二十周年物語①

ハルです
無事終了したので、アップして残しておきます.思ったことぶちまけてますので、どうぞ、ヒヤヒヤしながら、お読みください

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 みなさんは、20年前何をしていましたか?2004年の春です。
 若い皆さんなら、まだご結婚もされていない頃だと思います。もちろん、自閉症や発達障害という知識も関心もなかったことでしょう。

 私は、おめめどうを起業しました。4月、5月は、その準備をしていました。まあ、会社を興すのには、いろんな手間とお金がかかりました。

 当時は起業するそのものに、有限300万、株式1000万円必要でしたが、ベンチャーを応援する「一円起業」という会社法があって、それを使ったのですが、流石に一円ではできませんでしたので、私の「貯金」を使いました。

 家を借りる、機材を買う、定款などの書類を作るなどで、結局300万円くらい必要だったと思います(資本金のところに300万円と記しています).

 20年前の日本は今ほど経済が深刻ではなく(まだしも、物価と賃金のバランスが取れていた)、貯金を投げ出しても、まあ、大丈夫だろうとたかを括っておりました(汗)

 おそらく、今だと「クラウドファウンディング」をするのだと思います。こういう会社、こういう商品を作りたいので、寄付してくださいというお願いです。それも、なかった時代です。
 あっても、使っていたかどうか、わかりません。人を頼りにすると、人にお伺いを立てるがいるようになるから。そもそも、そういうのが苦手な性分です。

 「NPOにしたら・・・」いう話もありました。けれども、九人の理事がいるとのことで、syunさんやkingさんなどにお声かけをしてとも考えたのですが、その前の2003年に「発達障害支援センターの戦い」に負けたこともあって(あれは、なんだか、ひどい話でした)、意気消沈して、当時「TEACCH系」でやってきたメンバーは、沈没した形になりました。

 「兵庫TEACCH」(TEACCH研兵庫支部)は、~2007年までなんとか続けましたが、その後は脱退してしまいます。やっぱり、全国組織に入ると、役も回ってくるし、自分のしたいこと(物品販売や考え方のマニュアル化)とは「相反する」こともしなくちゃいなくなるから。

 それに、当時のTEACCH系の方には、紙製品の市販ツールに関心を持ってもらえませんでした。あの輸入された形「クリップに差し込む絵カード」が主流だったのです。なので、もっと関心を持ってもらえるかなと思っていたので、落胆しましたね(その後も「絵カード主流」は、ずっと続いていくんです。どうしてなんか、わからへんけど)。

 これほど、関心を持ってもらえないのがわかっていたら、起業しなかったかもです。

 syunさんは堺に。kingさんは教職を辞される。いろんな変化があったのも、この時期です。

 九人の意見をまとめるのは相当大変だし、私は、自分の考えを形にしたいだけだったので、自腹で「会社法人」を作りました。

 起業した2004年は、MUUさん中2、ダダさん小6でした。まさか、その後あの壮絶な「しくじり思春期」がやってこようとは、私は思っていません。なんとなく、やり過ごせると思い込んでおりましたよ。だって、それまで「視覚的手立て」をしてきてるんだもの。

 その後、大変なことがやってくるのがわかっていたら、してないってことは、とてもたくさんあります。だから「わからないからできる」ってことなんです。冒険(危険を冒す)なんて、わかっていたら、できませんって。無知は怖いけど、無知だから飛び込める。

 それからの子供達の様子については、書籍で振り返ってもらうことにして、会社の話。

 20年前には、いろいろ「なかったもの」がありました。その一つが「放課後等デイ」です。なので、私もスタッフも「子供を預ける」ということなく、「登校してもらって、その後、下校時間までに仕事を終え、帰宅する」で業務をこなしました。不登校になることもなかったですね、視覚的支援とスケジュールがあるし、選択活動とか、カームダウンとか、基本的なことは、スタッフの子供達は、どの学校でもしてもらっていました。

 学校のある日はいいのですが、大変なのは、長期の休みです。夏休みなどは、「ここまでできています」という業務メモを見て、次来た人がその後をするといった感じで仕事をこなしてました。

 私と会計は、子供を父親に任せられる「夜」に事務所に来て、帳簿を合わせるをしていました。
 そんな形でもなんとかなったのは、それほど売れなかったからです。

 実際「ダダ母」の時には、話を聞いてくれた人たちは、「ハルヤンネ」になってから、また、「おめめどう」を起業してからは、蜘蛛の子を散らすように、いなくなられたから。それほど「商売」は嫌われていました。まあ、私(母親という立場)の信用がなかったのだと思います。

 「福祉=ボランティア」

 という、おそらく今もたくさんの人の心に巣つくその考えは、非常に強固なものでした。

 巻カレは、2005年の2月に「巻物カレンダー曜日なし大」を作ったのですが、その評判が良かったので、翌「2006年度版の巻カレ大」を「年月曜日いり」で作るのですが、全く売れず、夏まで保管したけど、在庫を全て燃やしてしまいました。

https://ameblo.jp/haruyanne/entry-10043828283.html

 その話をブログに載せると

 「勿体無い」とか「障害者施設に譲ればいい」とか言われたけど、「勿体無い」と思うのであれば、「障害者施設に譲れば」というのであれば、「買ってほしい」と思いました。

 そのくらい「障害児者に金をかけるのは、いやなんだ」を思い知ることになりました。

 私は1999年から講師をしましたが、いくら話しても話しても、多くの人が「自作」をしてくれないので、「市販のツール」があれば、「自作」しなくても、すぐにでも支援ができると思っていたのですが、人はそうではなかったのです。

 しないのは、「自作」か「市販」という違いじゃなかったんです。つまり「手間も金も」(そこ・障害児者に)かけることそのものが嫌なのです。
(また、するとしても、専門家が言った、または、海外から来た方法をしたいのです。それって、向いている方向が「本人にとってどうか」じゃないんですよ)

 どうしてそれが起こるのかというと、「障害者差別」が根強いからです。syunさんが話されていた「スティグマ」ですね。

 「スティグマ」とは、自分たちが、障害のある子供(障害のある人)を授かる(接する)前に持っていた、「障害への気持ち=烙印」、それが心にあるために、子育てや障害支援が進まない、しようとしないのです。

 なので、「そんな手立てをしません」と言われる人の心にあるのは、「差別ですよ」と話せるんです。

 じゃあ「自作でもしてる?」してないでしょ。「心をこめて」「思いやりを持って」とか、いうけど、それって「手間も金もかけませんが」の裏返しの言葉ですよ。

 ちなみに、syunさんが、障害支援がこんなに進まなかった大元は・・・・・・だと言われていたし、また、現在では、大きな・・・・・・困っているなどをを小耳にしました(これは、流石に内緒の部分)

 社会は進んできたのに(特に支援技術)、また、考え方も進歩したのに(特に人権的に)、ずっと「愛」「思いやり」「施し」「寄り添う」といった「聞こえの良い」前例主義を続けると、その思い通りにならない人たちを、排除していくんだなあと。


 私は、起業して、どんどん「現実」が、わかってきました。

 え〜〜〜ん、貯金無くなってから、気づくなんて〜(涙)


 続く