15周年物語 2

ハルです

父の死は、私にとって、いささかに辛く、しばらく家に引きこもっていました。その後始めて話に出たのは、『杖の役割』に収められいる「山間の小学校人権学習会」です。TASを一緒にしていた先生から頼まれて、仕方なく行きました。

でも、そのことが「杖の役割」をはっきりと文字にすることができたのです。

いろんな人と話すけれども、このsyunさんに教えてもらった「杖の役割」は、わかっていても「でもね」と言われてきましたから、文章にできて本当に良かったと思いました。これで、おめめどうができると思いました。伝えなきゃと。

しばらくしてから、商工会のH田さんが、家を訪ねてくれました。「お父さんから聞いています。綾子さん、起業しましょう」玄関を開けたら、そんなことを言われました。

ちょうど、「一円起業」という会社法ができて、それまで、有限300万、株式1000万円かかっていた起業が、有限なら一円でできるのです。ベンチャービジネスを後押しする会社法でした。

もちろん、事務所を借りたり、事務機器を揃えたり、司法書士さんに定款を作ってもらったり、会計士さんについてもらったり、お金はかかるのですが(はい、自腹です)、それでも一円の魅力は大きく、商工会が全面的にバックアップしてくれることで、起業に向かって動いていきます。

その時に、今のスタッフに声をかけました。「うん、あのお母さんは、銀行に勤めていたと言っていたな」で、会計担当になってねとお願いし、「あのお母さんは、パソコンができると言ったな」でワードとエクセルを習いに行ってもらい、「あのお母さんは、片腕としてマネージメントが上手だ」と一緒に商工会での話し合いに付き合ってもらったり。

今も残る4人が、その時揃いました(めちゃめちゃ、勇気があったのですね)。いやはや、すごい冒険です。でも、不服も言わずついてきてくれたんですよね。

私は、設立記念の時にそれまで溜めた文章を『レイルマン2』として出版することにしたのです。

おめめどう設立記念の講演会は、大きかったですよ。四季の森公園で、たくさんの方がいらしてくださいました。ずっとあちこち回っていたときに出会った親御さんも多かったです。かといって、その人たちは、起業したあとは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなりました。ボランティアの話を聞くのはできても、有料で講演にいく、ましてや、グッズを買うところのハードルは、きっと高かったんだと思います。

2004年5月28日、記者さんの聞きたかった「おめめどう起業」です。ダダさんは、小6になっていました。そこから、思春期の兆候が現れるのですが、私は、おめめどうを起業したところだったし、正直、なんにも心配もしていませんでした。

視覚的支援はわかっていたし、選択活動もやっていたし、それに、メールもできて、AACの先駆けをしていましたから。きっとこれで、乗り切れるはずみたいに、かる〜く思っていたのです。

しかし、2004年から、2009年の五年間は、ダダさんが思春期に入っていくのと、おめめどうの経営と、それから、MUUの受験期が重なり、とっても大変でした。

しかも、自分が7コマ式はわからないとわかって、その後縦長を使い、横長のアドバイスを受け、これだ!と信じて販売した「巻物カレンダー 」も売れないんですよ。コミュメモだって、ぱっとしない。

それから、営利だからという理由で、それまで講師で呼ばれていたところからは、総スカンを受けてしまいます。ものすごい会社法人差別でした。また、先達からは、「私たちは、ボランティアでしたのに」と叩かれました。自分たちはお金を出して施設を作り、重度の人から入所してもらっているのに、あなたは、グッズを売って、手立てを話してお金を取るの?!みたいな。

でもね、私は、もっとたくさんの人が楽になるようにと、起業したんですよ。だって、自作だと「奥平さんだから、ダダさんだから」でしないじゃん。どうしたら手立てをしてくれるようになるんだろう?と考えて、「そうだ!講演会でグッズを販売すれば、家に持ち帰ってすぐにできる。そうすれば、してくれる人は増えるはずだ」と思ったのですよ。

