二十周年物語③


 連載は、楽しいですよ。やってきたことを文字にして、残しておく
 20年というか今年で29年(ダダさんが診断されてから)、私がしてきたのは、このことですから

 ただ、ダダさんのことより、もうおめめどうのことを残すんですね。

 話が、前後してわかりにくくて、ごめんなさい。


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 2004年から2006年までは、最初の借家で、何とか「おままごと」のような経営をしていきます。ただ、お客様は、少しずつ増えていきました。

 2007年に事務所を間借りしていた借家の大家さんに認知症の傾向が見られるようになりました。光熱費の計算が間違っていたり、ボヤ騒ぎを起こしたり。何と言っても、おめめどうは紙製品ですし、このままそこを借りては怖いなってことになり、同じ家賃を払うのであれば、社屋を建てて、そのローンを返す方がいいだろうという判断から、今の味間奥に社屋を建てます。

 国道176号線の近くの土地は高く、結局、そこから随分と行った奥の奥に広い土地を紹介してもらって、自社社屋を建てました。実際の建坪は「19坪」ですよ、あの建物。

 この時の借金が1900万でした(汗)もちろん、貯金なんかはなくて、全部ローンです。旦那さんの保証人のハンコで、地元の信金が貸してくれました。

 私何回か、大きな借金をしました。また、どうしても現金が集まらない時には、MUUさん、ダダさんの貯金も使いました。実家の母からも借りました。いや〜、よくやれたと思います。
 
 「何が一番大変でしたか?」と聞かれたら、ダダさんのしくじりのことも大変だったし、syunさんの病気でのアップダウンも大変だったしするけど、やっぱり「お金が大変」でしたよ。

 売れないと、次が作れないんです。次を作るとなると、売れるがいるわけです。なので、資料を見ていただくとわかると思いますが、一度もセミナーを中断していません。メルマガもハルネットも一度も休みなしです。

 また、規模を大きくするとなると、それに必要なお金は、借りなきゃいけないんです。借りたら、返さなきゃいけない。低金利だからやれたんですよね、変動金利で借りているので利息が高くなったら、どうしよう(涙)

 今は、自分だけの信用で運営できています。誰の保証書もない。「自分自身」が担保です。最初に旦那さんに押してもらった「ハンコ」を抜くのが大変でしたね。「完全に扶養を離れる」を目指しました。こういう考えは、きっと稀なんだと思います。それほど「自立」したかったですね。

 だから、潰れても、誰も困りません。借金を残すと、子供が困るので、それだけは避けるつもりですけど。

 先日、MUUさんから「母がやめたら、誰がどのくらい困るの?」というLINEがきて(経営の勉強をしているので、興味が出たみたいで)、スタッフにも聞いたら「私らが困る」と即答で言ってましたが(笑)、「そうやなあ5000/10000名くらいは、困るやろうなあ。それから、これから生まれてくる自閉症の子供達が困るかな」と、そんな話になりました。

 「誰がどのくらい困るの?」のMUUさんの言葉を、あれからずっと考えているけど、おめめどうがなくなると、きっと「新しいもの」ができるんだと思います。「自閉症支援は衰退する?」(そんなに進んでないけど)それも、わかりませんね。先のことは誰にもわからない、未来はこれからの人が作っていくものだから。

 ただ、もっといい「療法・方法」が出てくるとも、薬が誕生するとも、思えないんですよね。どうですか?どこかに、そんないいものの「芽生え反応」ありますか?

