二十周年物語⑨
15周年から、5年が経ちました
2019年に書いた「15周年物語」は、こちら
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12674770482.html
この間にあったことは、コロナ感染症の拡大。
「15周年の2019年がコロナでなくてよかった」と、何度スタッフと話したでしょう
だって、コロナだと、あれだけの人が集まることは、なかったと思うから。いやいや、それ以上に「集まることさえ」できないんだもの。
「講師と登壇者」
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12465284987.html
「全体写真」(これで、200名です)
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12465289121.html
「おめめのお目付役」
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12465304524.html
そして、2020年からコロナ感染症拡大、自粛期間に入ってしまいます
おめめどうは、エンタメ系ですから、巡業ができないことは、直接ダメージがありました。話を聞いていただけない、商品を手に取っていただけないということは、うっかりおめめどうに出会うきっかけが、ほとんどなくなってしまうってことだからです。この、たまたま会場に行って、うっかり出会う人って、結構大事なんですよ。
ほんと「え?このままじゃ、おめめどう潰れちゃう?」と心配になりました。
だって、食べ物屋さん、エンタメ系の事業、どんどん閉鎖していくんです。スペース96さんが、立ち売りを辞められることになったのを聞いて、めちゃショックでした。
でも、会社を維持するためにすることは、「打てる球は、なんでも打つ」ということです。こういう時は、「守りより攻め」なんですよね(その加減が難しいんだけど)。
なので、あまり得意ではない「ネット」の中に飛び込むことにしました。
「おみみどう」を作ったり「Youtube」をしてみたり
(でも、やっぱり得意じゃないから続かなかったですけどね)
おみみどう
https://note.com/omimido/
ハルヤンネチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC0nuCAsyNFMqGqueCKitOyA
はーにゃさんに教えてもらって、「zoom」ができるようになったのは、ありがたかったです。やっと起死回生です!
オンラインセミナーがスタートしました。
慣れないことでの心配をよそに、zoomのおかげで、これまで出掛けないと会えなかった人たち.多分、巡業だけでは会えなかった人たちに、おめめどうのことを知っていただく機会が増えました。話を聞いていただけるようになりました。
北海道、東北、沖縄・・おめめどうを見つけてアクセスしてくださる。きっとハルネットのユーザーさんもこの5年の中で出会えた方もいらっしゃるでしょう。
15周年から、20周年までに、ご新規さんが「5000」も増えたのは、このオンラインのおかげだと思います。
ただ、オンラインなので、私自身にあまり「手応え」がないんですよ〜、だから、伝わったかなとか、あんなのでよかったのかなとか、いつも悩んでいました。一人で盛り上げて話すので、後でガックリと疲れてしまうこともしばしば。
頑張っていても、決算を見ると、数字は正直で、2020、2021、2022と売り上げはダウン。やっぱり、順調に右上がりで来たので、とても残念な気持ちになりました。
だって、おめめどうを知ってもらえないんですもの。
こんなコロナ禍の非常時に、ツールを使っている、考え方を知っているのとそうでないのでは、随分と暮らしの大変さが違うだろうとも思いました。
案の定、ステイホーム(外に出られない)ことで、しんどい人が増えたのか、「虐待」とか「ヘイト」とか増えちゃったんですよね。嫌な空気がそこら辺にあるのが辛かったです。
私は、すぐにコロナは非常時であるという認識をしたので、
『非常時に生きる日頃からの手立て』を上梓しそれを英訳し
英語版『Guidance to autistic people in an emergency situation』のe bookを配信しました.その後冊子にもしました。
https://omemedo.ocnk.net/product/1126
この時.海外に暮らす人たちにも意見を多数聞いたのだけれど、おめめどうの巻カレやコミュメモは「大変日本的なもの」だということを言われましたし、私も実感しました。
極端な表現かもしれないけど、先進国の場合、障害に対する寛容さがあるため、周囲に合わせられなくても、「OKOK」となることも多いってことです。また、開発途上国になると、教育の場に乗ることなく、働き手や隔離された状態になることもあると。
日本は障害に関して、不寛容ではあるけど、教育の場には乗れているので、なんとか伝えることで、一緒にやれるなら、逸脱が減るのであれば、丁寧に伝えようという試みをされる方はとても多いのです(イギリスの一部の人には、同じようなところがあると、言われていました)。
海外在住の方が帰国されるたびに、おめめどうに注文をされて、「こんな便利なものは、日本にしかない」と口々に言われるのを聞くと、この「理由を説明したり」「気持ちを伝えたり」する、その「きめ細やかさ」が日本の文化なのだろうと思いました。
