二十周年物語⑦

やれやれ、荷物は揃いました.

 今日5月8日は、司会の人との打ち合わせでした.今回の司会は、長男MUUさんがヤマハの3歳児ランドで担当だった、西田夫佐さんです.

 それからのお付き合い、西田夫佐さんが、ラジオのパーソナリティをされていた時に、呼んでいただいた時の放送が、こちら

https://note.com/omimido/n/n792e5f2fcb07

 可愛い人ですよ〜.プロの方なので、お任せしちゃいます。今回は、コンサートもあるので(実際、とっても、よかったですよ〜、参加者さんからの評判もぐーでした)

 司会業て、やっぱり、感性なんですよね。そこで話す人たちの想いをキャッチする力。でも、それは、素人芸では、ダメなんです。数こなすことがいるんです。
 「あの人感性がいいな」っていうのは、「経験則」「数する」があることです。

 一発屋って、結局芽が出ない。じゃあ、自分たちが、快適に暮らすためには・・・・すること、わかりますよね。「数する」ですね。

 さて、続き書きましょう。時間無くなってきました(汗)

・・・・

始める前から、おめめどうは、間違っていないと思ってはやってきたけれども、10年過ぎた2014年くらいからは、確信をしていきます。

それは、「しくじった」からですね。そこから立ち直って、なにが必要か、結局どうしたら良かったのかが、わかったからです。ええ、わかりました。

それから、幼児期の5歳でおめめどうに繋がった方が、思春期の15歳になっている。極端な荒れもなく(そこそこの思春期の様で)、それなりの青春を謳歌している。その実績がどんどん積み上がっていくわけだから、自信にならないわけがない。

ただ、その「手立て」や「母子分離」を、みなさん自身が、それぞれの周囲が、社会がそれをしてくれるかはわかりません。それは、もうそれぞれの手にかかっているけど、でも、理屈としては「完成した」と思いました。

「母子分離の重要性」の前書きに樋端さんが書いてくれた「最後のピース」です。それが、「母子分離」というか、個人の精神的な分離(物理的な分離ではない)だったからです。


それから、やはり「時間軸」と「予算軸」の仕組みです。知的障害・発達障害であっても、時間とお金が身につくことで、多くのことが、本人を形作っていくのです。それを発見したのは、きっとおめめどうです。なぜか?知的障害が重度でも、「巻物カレンダー」で「時間軸」が出来上がるからです。

でも、それらは、すでに「社会の仕組み」としてあったこと。ただ、障害児者の領域では、取り上げられてこなかったってことです。

理由は「障害者差別」がそもそもあるから、「この子にはわからない」だろうから。

でも、その「この子にはわからない」がおめめどうのツールによって、「そうでもないよ」と実感されてきます。七曜日式のカレンダーを、「巻カレ」に貼り変えたことで、どんどん「本人が見通しをもち、段取りをつけていく」その姿に、驚かれた方は、何千にもなるでしょう。


20年間には、いろいろなことを教えてもらいました。ユーザーさんのお便り全部読んで、SNSにしつこいくらいにアップしました。それは、宣伝もあるけど、自分の学びのためでした。「お便り」をインプットして、「お返事」をアウトプットする。

ユーザーさんのブログなんかで「エゴサーチ」して、「お〜そう言うことか!」とハッとすることもありました(人の脳みそは見ると楽しいし、新鮮です)

コミュメモについては、フォーマットで意味どりをする。絵カードだけあっても、伝えることには限界があると言うことをユーザーさんのお便りから言葉にできました

https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12276110442.html

スケジュールには罫線が必要だっていう私の主張も、最重度の人が証明してくれました。「白紙に書いても、順番ってわからへん」って(笑)

巻カレについては、おめめどうユーザーのMさんからいたいだた画像で、私が言葉で伝えていたことが、視覚的になりました

時間は距離である。一列に並んでいることで、順番も距離もズレることなく、はっきりとわかる。

https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12851421396.html

この二つの画像は、人に説明しやすいので、セミナーで使わせていただいています。


「コミュニケーションは、フォーマットがあることよって伝えやすくなる」「伝え・尋ねることで、関係性が生まれる」と「時間は距離である」「心の安定の(心を支える)ためにある」と言う理屈がわかっていないと「障害支援」はできません。


先日トラブルが多い中学生の相談に乗りました。すぐ思い立ったことをしてしまう。脱走してしまうなど、突発的な行動で困っておられました。お使いの七曜日式のカレンダーを見せていただきメールを書きました

その返事は、こうです

「1年すると、巻物カレンダーの意味がわかっていくでしょう。今されている七曜日式のカレンダーでは、見通しがたたず、自分で段取りができません。そのため、息子さんは、認知症でいう『見当識障害』のような行動をしているってことです。

そして、コミュニケーションです『音声言語がわかっている』という認識は、眉唾です。間違っています。自閉症と診断されている限り、発語や聴覚からの理解力で、生活を形作ることは、とても難しい(できないと言っていい)

 おそらく、発語があるにしても、『鸚鵡返し』『目の前のことなら』『思いついたこと』だと思いますし、理解力は『経験したことを繰り返す』くらいのレベルだと思います。

 なぜそうわかるかというと、ダダさんだって、基本の『みとおし』『えらぶ』『おはなし』をしないと(外してしまうと)、その程度だからです。」と

 よかったらコミュメモユーザーさん、一度コミュメモやカードを、やめてみてください。全部を『音声言語』で伝え・尋ねてみてください。わやくちゃになると思いますよ。そして、もう、そのほうがめんどくさって思うでしょう。

