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目だ! 目を狙え!!


そもそもむり

 例えばその土地で暮らして何年何十年の自分とさっき観光で来た旅行者が駅前のテナント入れ替えに気づくことができるだろうか? 大体の場合は無理だ。事前にネットで地図を見てからくる周到さを有した観光客であっても興味は目的地や観光地としての駅前であって個々のテナント入れ替えではない。マップを見てはいるし視界には入っているかも知れないが個々のテナントは見てはいない、つまり無視されているといえる。しかし暮らして何年何十年ともなればそこにどのような店があったか入ったことはなくても店構えの雰囲気くらいは脳裏のどこかに残ったり、工事をしていたら「ここ何が入っていたっけ?」と一瞬思うことくらいはできる。
 上記の二者、地元民と観光客の違いはなんだろうか。興味の違いでいえば観光客は興味がないから無視しているし何も思い当たることはないだろうとなるが地元民は興味は無くとも何かしらの違和感を得ることくらいはできるだろう。興味の有無が地元民と観光客にテナント入れ替えについて違い生じさせている主因でないとすればそれはきっと慣れの差だろうと私は思う。

初見様と百見さま

 今は昔、『さよなら絶望先生』というアニメでこのような話があった。初見様は初見様だから興味がなかったり興味を持ったとしても意図しない何かだったり質問と説明が多かったりする。対して百見さまは作画の違いからキャストではなくスタッフの動向を背景の違いから察したりと散々見ているからこそ、そこは制作側が意図していないコンテンツだというところへ興味が向いてしまい、結局は制作側が意図した話の芯を初見様も百見さまも見ているのか怪しかった。そんな風な話だ。
 先述の地元民と観光客の違いを仮にこの話に近い現象だとしたら彼らにある違いの主たる要因は慣れの差であり、特に目の慣れが違うと推測できる。
 百見さまが散々見ていたアニメと地元民が散々見ていた駅前、アニメであれ駅前であれ見ている以上は視覚による情報の収集だ。いつものアニメや道であっても慣れているからこそ慣習化された身体の動きの中に目の動かし方が内包されてしまう。慣れた道であればそれと思わなくてもいつもの信号機へ目が向く、慣れたアニメであればぼーっと見ていても作画に違和感を感じることができる。
 このように慣習化された目として身体化された(対象が文化ならば文化)資本が存在する。さらに言えばこれは目に限った話でもなく、いつも乗っている車から普段はしない微弱な音や振動を感じることやいつも食べている食事の味が何か変化したと感じることも聴覚や触覚、味覚における慣習化された感覚であり一つの身体化された資本といえる。

世界で一番だろうがわからんて

 駅前のテナント入れ替え、アニメの制作変化と例を出してきたが今度は人間に対象を移してみよう。人間は人間である以上、様々なことに個々人の思い入れや感覚、印象深さには違いがある。いつもと違う髪型に気付けと言われてもそちらにとっての”いつも”とこちらにとっての”いつも”は会った回数でいえば何回、世界標準時刻でいえば数分数時間とある程度は定量化することができる。しかし人間の内心はそうではない、ある人間にとっての”いつも”は感覚的に何十年と住み慣れた地元くらいの”いつも”であるが別の人間にとっての”いつも”が前者と同様の”いつも”であるとは断定できない。
 このように内心の感覚差は内心から生じる興味にも違いが生じてくるだろうし、また興味に違いが生じれば五感のうち視覚に限ったとしても目の動かし方が慣習化されるまでには時間を要するし、慣習化されたとしても「そこじゃねぇよ」といえる意図しない慣習化が身体に資本化されて意図しないことへ目が向いても不思議はない。

当然です。プロですから

 見て(会って)数回、ほぼ初見に近い状態でも変化や違和感に気がつく人間はいる。例えば慣れた大家業が新しくアパート一棟や貸し部屋を買う際には部屋の状態だけではなく共同のゴミ捨て場があればそこは必ず見るし、道すがらの美観や道路の舗装状態、有名どころでいえばコンビニの前に灰皿があるかどうかなど彼らが見るべきと身体化されている情報へは不動産屋と世間話をしながらでも観察している。
 これを不動産ではなく人間に置き換えてみるとどうだろう。例えば異性の見るべきポイントや言及すべき/すべきでない変化や違和感について身体化されている人間がいるとすれば「なぜ身体化されたか?」は別として少なくとも異性慣れはしており様々な身体化も既に完了していて他者に対する振る舞いにおいてミスが極端に少ないか身体化されていることをから相手の意識を逸らすために意図したミスもできるということになる。
 こう述べれば職業詐欺師とは如何に自己研鑽と気配りに長けておりそれを的確に悪用しているかが想像できると思う。だがこれは対人の話であって水槽で飼っている魚の変化や異変、猫を撫でた時に感じる毛の状態の違和感、中古で買ったカメラの見えざる故障、偽造された高額トレーディングカードの違和感など身体化されているからこそわかる気づく疑問に思えることがある。

