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象徴空間、その効果と作用とは

背景:
 人間は評価を下す生き物であり、時としてその評価の押し付け合いは闘争のようにもなる。本ノートではそうした人々の「評価」に関した場について扱う。

本文:
  「ライフスタイルをめぐるこうした象徴闘争を支える原理となっているのは、さまざまな形容詞のカップルから成る選好の体系、すなわち、派手な/地味な、洗練された/粗野な、しゃれた/野暮ったい、新しい/古い、上品な/下品な、輝かしい/ぱっとしない、等々の二項対立郡から構成される差異のシステムである」(石井洋二郎、1993『差異と欲望』藤原書店 118p)
 上記の引用からわかる通り、人間は様々な評価を他人に押し付ける。この評価を押し付け合う場こそが象徴空間である。日常的に存在しているこの空間は一つだけではない。ある時は家庭において、またある時は職場において様々な象徴を対象にして人々は評価を下し、押し付け合う。では何を基準として押し付けあっているのであろうか。ブルデューは「正統性」という一つの指標で人々の評価を考えた。

1:
 このノートにおける「正統性」とはいわゆる上流社会階級が持つ文化である。彼らの文化は歴史や伝統といった言葉の裏付けによって社会的に正統化されている。例えば高級な劇場へ行く時は相応の服装をするものだがこれは高級な劇場という場(界)が正統的文化の場でありそこに合わせた服装をするということは正統的文化に身を合わせる、ということである。文化に上流と下流があるという視点において上流は歴史や伝統によって”保証”された確定的文化であり、下流文化とは非常に大衆的で絶えず変化する文化である。このことからわかる通り、上流的文化は”変化しない”ことが価値である。変化せずに、ある種保存された行為が上流的文化である。

2:
 こうした文化の上流と下流の場は人間の評価軸にとても大きな影響を及ぼす。上流の場において上品な/下品なとかいった評価があるように下流の場にも同様の上品な/下品なといった評価がある。これはつまり場に合致しているかどうか、ということだ。個人は自分の意思で他者に評価を押し付けているように感じるかも知れないが人間は場から受けている影響というものがとても大きく、同じ服装であってもその場によって評価が異なってしまう。この場の文化が人の文化に優先される構造は多くの場合において確認できるだろう。

3:
 では場の文化とは何が規定しているのか。それはその場において最も文化的に卓越した人間である。先述した高級な劇場においてもそうであり、その場において最も合致した人とは裏返せば最も文化的正統性を有しており、他者から卓越化によって差異化されている存在である。こうした人物が場を規定している以上、人々は場を規定するための正統性を奪い合う。場における正統性とは争奪の的であり、場において最も正統的である人物がその勝者だ。そしてこの勝者こそが場を規定して何が正しく、何が間違っているかを規定する。こうした正統性の背景を文化資本という視点でみるといわゆる上品な人とは正統的文化を身体化した人である。あえて言うのであればそうした文化貴族的な存在は自らの領地に籠る。つまり自らの文化に合致しない場には出てこない。これはある種の自己防御である。文化貴族は自分が正統的でいられる場において自分を疎外するものはいない。この構造が貴族を貴族として保身させるのである。この構造は大衆においても見られる。つまり人間は自分が疎外されない場を探してそこに居ついてその場にそぐわない人間を疎外、排除するのである。

4.
 この争い、文化的正統性の位置をめぐる闘争は現実のどの場においても遭遇する。回避することは人間集団の中にいる以上できない。ただ全く逆の視点ではこの作用が別の効果を発揮していることもわかる。人間は自らに見合った場へ行き、そこで文化的正統性を誇示しつつ他者を「正統的ではない」として排除する。だが逆に排除することによって結束もしているのだ。ある一定以下の人間を排除することによって一定以上の人間だけで文化的共通理解を通して交友関係を形成する現象はまさにこの構造的作用の結果であると考えられる。つまり場においては正統性による排除が行われている反面で正統性による結束もまた行われているのだ。

要約:
 人間はそれぞれ身体化された文化資本を有している。その文化がその場において正統的であるかどうかは自己がその場に存在して良いか悪いかを決定する要因として作用して良ければその場における結束が起き、悪ければ排除される。

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