見てるところが違いすぎるのに、営利だということで、ひどい言われようでした。

家の中は混沌として、商売もうまくいかない、人からはボロクソに言われる。もう、よく覚えていないんですけど、2009年くらいまでは、本当に貯金ばっかりなくなっていくという感じでしたね。

とはいえ、持ち前の前向きポジティブのおかげでか(汗)、周囲の出来事(借りていた家の大家さんが認知症になられて、ボヤみたいなことも起こって)で、じゃあ、と今の味間奥に事務所を立てることになりました。4年くらい経った頃です。

自分の城ができたので、凹んでる場合ではないし、一生懸命広報をして、集客をして、出かけて、販売して。

でも、当時は、私、ちっとも今のように「自閉症支援」はわかっていなかったんです。視覚的支援はしていました。でも、「させる」ためのものだった。音声での指示や禁止を、見える化しただけだったんです。もちろん、選択とかしていました。でも、聞きたくもないことも聞いたりして、相手の立場に立っていなかったんです。

自閉症は母子分離が極端にできない障害です。それは、コミュニケーション障害だからですね。だから、母親が周囲に子供の通訳をしながら子育てをしていきます。園や学校の先生にも「ここの子がこうするときは、嫌な時です」「子供がああするときは、こんなときですから、こうしてください」とか、憶測の域はでないけど、親の経験から子供のことを語るんですね。サポートブックがいい例ですよね。

家族でも、お父さんの言葉を、母さんを通じて本人に伝えるなんかもしょっちゅうです。

自閉症は4;1で男性優位と言われていました(当時)。男の子が多いのに、育てにくさから、母親がほぼワンオペで子育てをしてくるんです。

思春期には、障害があってもなくても、親をうざく思うようになっていきますよね。でも、コミュニケーション障害の子供を育てた母親は、いつも、代弁をしなきゃと身構えているんですよ。散々行動障害に悩まされてきたから、見ないふりができない、ずっと気にしてる。

健常児なら、思春期に親がうるさくなったら、「おかんうざい」とか、「もういらん、やめて」と口でいうなり、行動で示してくれます。だから、親の方も気がつくんです。「ああ、もう離れなきゃ」と。

でも、障害があると、それができない、口で言うてくれない。となると、態度で表す、自傷や器物破損などです。すると、もっと抑えつける方向へ向かっちゃう。

健常児と障害児の違いは、「親を育てる力」と言われています。健常児は、親を育ててくれるんですよ。離れたり、口答えしたりして。でも、障害児は、その力が弱い。そのために、幼児期から同じような関係性、依存性のまま大人になってしまうこともよくあるんです。

一生懸命視覚的支援でスクスク育ててきたつもりでしたが、思春期になり、母子分離が上手にできませんでした。

それは、一生懸命してきた親だったことが裏目に出たのと、おめめどうをしているし、下手なところは見せられないというような気持ちから、小手先を使うようにもなったし、また、同居をしていたので、お姑さんを優先して、本人を誤魔化すようなこともしたからでした。

今から思えば、全然、わかっていなかったです。今は、それらがなぜ、間違っているのかはわかりますよ。

ダダさんが、高等部をやめたのが、2009年の11月です(9月には学校へ行かなくなりましたが)。そして、その後母子分離不全から、爆発し、入院をするんですね。

そこになってやっと、「年齢の尊重」の大きさにはっきりと気がつくんです。自閉症の支援に欠かせないものは、その年齢を生きているということ、そのねんれいの対応をしなくちゃいけないってこと。つまり、思春期なら、必ず、母子分離をしなくちゃいけないんです。(親との物理的・精神的な分離です)

そのことにも気がつきました。それまでの、視覚的支援だけではなく、もっと本人の気持ちを聞く(つまりいうてくるまで待つ)という支援に変わっていくんです。一つの転機を迎えます。

5周年から10周年の間の五年間は、おめめどうが大きく舵取りをした5年でした。

そして、次に起こる転機が、2011年の東日本大震災です。

続く