 そんな無謀なこと、できないですよね。障害支援を知らないで『音声言語』だけで、コミュニケーションしているつもりの人は、そういう世界にいらっしゃるのです。

 さて、私たち(多くの人)は、七曜日式のカレンダーと、音声言語によるスケジュールで、毎日を暮らしてきます。

 けれども、そのカレンダーやスケジュールがどんどんわからなくなってくると、動きがヘンテコになってくる。それが、認知症の症状の一つです。昼ごはんを食べたのに食べたがる。出かける時間じゃないのに外を出てしまう。しなくちゃいけないことをしない、して欲しくないことをする・・・その状況は、「見当識障害」と呼ばれています。

 これは同じような症状なんですね。時間軸支援をされていない「自閉症の人」と。自閉症は時間の概念がわかりにくい、認知症は、時間の概念が薄れていく。

となれば、逆に考えていけばいいんです。自閉症の人は、カレンダーがスケジュールが「七曜日式、音声言語ではわかっていない」のだと。

 なので、自閉症・発達障害・知的障害の人で、従来の七曜日式で、「今日がわかるように」とか、「曜日がわかれば」とか言っている人は、完全に「滑っている」と思います。

 「そこまでわかっていないのだな、子供達・当事者の脳や心を」と思ってみています。自分たちが「指導したい」「ふれあい、施し、庇護するが支援と勘違いしている」だけなのだなと、その様子が見えるんです。


 もちろん、知的・発達障害でも、七曜日式で来週の予定、来月の予定まで見通しを持てる人たちもいるでしょう。でも、それでも「本当にわかっているのかな」と思います。だって、そこまでの「様」しか示さない。「段取りできなくても暮らせる」
(つまり、例えとしては変ですが、試験当日までに、なんの予習ができなくても、それでもテストは受けられるわけだけ、何点でもよければ)

 その様を「自閉症」「発達障害」と言っているのだから(それを、若者は気まぐれだから、うちの子は怠け者だからとか言ってるのと同じように)。つまり、支援をしてもしなくても「落ち着く」の罠です。

 海外にも「絵カード」や「描写」を使ったコミュニケーション方法はいろいろありますが、とても、難しいんです。「習う」必要がある。その「習う」ために、「高額なお金」がかかる。それは、海外からやってくるものは「ライセンス」があるからです。

 おめめどうは、ライセンスにはしませんでした。だから、ユーザーさんの中で「ヒエラルキー」はないんです。私が、そういうのが嫌いだから。それは、20年してきて、大正解だったなと思っています。継ぐ人がいないことだけが、欠点ですが「後継ぎ」は、それぞれがなればいいんですよ。自分の周りを「シアワセ」にするために。


 なので、おめめどうグッズに販売するにあたり、こう考えています。

使いやすいものを、わかりやすいものを、伝えやすいものを、尋ねやすいものを、それぞれが好き勝手に使っていけばいい。そういう気楽さがあります。

しかも「安価」です(日本は、安い国になってしまったから。しかし、この20年で一番驚いたのが、日本の国の転落です。経済においても、モラルにおいても)。

 ただ、「コミュメモ」や「巻カレ」を使うには、考え方がいる。そこを間違ったダメ。その考え方とは・・・・「人権」ですね。本人はどう思うのか?です。本人にとってどうか、使いたいのか?したいことなのか?それを抜きにはできないので、セミナーやメルマガやハルネットをしています。


コミュメモはなぜ「メモ」なのでしょうか?巻カレはなぜ紙で毎月貼り替えるんでしょうか? みんな「ボード」でいいじゃんって思ってる。だって「使いまわせる」。安いやんそのほうが。


でも、メモであり紙でありするのには理由がある。それが、「親や支援者側が継続するのに必要だ」です。


どちらも、板(ボード)だったら

・同じのを作らなきゃいけないから(めんどくさい)

・本人が汚しにくい(触ってなんぼです)

・消えてしまうから(したことが残らない。達成感がない)

・そして、支援側の思い出にならない(支援側にとって、反省や感動ができない)

となると、やめちゃうんですよ。親も支援者も。やめちゃダメなんですよ。「継続する」が一番大事なこと。車椅子ですよ、メガネですよ。もういらないねなんて、ならないんです。

そして、先書きました「感性」とは、「経験則」「数する」ことでしか、身につかないからです。感性磨きたくないですか?

私は、「親支援」をしないと決めています。するのは「本人支援」だけ。

それは、「本人が楽になって初めて親が楽になる」からです。


となれば、「本人支援」が確実にできるように、本人に支援が届くようにしないといけない。それが、実現したのが、巻カレ・コミュメモ・メルマガ・ハルネット、今、おめめどうがしていることです。


それから、しくじりを経て、「時間軸・予算軸・見えるコム・選択活動」などの手立てが整うとと、親は離れていくだけでいいのだ。

と言うのも、わかりました。

これは、誰がなんといおうとです。「やってみ。離れてみ」って思います。


私としては、20年で自分なりに達成したなと思っています。なので、自分では大満足なので、いつやめてもいいなと思っています





続く

と言っても、そうはいかないのですが・・・・