15周年物語 3

ハルです

記者「おめめどうで、初めて商品化したのは、コミュメモですか?」

いえ違うんです。では、ここで商品の説明をしますね

おめめどうを起業して、初めて販売したのは、ライトタイマーというタイマーです。ライトが時間を五当分して消えていくもの。1分なら1分を五当分。60分なら60分を五当分。ライトが消えて行き、あとどのくらいが見えてわかるもの。

syunさんが作ってはったんですが、キットをいただき、篠山の知り合いに作ってもらって、販売していました。

その次に作ったのが巻物カレンダーです。2005年2月に曜日なしの大を3000枚を作り、五ヶ月の間に全部飛び立って、「うちの子にもカレンダーがわかった」というお便りが全国からきました。知的障害にもカレンダー と言い始めたのは、この巻物カレンダーができてからです。

翌年、年月日入りの巻物カレンダーを作り、撃沈。全然売れず、売れ残りは捨てました。辛かったです。私には「これはいるのよ!」と見えているものが、伝わらないんですもの。

その後、年を入れない、曜日ありカレンダーのバラ売りを思いつき、今のスタイルになっています。

ダダさんの幼児期に七曜日式を3年してみて、ちっともわからず、小学校に入るときに縦長式のを使いました。すると、日が連続しているために、よくわかったのか、好きなことを書き入れるようになったのです。その後、知的障害に重いお子さんの親御さんが、巻物にしてみたら、わかったと教えてくれ、それをヒントに商品化しました。巻物カレンダーを使うことで、予定を組む、段取りをする、心づもりをするなどが育っていくんです。七曜日式では、それが難しいんです。

今では、おめめどうのナンバーワン商品です。

次に作ったのは、「みとおし」「えらぶ」「おはなし」(最初はこたえる)メモです。視覚的支援を始め、学ぶうちに、自閉症の支援で大事なのは、この三つだとわかりました。

だから、いてもたっても同時発売します。2006年のことです。

第一が、スケジュールをすること(見通しを持ってもらうこと)です。カレンダーとスケジュールはセットなんですね。

第二に、本人のことは本人が選ぶことで、所有格、モチベーション、責任がでてくることと、こだわりが減っていくのです。これしかないから、あれもあるになって行きます。選べるようになると、頭の中に選択肢が並び、問いかけにも返事が浮かぶようになるのです。発信に至る順序というか思考にはシステムがあるんです。

第三に、見える形のコミュニケーションです。そうすることで、誰から誰への言葉なのか、方向性がわかります。音の方向性がわかることで、混乱も少なくなるのです。

*この三つについてはもう少し解説はしました。

おはなしメモは、今で言うLINEの形ですが、LINEは、2011年に生まれていますので、おめめどうの方がデザインとしては先に作ったんですね。

そのあと、とけいメモ、◯×メモ、どうしてメモなど、次々に企画・販売していき、今では、20種類にも及ぶコミュメモがあります(10周年の時には、15種類と書いています)。

昨年の売り上げランキングを見ても、みとおし系、おはなし系、えらぶ系が上位に並びます。売れるいうのは、役に立つということです。だから、この三つが、どれだけ必要な支援かがその数字でわかります。そういう検証はおめめどうではできるけど、他の療育の分野では、そういう役に立つ、将来がどうなるという検証はまずされません。その時だけのセッションで終わることが多いですね。

でも、この巻カレやコミュメモは、丹波篠山でしか生まれなかったのです。これを今回は新聞に取り上げてもらいたいのです。

というのも、私には、このアイデアを、商品にしてくれる、幼馴染の印刷屋さんがいたからなんです。プリテックの堀くん。幼稚園から高校まで同じでした。だから、気楽に、「一番大きな紙で、長いカレンダー作ってくれへん」と和紙で作った見本をもっていきました。すると「これなに?」と聞きながら、「ええよ」と印刷してくれたんです。

コミュメモもそうです「これ何に使うん?」といつも聞いてくれて、「これな、順番を書くメモやねん」というと「そんなんいるんや」。で、「ほな、作るわな」で出来上がってくる。

誰かれに、こんなに都合よく、印刷屋の幼馴染はいませんよ。しかも奥さんも、高校の同級生です(とても気やすい)。

もし、私が丹波篠山に住んでいなくて、東京や大阪のような都会に住んでいたとしたら、どうでしょう? 私、療育先に飛び込みますよ、大学に相談に行きます。セラピーroom詣でしますよ。だって、都会やもん。いっぱいあるもん。

でも、丹波篠山には、なにもないんです。自分でせな、誰もしてくれへん。実際の子供しか教えてくれる人がおらんのです。

だから、パソコン通信で学んで、時折神戸大阪の研究会に出かけて、家で子供を見ながらしてきたんです。「ああ、この子七曜日式のカレンダーわからんねやわ」と気づいたんですよ。自分でしたから。

それからもう一つ、メモという商品にするには、それが役立つか、使えるかのモニタリングがいりました。

それが、2005年の中学進学でできました。
だださんは、小学校は地域の特別支援学級に在籍していましたが、中学校は養護学校を勧められます。知的にも重かったので。

自閉症は変化に弱い。それは確かなことでしょう。馴染みのものが好きですし、同一保持も起こります。

すると、教育委員会はこう言ってきました。「小学校は障害児学級の担任がついて指導しますが、中学校は、教科担任制ですよ。変化に弱い自閉症でしょう。『お子さんには負担ですよ』。それなら、ひとりの先生が担任する養護学校へ行き、手厚いケアを受けた方が『本人のためですよ』」

でも、私はノーマライゼーション、インクルーシブ教育がいいと思っていたし、隔離政策には反対でしたから、「変化に弱いのであれば、変化しても大丈夫にしましょうよ」と話します。それが「変化をしないものを使う」ということでした。

国語の担当、理科の担当の先生に同じメモを使って、その時間のスケジュールを書いてもらいました。すると、ダダさんは先生が変わっても課題をこなしていくんですよ。えらんでもらうようにメモに書いて、ダダさんが丸をする。誰が示してもできますよね。

そうして、一年、みとおし・えらぶ・こたえるを、モニタリングをしたものを、商品化していったのです。

今、ダダさんはいくつもの施設を使い、何人ものヘルパーさんが対応してくださっています。変化に弱い自閉症なのにです。

それが可能なのは、同じコミュメモを使ってコミュニケーションをとってくれているからです。そうして、自分にとって、「コミュニケーションできる場所、人という安心感」があると不適応は減ります

すると、私の年間60回という巡業の回数も、事業所の協力で、こなすことができているのです。思惑は、ビンゴでしたよ。

大人になって、穏やかな暮らしができているのは、療育で色々できるように適応させたからではなく、カレンダーやメモを毎日使ってきただけなのです。

「な〜んだそうだったんだ」がわかった人、見つけた人が、今、猛烈におめめどうにやって来られているってわけなんです。


続く