「アイプチしたらいいのに」って言わないで
自分の容姿を受け入れる
中3のとき、クラスの男の子に来る日も来る日も容姿をけなされた。相手の意図は最後までわからなかった。
私の自己肯定感はそのとき粉々になった。
それから何年も経って、その男の子がいまなにをしているのかもわからなくなって、「ずっとあの言葉たちに縛りつけられていても仕方ないな」とふと思えた。
悲しいことに中学を卒業したあとも容姿をけなしてくる人には出会った。
でも、反対にほめてくれる人もいたし、容姿がすべてじゃないという考えにも出会えた。
現在の私は、私の見た目が優れているとは思っていない。
マスクを外すのにはめちゃくちゃ抵抗があるし、変顔しようよみたいなノリにどうしても乗れない。人から見られていることに気づくとすぐネガティブな思考になる。
他人から見た私は劣った容姿に映るんだろうなという思考は消えない。
けれど、「別に綺麗じゃないけど、それでよくない?」と思っている私もいる。
これは、大人になるにつれて生まれた私だ。昔はいなかった。
世間が考える「正解」の容姿
「私は私」でいられるようになった。
一重まぶたも短いまつげも別に、まあいいか、くらいの気持ちでいる。いようとしている、かもしれないけど。
整形とかマッサージとか高等な化粧とか、特別な努力をしてまでほしいとは思わない。
(努力のほうがちょっとめんどくさい)
だけど時折、他人が私を勝手に「不正解」としてジャッジする。
「アイプチしたらいいのに」とか
「マツエクサロン、いいとこ教えようか?」とか。
善意なのはわかっている。
こういう言葉をくれるのは割と近しい距離にいる人間のことが多くて、良くも悪くも遠慮がないんだと思う。
でも私はこういうことを言われるたびに、私の容姿が「不正解」であることを思い知らされる。
日頃、必死に忘れているのに。
私がたとえば「あなたは二重でいいなあ」とか、「まつげ長くなりたいなあ」とか言ったのであれば、まったく問題ない。
私の悩みに対する解決策を提示してくれて、とても親切だ。
でも、そうじゃない。
あなたの思う「正解の顔」があるのはいいけれど、その枠に私まで当てはめる必要はない。
求める自由と求めない自由
今でも、あんなにけなされることがなければもっと気楽でいられたのかもなあと考えることがある。
「アイプチしたい」「二重の私が好き」が当たり前に存在するように、
「アイプチしたくない」「一重の私が好き」を隣に並べさせてほしい。
「綺麗になりたい」という気持ちと同様に
「綺麗にならなくてもいい」という気持ちがあることを知ってほしい。
なにを求めてなにを求めないのかは、自分自身だけが決めることだ。
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