15周年物語 1

ハルです

昨日と今日、二回、新聞社の記者さん相手に(一人ずつ)、フル講演をしました。昨日の丹波新聞が、1時間半。今日の神戸新聞が、1時間19分でした。疲れた〜

でも、話しながら、本当に運命いうのがあるとするなら、こう言うのを言うのだなと、自分なりにそのストーリーに惚れ惚れしまして、今日は、スマホのボイスメモに、録音をしました。これをざっと書き起こして、15周年物語として、残しておきたいなと思いました。

連載するなら、もち、ハルネット でしょう。

15周年の19日の日までの相談に返事する合間に、書いていくことにします。

まあ、しばしお付き合いを・・・かなり長いです。私がなぜここにいるのか?おめめどうがなぜあるのか?がわかっていただけると思います。ご自身やお子さんの年代と照らし合わせて読んでくださいね。

・・・・・

記者「では、おめめどうの会社を興すきっかけとはなんだったのでしょう?」

というくだりから、入るんですよね

でも、2004年のおめめどうを起業するのには、それまでのことをかいつまんで話さねばなりません。

私「遡ること、次男のダダさんが自閉症と診断をされるんですよね。今27歳ですから、24年ほど前の話です。それまでは、私は障害のことは全く知りませんでしたから、3歳を過ぎて診断を受けて、それから勉強を始めるんです。

1995年に診断されて、ことばの教室というところに行きます。当時の篠山・丹波市には、幼児施設も病院もなにもありませんでした。診断は、巡回の医師が一ヶ月に一度やってこられて、そこで見てもらいました。

ことばの教室とは、吃音とか場面緘黙とか、言葉がうまく出せない子供達のために、小学校に隣接されていたもので、そこに、自閉症や知的障害と診断された子供達も、通っていたんですね。

そこで、STさんから、「自閉症はどうやら見えた方がいいらしい」と言われたんです。

それまでの自閉症の療育いうのは「自分に閉じこもる症状」と書くところからも、心を閉ざしている、愛情不足というような情緒障害と思われていたので、そういう扱いを受けてきています。だから、ふれあい・関わりで心を開くことがいる。或いは、座れないことやうまくできないことを、ごぼう美や無視することで、訓練して適応させるというようなものでした。

でも、アメリカのノースキャロライナから、TEACCHプログラムというのが、日本に入ってきて(1989年30年前ですね)、それまで言われていなかった「見てわかるようにする視覚支援」をすれば、彼らに伝わるのだとやっとわかったのです。

私は、ダダさんのそれまでの様子から、視覚的支援を始めます。全然迷いがなかったですね。理由が、自閉症は子育てのせいじゃないのがわかっていたから。だって、長男のMUUさんは、スクスク育っていたのだもの。

もう一度言いますが、篠山には療育施設がないんです。じゃあ、自分で子育てするのには、自閉症を勉強しなきゃとなりますよね。それで、入ったのが、パソコン通信です。

ニフティサーブのFEDHAN(障害児教育フォーラム)に入ります。そこで情報を得ました。一年間は読むだけ、過去ログも全部読みました。
一年後、自分で発信を始めます。ハンドルネームはダダ母です。

そこで、syunさん、kingstoneさんに出会うんですよ。ダダさんが4歳になっていたと思います。23年前ですね。

それから、TEACCHの勉強会があると聞くと、神戸や大阪へ、夫婦で通いました。半分ずつ聞くんです。一人が聴講。一人が子守。

で、学んだことで、家でできそうなことをしてみる。それを繰り返しました。私がパソコンを打てるようになったのは、1997年です(私が34歳頃)。そこから、FEDHANで書いて、神戸のクラスルームのメーリングリストで書いて。ダダさんの物語は始まりました。

そして、1999年の1月に始めて人前で話します。だって、視覚的支援をして子育てしてきた親がいないんです。兵庫県でも3人目。20年前です。

1999年に就学を迎えます。そこで、訓練をして適応をしていく道か、環境と整えてわかる暮らしをするかを考えた結果、障害は治らないのだから。ABAではなく、TEACCHに軍配があがるんですね。療育をやめて、暮らし支援一本でいくことにしました。1998年に習ったABAには、視覚的支援はありません。習ったのは、井上雅彦さんと奥田健次さんでした(今では、二人とも超有名人ですよね・笑)

1999年はいろんなことがスタートした年で、「家でだけ視覚的支援をしても、ダメだ。学校でもしてもらわなきゃ」と思ったので、HPを立ち上げ(ダダ父通信)、地元での研究会を始めます(市内では誰一人視覚的支援なんていうのを知っている先生はいない頃です)。

