二十周年物語⑥
多くの方が、やはり「視覚的支援」を誤解されています。でもそれは、大元の「障害者を支援する」を誤解されているからではないかなと思います。
本当の障害支援は、「本人主張」「本人の自己実現」を支えるってことです(つまり、自立=自己決定を支える)。そのためには、自閉症・知的障害・発達障害であれば、「視覚的支援」は必要なのです。判断しないといけませんし、発信もしないといけませんしね。
でも「従わせる」「同じようにさせる」「一緒に居させる」であれば、そんなのに「視覚的支援」いらんでしょう。本人も嫌がるようになるでしょうし。
そもそもの「大元」の支援の考えが違うのに、そこで「視覚的支援は、いらない」とか「なんですの?それ」って思います。
ところで、穏やかに暮らすってどう言うことなのでしょう?
ショートステイの送迎時、施設では「指示待ち」の人をみます。ずっと座っていたり、支援者さんが話しかけたら、返事をしたり。言われたことなら、黙々としたり。また積極奇異で、ずっと構ってくる人もいらっしゃいます。その様子、暴れていたりしなければ、「落ち着いている」と言えば、そうです。
写真や画像で切り取られると、「ニコニコしている風」は落ち着いているように思いますよね。でも、果たして、それを「落ち着いた」と言うのでしょうか?
これも、『母子分離の重要性』(p51)に書いたのですが、実際、どの状態でも「大人になったら落ち着いた」と表現するんです。これには、私も驚きました。
当時しくじりを終えたあたり、強度行動障害の対応で有名なN学園でおられた専門家に聞いたんですよ。「え?それじゃ、どんな形でも落ち着いていると表現できるんですか?」と。「そうです」と言われた時には、ぶっ飛び!(なるほど、そういう仕組みか!と)
だから、視覚的支援をしなくても、「落ち着き」ますよ。そこが、「罠」なんです。
だって、どの形でも「落ち着いた」と表現するんだから。
そして、知的障害・発達障害があれば、「別の暮らし」を想像することは難しく、今の状態が(どんなものであろうと)それが「自分の暮らし」なんです。
もっとこうなりたいとか、言ってこないし、もし今の状態が「しんどい」のであれば、「行動障害」という形で表現される。すると「困ったわ」と周囲はまた「押さえ込もうとする」。それでも成り立ってしまうんです。
いつも話すでしょう「周囲が困っていることは、本人はもっと困っている」と。そのことに気づかずに、「困った困った」と言い続ける人は、ごまんとおられます。
「じゃあ、手立てをしていきましょうよ」と、話しても、視覚的支援、視覚的コミュニケーションが、本人を追い詰めているように感じ、「それは、いらない」と言う主張は聞かれます。
それは、そうでしょう。
包丁だって、悪いことをしようと思う気持ちで持てば、人を追い詰め、ケガさせますよ。でも、腕の良い料理人が持てば、美味しい料理を提供してくれるでしょ
それと同じです。
使う人が、表現は悪いけど「凶悪犯」(つまり、強いる・させる・動かすために使う人)であれば、視覚的に示されたって、本人は、嫌なだけですって。
だから、その包丁(視覚的支援)をちらつかされなくて、なんとなくムードがよくなったら、楽になるじゃないですか?その様子を「ほらみろ、視覚的支援なんていらないんだ」という話になっているってこと。
もちろん、その「押し付けないムード」で、本人の様子が穏やかになったものが、上記に書いたように、「指示待ち」の状態でも、「落ち着いた」になるんです。
その「落ち着いた状態」は、どんなものですか?
自分で時間を判断して、自分で選んで、自分で発信してしていますか?
(そこは問われないんです。だって、落ち着いているんだから)
注:人は「安心できる場所」にくると、いっときは落ち着きます。でも、自分で判断できない環境が続くなら「不具合」は起こってきますよ。不安になるからですね。でも、そうなった時のことは、表に出てきません。沸々とした苛立ちとか、こだわりとか、「ああ、自閉症だからね」で不問になってしまうんです。
でもね、「料理人」が使う包丁だって、あるんですよ。
その包丁の話をしましょう。
昨日19周年の時の動画をみていたんですね。するとsyunさんが、「おめめどうは、コミュメモ売ってますけど、売ってるのは考え方なんです」と言われていました。
(もっと、考え方を売ってほしかったよ〜・教えてほしかったよ〜涙)
「考え方込み」でツール販売をしているんです。なので、⑤で書いたように、今後「ツールだけで考え方がなくなる」のは、とても危険ですし、残念です。それも歴史だから仕方がないとはいえ。
考え方を知ってもらうとは、「料理人」でいうところの「包丁の使い方」や、「食材によって、どうしてそう切るのか?」の理屈を知ってもらうことです。
ところで、大根の面取りは何のためにするかわかりますか?
「大根は幅4cmほどの輪切りにし、厚めに皮をむく。 この後、切り口の角を包丁で削って丸くする。 これが面取り。 このひと手間で煮ているときに大根の角と角がぶつかって煮くずれするのを防ぐことができる。」
そう、煮崩れを防ぐためですね。その理屈を伝えないことには、包丁で切ったらいいんでしょってなりますよね。となれば、大根の煮物だって美味しさは減っていくでしょう。
使い方・理屈を伝えること。いわゆる「人権」まで伝えることをしてきたんです。
腕の良い料理人になるには、学ぶだけではダメで、やってみる、数するがいるんですよね。そして、お客様から「おいしい」と言ってもらえるとかも(当事者が楽になった〜ということですね)。
なのに「包丁は人を傷つけるからダメだ」と言われてしまう。いやいや、そうじゃないでしょう、使い手の問題でしょう。
「視覚的支援」を批判する人たちは、なんか、ごっちゃにしてはるんですよね。無知っていうか、結局「自己保身」なのではないかな?と思って見ています。
その人の暮らし ≠ (どんな形でも)落ち着く
なんですよ、そこも、誤解です。本人が自己決定し、自己主張し、自己実現していく、それが「その人の暮らし」だと、私は思っているんですけど、そうは思わない人たちも多いです。
でも、SNSとかで表立って、論争することは、やめました。
それぞれ言い分があっていいんだ。それが「合わさらなくて」いいんだ。違ってもいいんだ。
「良い悪い」じゃなく、「好き嫌い」でやっていこうと。
「多くの人に」と思ってスタートしたけど、いろんなことを経験し、見聞きし、結局至ったところが
「自分家がシアワセなら、いいや」「腕の良い料理人になって、美味しいご飯を食べよう」でした。
みなさんも、どうぞ、腕の良い料理人になってください。
続く