プロと慣れ

 この世には奢られ続けて早数年、通算合計人数よくわからんという人間がいる。彼であっても回数や時間を重ねることで何かを身体化する現象と無縁ではないだろう。どこか、何かは必ず慣れており見えてしまっていたり意図して見ている何かがあるかも知れない。
 人間がプロ化していくには先天的な要因、後天的な要因、生育的な要因など様々な要因を指摘できるが少なくとも多かれ少なかれプロ化した物事に対して費やした時間と回数はプロ化していない人間よりも多い。では必ず時間と回数を費やせば誰でもプロ化できるのかと問われれば私は違うと答える。なぜならば決定的に向いていない、本心としてあまり興味がない、抽象的にいえばセンスが無いや意識が曖昧などの要因が当人に内在しているとプロ化したいと思ったそれについて他者より多く時間を費やせないし、時間を費やせないから回数も重ねられない。なぜなら他のことにも興味が向いたり活動したりしてしまうからだ。つまりプロ化したいそれに専従できない、この時点でプロ化の主因であると私が述べる時間と回数の条件を満たせなくなる。インターネット人気者になりたいと夏季休暇を拗らせた学生が思いついても夏季休暇程度の合計時間では到底足りないのである。

魔眼と魔眼殺し

 ”なれない”があれば”なってしまう”こともある。物心ついた頃からなぜか興味を惹かれて脳からそれが抜けることは日に一度二度くらいしかないという人間がいる。彼らの五感は若くしてプロ化しており成熟しているといえる。そしてまだ成長過程でもある場合はさらにその五感は他者のそれとは大きく異なっていく。
 視覚に限らず五感が人並み外れる、ある種の魔眼に行き着く。ただこれは必ずしも当人の幸福を約束するものではない。当人が求めていない五感が鋭敏化して不快感やストレスを感じるならばそれは感覚過敏というものであり、イヤーマフやサングラスなどで感覚から入ってくる情報を遮断しなければ日常生活に支障がでる。
 後天的な例を挙げれば初見の人物であっても他者の過敏や変化に気が付くことができる人間がいる。そうなった原因は様々だが生育歴の中に家族から目や気を逸らすと何かしらの危険が自らの身へ降りかかる人生を経てきた人間にこうした感覚が身体化している場合がある。これも当人の幸福を約束するかは不安定であり、誰であってもかなりの対人ストレスを感じてしまい、さらにそれが生育歴による自己のストレスに対する感覚の鈍麻化によって気が付かず病院の世話になるということもある。

結論

 さて、そろそろこの文章を結ぼう。
 まず何かについて感覚の身体化、つまりプロ化するには「好きこそものの上手なれ」というくらいに時間と回数が必要であること。他者より長じる以上は他者より劣ってはならない。
 次に感覚の身体化は幸福を約束するものではない。「過ぎたれば及ばざるが如し」とは少し違うが意図しない感覚の鋭敏化をするよりかは鈍麻な人々の方が心穏やかな場合が少なからずある。
 そして最後に、これが最も重要であるが自己の感覚と同じ感覚を他者へ求めてはならない。ここまで述べたように人間には違いが生じる要因が多い、この事実を無視して自分がこう感じるから、こう思うから相手(他者)も同じことを感じたり思っているだろうとはしないことだ。仮にそれをしてしまえば自己と他者の違い、差異を明確化することは避けられず決定的な分断を生じさせることもある。そして何よりこれは尊重に欠ける。相手の意思を無視して自己がこうだから相手もこうであろうと決めつけて何かを相手に求めることは相手の意思を陵辱しているに等しい。少なくとも自分はこう思う、感じるがそちらはどうか? といった確認による尊重と対話は良好な関係にとって不可欠であり、こうした確認する内容や確認する際の時と場所、言葉を選ぶことも必要である。そして自己と全く違う思いや意思が返答されたとしても自己の望みと異なるとして不服を申し立てたり不機嫌になることは尊重している相手へするべきことではない。また確認された際にうまく自己の意思や思いを言語化できる人間ばかりとも限らないので即答を要求しない等も欠かせない。
 こうして書き出せば次々とルールのようなものが出てくるが人間関係に限らずプロならばやらないこと、避けることはいくらでもありここまでを要約すれば殊にプロ化するには時間と回数を重ねる必要がある、ということに帰結する。
 古い言い回しになるが何にせよ生兵法と付け焼き刃は怪我の元、自己の不利益にしかならないということだ。

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