 TEACCH、PECS、ABAなどなどローマ字のものはもちろん盛んに言われています。それを「個人的に突き詰めたら」そこそこ楽な暮らしができるんだろうと思います。そうされている方もいらっしゃる。

 でも、それらが「多くのご家族が、楽に、コスパよくできない」のが、私は気になります。これ以上、広まりますかね。私は、難しいと思っています。それは、それらが生まれた海外と日本の文化が違うからです。

よくわかるのが、この動画です

https://youtu.be/St2-Yl413uc?si=NF0yo1w0vv6R043J

 どうでしょうね、これだけベースが違うのに、同じツールを使っても、尋ね・伝える内容は違うんじゃないかしら。

 私は「洋物を輸入するときの注意点」があると思っています。
 (日本文化が輸出される時もそうですよね。「漢字Tシャツ」を見て、私たちは「お〜ジャパニーズ」とは言いませんでしょ。でも海外の人は、あれも日本的と呼ぶのです)。

 おめめどうは「日本チックな方法」です。まあ、こんなチマチマしたもの海外では生まれなかったでしょう。

 それは、「非常時に生きる日頃からの支援」の英語版『Guidance to autistic people in an emergency situation』を出した時に、すごくよくわかりました。海外在住の方からも「日本にしかない」と教えてもらいました(後で詳しく書きます)。

 さて、2007年に社屋を建ててからは、一国一城の主ですもの。もうローン返済もずしっとのしかかってきて、次々に商品を開発して作って、できるだけ出かけていき、話して。本当に必死です。でも、楽しかったですね〜、ADHDの本領発揮という感じ。

 それ以前の1999年からセミナー、2004年からハルネット 2005年からメルマガ、巻カレ、2006年からはコミュメモ、基本はでき上がっていたので、あとは応用をすればよかったのです。でも、考え方は今から思えば相当未熟でした。syunさんも、この辺りは、堺でご活躍で、たまにしか出会わなかったですし。叱る人いないのは、結局は「天狗」を作るだけです。危うくそうなりそうな感じの時代。

 2007、2008、2009年は、それらのグッズやサービスを知って欲しくて、夢中で働いた感じします。その一方で、ダダさんはしくじっていくわけで、家の中は混沌としてました。正直あんまりよく覚えていないです(メンタルは多重人格化して、崩壊を防ぐいうのは、本当かもしれませんね)。

 私が「天狗」にならなかったのは、今となっては、ダダさんのおかげではないかしらね。

 そして、2011年東日本大震災が起こります。

このグラフみてください。5月に決算なんですけど(だから昨年度が出ていません)

https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12850599909.html

 これを見ると、「2011年から2019年コロナ」まで、ずっと右上がり(しかも急激な)を示すようになります。つまり、知られてきたんです(もちろん、隅々までではないけど)。

 前にも書きましたが、専門家や団体などの関心は得られず、よそからの広報は微々たるものですから、おめめどうは「口コミ」だけで広がっていきました。なので、その口が、じわじわ増えて、一定量を超えるとブレークするという具合。だから、減ることがないんですよ。

 日本は、この年から「災害大国」になっていきます。なので、私が3.11から発信を続けた『非常時の支援と工夫』をみて、すぐに「医療系」からの問い合わせがあったのは、嬉しかったですね。

 反対に、「療育系」からはさっぱりでした。医療は即戦です(待ったなし)。でも、療育は即戦ではないからですね。その違いがはっきりしたなあとその時思いました。

小児看護 2012年5月号(へるす出版)
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12731316349.html


 私は基本「予防」の話をします。日頃の手立てもそうです。「行動障害になってから、どうこうする」のではなく、「行動障害にならないように暮らす」方が、よほど「コスパ」も良いし、本人も、家族も、「精神衛生上」よろしいもの。

 「防災」に関しても、「予防」のお話です。社会の「防災」の関心も高まり、よく求められるようになりました。なので、2011年が、おめめどう的にも一つの「節目」になります。

 東日本大震災の時には、被災地から、また関係者から、たくさんの相談がやってきました。それに一つ一つ返事をしながら


「こんな非常時、どんなことを意識して支援をしていったらいいと思う?」と、私がsyunさんに聞いたら

 ポツッと、「そやな『仲間はずれにしない』やな」と言われたのです
(うむ、この時は、堺から兵庫県に、戻られていたなあ。年表を見返そう)。


 2011年から「仲間はずれにしないで」が、おめめどう支援のキャッチフレーズになりました。
 (2021年12月 商標登録に認められました)






続く