それが、TASです。そのSTさんや心理士さんと一緒に、地域も巻き込んでいこうと。それは、2003年まで25回しました。

そのTASをするときに、私は託児担当になります。というのも、自閉症支援は、親御さんが家でしないとダメだとわかったからです。家でするが大事だと。当時は、支援日もデイもない頃でしたから、自閉症や兄弟児の託児をするから、聞きにおいでとみんなに言いました。託児にはsyunさんやkingstoneさんが毎回手伝いに来てくれました。

今のスタッフのお子さんは、みんな預かりました。そうして、勉強をしてもらったのです。日本で初めて、「スケジュールと構造化と選択活動を取り入れた」自閉症児を大量に預かる託児をしたので、全国から見学者がやってきましたよ。

親の会は、次の2000年から。講演会を聞いて、家で作った視覚的支援グッズを持ち寄って見せ合うなどをして、続けることを励まし合いました。

2001年には『光とともに』のあとがきを書いて、2002年にははじめての書籍『レイルマン』を上梓します。その頃になると、話に来て欲しいと求められる回数は、年30回を超えていきました。

ダダさんをお父さんやおばあちゃんに預けて、家を開ける。それができたのも、スケジュールと視覚支援や選択活動があったからです。でも、苦労は多かった。

一番辛かったのは、話に行って、視覚的支援のスライドなどを見せても、誰もしないってことでした。100人聞いて、1人、2人くらいのもの。「あれは奥平さんだから」「ダダくんだから」「私にはできないわ」と言われる。自作の壁はとても大きかったのです。

それはとても虚しかったですね。だって、自分たちは「情報を得たい」と思って講演会にくるんでしょう。で、聞いた後「自分にはできない」なら、なんにもならないじゃん。支援いうのは、子供にして、当事者にして、始めて役に立つものなのに。

2003年というのは、私にとって、一番の転機でした。というのも、TASを始めた1999年に生まれた子供さんが、託児にやってきたのです。それで、「これ、終わらないやん」いうのが実感できました。ずっとしてなきゃいけない。でも、これって、個人ですることなの?行政がすることじゃないの?と思い始めました。

政府は2004年の発達障害支援法の検討に入って、発達障害支援センターが各県に一つ作らないといけないことになりました。その時に、「発達障害支援センターの支援員にならないか」という話が舞い降りてきます。私は、今までで培ったことで、お役に立てるならと、とっても乗り気になったんですよ。syunさんとK川さんという女性と3人が、支援者に予定されていました。

でも、蓋を開けてみると、「出来レース」でした。かなり大きなお金(1800万円)でしたから、県ではもうすでにおろす施設は決めていて、対抗馬が一応いるようにして、戦ったみたいにするための存在だったのです。「奥平さんは、TEACCH狂だから」と、いわれないことばを、県のえらい小児科(有名な先生でした)からも言われたりして、凹みましたね。

ああ、福祉って「利権なんだ」とわかった瞬間です。福祉のお金は全部税金です。それを、得たい人たちがいるんですよね。福祉が新しいことを取り入れないのは、そういう「自分たちへのお金」(利権)がかなり大きいというのも、その時以来、ずっと15年感じてきたことです。

福祉の汚い面もみたり、2003年に支援費制度ができたことにより、「託児をしなくてもよくなった」(ヘルパーさんが使えたり、デイができたんですよね)こともあって、完全な「燃え尽き症候群」に陥ってしまいました。

もうやめてもいいかな、話に行っても誰もしないし。自分達のシアワセだけでいいや。

ちょうど父が肺がんの末期で、それまで都会の病院をあちこちしていましたのをやめて、地元の病院に戻ってきました。近いこともあって、病院へ看病に入ります。母、義姉、そして、私が3人交代をして泊まりもしました。

その時に、私が愚痴るんですね。「誰もしてくれない」とかです。すると、父がこう言いました

「それは、ボランティアでしてるからや。ボランティアでして『こんなにしてあげてるのに』という気持ちが出るのであれば、ビジネスにすれば良い。そうして、対価を払ってくれる人にサービスをするようにすれば、お互いが真剣になれるよ。やってみたら」と言うてくれました。

私はそれまで、障害児支援をしてきて、きっと「福祉法人」や「NPO法人」かなんかで、支援者になるのかなと自分のイメージをしていたのですが、そこに「会社法人を興し、社長になる」という選択肢もあることに気がついたのです。

でも、そうアドバイスができたのは、私の父が、篠山市の商工会の会頭をしていたからでした。

そして、父は、2003年9月12日に、亡くなりました

続く・・・