この「冊子翻訳」での経験は、以前から感じていたことをはっきりさせてくれました。つまり「ベースになる文化が違う」ってことです。なので、それを輸入しても、輸出しても、それだけでうまくいくものではないってことです。
私は、昨日の新聞記事のニュースのように、「TEACCHプログラム」で視覚的支援を学んだけれども、それだけではうまくいかず、「選択活動」と「AAC」をより取り入れることをしてきました。それを皆さんにも、楽にしてほしいので「おめめどう」を起業したのです。
もちろん、「TEACCH」でも、選択活動やAACはあったのだろうけれども(私は大変部分的と感じました)、そのどちらもがこの「日本での文化的ベースが希薄」だから、強調しすぎるくらいしないと、人々に伝わっていかないのです。「あってもない」みたいな存在。つまり「(箸で)食べる」の「箸」です。
どうして、この文化論を出すかっていうと、私自身が「古い日本美術(古美術)」の中で育ち、それらが「輸出」される時のことを知っているからです。文化は、そのままが輸出されることって、本当に少なくて、次第に、デフォルメされたり、歪曲されたりしていきます。そういうのをずっと見てきたから、海外から輸入されたものが、本当に日本にフィットするのかというと、そうじゃないと思うんですよね。
でも、日本美術を海外で愛でる人も多い。そして、そのままを上手に取り入れている人は、「日本文化への造詣が深い」ということがあげられるんです。逆いうと、文化的な学びがないと、歪んで伝わってしまうってことです。
翻訳する方は、「海外の文化への造詣がある」としても、その翻訳を読んで方法やツールを使う親御さんや支援側の人に、その「文化」まで認識することは、少ないんじゃないかなと思います。
去年末の「ATACカンファレンス」で、ドロッププロジェクトの青木先生の話を聞いたのですが、あのドロップスのシンボルは「日本だとこういう表現をする」という絵柄になっているということでした。つまり「気持ち」とか「様子・雰囲気」って、「海外のシンボル(PSC等)」で表してある絵とは違うそうです。だって、日本では「そうはしないから」ってことでした。
「ドロップス」や「いらすやさん」が人気があるのは、絵柄が日本的だからなんでしょうね。自分たちの暮らしの表現にしっくりくるんです。
ところで、20年でいろんなことを学んでいけたのは、私が、ずっと「作る」をしてきたからです。それから「アウトプット」。毎日のように書く、発信する。それをしてきた分、脳やこ「隙間」が生まれるから「インプット」も次々にできてきたんだろうと思います。もちろん全く違う解釈をしてることもあるだろうけど。
でも、それでもいいんです。間違っていても。
私は「自分の頭で考えたい」のだから。そうすると「失敗しても納得いく」んです。「成功するのはもちろん嬉しい」けど、それ以上に「失敗が自分のものになる」のが嬉しいんですよね(どMか・汗)
そして、コロナの終息を迎えられそうになった2023年。さあ、これからだと思っていた2023年。
うっすら予想はしていたけど・・・だから、1月から『syunさん が 語る』を、午前中の1時間だけ開催しました。そろそろ、話すのが難しくなってきていたから。午後だと動けなくなってしまうから。なので、午前にして、1時間にして、いつまでも教えて欲しかったんです。
6月までの計6回で、終わってしまったけれど(さすがに録画しましたよ)、『syunさん語録』も『杖の役割』も残すことができてよかったと思っています。
これからも、教えてもらったことは、「言葉」にして残していくつもりです。所詮私のフィルターを通した表現であってもです。
syunさんの話はいろいろ中身が濃いけど、やっぱり、覚えおいて欲しいのは「自立とは自己決定」のくだり。
https://ameblo.jp/haruyanne/entry-12836143372.html
今、手立てをしてきたのに、思春期で、あるいは、青年期で、ぐずぐずしているとしたら、それは、最後の「自己責任の権利」を周囲が取り上げているから、そこを見直してほしいと思います。
この「自己責任」は、ニュースでよく言われるものとは違いますよ、あれは、間違った使われ方です。だって、「自己責任」は、自分で選んだものにしか生まれないから。
でも、大元の「選択」だけど、果たして、その状況を自分で選んできている?そこですよね、「音声言語で選ばせている」なんて、論外ですよね。だって、音声言語は「直列」にしか並ばなくて、しかも、消えていくのに。
選択は「並列」に並んだものを、よおく考えて一つを取ることだし(だから消えないほうがずっといい)。そもそも「自己選択」が出来てない人も結構いらっしゃると思います。ドラマ「くるり」でも言っていたけど、「選ぶ」は「他を諦める」ってことだから。
その「理屈」さえわからず、ズルズルとした「表出」に翻弄されてしまう。それすら、指摘してくれる人がいないと、気が付かないんですよね。
「自己選択」「自己決定」「自己責任」の三つの権利が守られた状態を自立という
ここまでいくには、相当頑張らなきゃいけないんですけど、たどり着いた人だけが見ることができる風景がありますよ
それを見たいかどうかは、もう、個人に任されているんだと思います
ってことで
最終回へ、続く
さあ、最終日の準備をしてこよ