオンラインで提出するようにとお達しがあったらしい。甥っ子は学校で使っていたiPadと自分用のスマホは持っているが、パソコンは持っていない。困っているから助けてあげてほしいと姉から依頼があって助けることになったが、その間じゅう、ずっとモヤモヤした気持ちが絶えなかった。

若い世代のオンライン

甥っ子は自分用にカスタマイズされた「オンライン」で情報交換し、それを元に行動を起こしている。

今の高校生らしく、友達との情報交換はLINEやインスタを使ってやり取りするし、調べ物はスマホを縦横無尽に駆使して答えを見つけるのは本当に早い。「ケータイ」ではなく「スマホ」ありきのクラウドネイティブな世界。ハイパーリンクでテキスト・画像・音声・動画が相互に繋がり簡単に知りたいことを芋づる式に取り出せる世界に暮らしている。行動するための情報だから、それを得るために過大な時間を割く暇はないのだ。

おっさん世代のオンライン

一方で進学先の環境はいまいち垢抜けていない「パソコン」ありきの世界で、「リアル」を「デジタル」で無理やり焼き直した世界に私の目には映った。私の世代は大学の講義の情報は学内に何箇所もある掲示板でしか受け取れなかったものだけれど、その頃と同じ方法で時系列にただただ整理されていないテキストのみの情報が列挙され、タグ付けもされず講座で集約して見ることも難しいものだった。

あくまでも「情報をオンラインで掲載できる」事をゴールにしていると私は感じた。

二つのオンラインには裏にある「常識」の違いがあり、それはきちんと意識しないといけない違いだったのだと思う。

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ボタンの掛け違い

とはいえ、ITを生業にして生きている者として、ITに立脚した環境を作る側としてこういう状況は何度も見てきたし、実際にやってしまった事もある。

「ああ、わかるけど、やっちゃいけない。くそう、でも、そうなるの判る、判るよ…」そういう今までそういうの自分も作ってるやん的な自戒の念がモヤモヤだったんだろうと振り返って思う。

RFPを作る側の「若者のオンライン」への想像力の乏しさ、「オンライン」をあくまでも「オフライン」の補助にしている視点、ベンダーも恐らく「学生」を向かず「大学」を向いて用意した事が、この「オンライン」を生産性の低い構造にしているように見える。ちょっとしたボタンの掛け違いが結果として誰も幸せにしないシステムを生み出している。

この大学が無能とか批判したいとかそういうことではない。これはシステムを用意する側がやりがちな事で、そうならない事の方が遥かに少ない事だ。

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子どもの方が知っている

別の日にオンラインの勉強会で、子どもたちだけでZoomで集まり自由に会話をさせた(保護者としての先生は一人だけ場を見守っていたらしい)ら、勝手に家にあるマンガでビブリオバトルを始め、家にあるものを映してしりとりを始めたという話を聞いて、「ああ、これはもうその場を体験しないとダメだ」と感じた。

Zoomとは会議やセミナーをするのに使うものという固定観念があり、私には「合意のために、学びのために、繋がるためにわざわざ使うもの」で「よし使うぞ」と意識し緊張して使うものなのだ。ところが子どもたちにとっては「当然あるもの」で「常識」なのだ。だからオンラインでいる刹那にその制約を熟知した上で自由に発想して場を創り楽しむ事ができるのだろう。

「オンライン」の場で生産性の高い行動を取れるのは「これまでの社会」に囚われている私の世代ではなく、「これからの社会」を生きる子どもの方なのだ。

オンラインコミュニケーションの場に「若者」を入れよう

Afterコロナ、Withコロナのこれからを考える時に、「オンライン」は欠くことのできないパーツだろう。そしてAfterインターネット、Withスマホの時代に生まれた若者は「オンライン」の世界を既に生きている。だから、子どものオンラインの常識を受け止めないと、私達は彼ら彼女らに十分に伝えることができない。

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確かに、はじめの一歩としての「砂場」は大人が用意してあげないといけないが、若者の考える「オンライン」とは何で、どうすれば若者が行動に移しやすい「オンライン」になるのかを虚心坦懐にフィードバックを貰い、そこから「生産性の高いオンラインとは何か」を一緒に考えるのが良いように思う。

子どもたちは今自由にできる時間が十分にあるわけで、今こそ色んなオンラインセミナー(含むFAJの勉強会)に中学生や高校生を誘導できないものかな。

学校のオンライン学び場のデザイン

でも、一番実践しやすいのは「学校」なのだと思う。学校の学び場をオンラインに移し替えて…と私達の世代が考えて動くのも大歓迎なのだけど、もう一歩踏み込めないだろうかとも思う。

子どもたちだけのオンラインの空間でどんなやり取りが行われるか。いじめや人を傷つける行為への最低のガイドラインは設けた上で、自由にさせた時にどんな事が起きるのかをじっくり観察できないだろうか。きっとそこにはこちらの思ってもいないようなコミュニケーションが行われ、新しい発見があるんじゃないだろうか。

その上でオンラインの学び場を子どもと一緒に創り上げることができたら、多分より伝わり、より行動変容に繋がる場になるのではないだろうか。

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冒頭で私が感じた二つのオンラインの違いは、生まれた時期の違いからくる避けることのできない常識の違いだ。そして、どちらかが乗り越えなくてはならない壁だ。

乗り越えるのは、子どもたちの側だろうか、大人たちの側だろうか。

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