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剥離


前書き

 手元のスマホを見てほしい。カバーやステッカー、アクセサリーは付けてあるだろうか? 本稿はそれについての話であり、それが無かった場合を綴るものである。

時間は揮発性

 隠居、というかそろそろ引きこもり生活ともいえそうな暮らしになり早数年が経った。主観的な実感はなくともカレンダーの値が増えているので確かなことだろう。まず今日が何日かが関係なくなり意識から零れ落ち、曜日感覚も生活にほぼ使わないので揮発していき、室内は空調があるから温度感も生ぬるいような日々になると時間から乖離していった。極論すれば自分が起きているか寝ているかすら蒙昧になり夢か現かすらも主観的に地続きになり何一つ変化を知覚しない生態になる。事ここに至ると時間が揮発した状態を過ごすことになる。

季節は人為

 季節は野外にしかない、これは些かの誤りがある。例えば木々の芽吹きや紅葉は気温変化に反応して起こる現象であって木が自らを飾り付けているわけではない。芽吹きや紅葉を見て春だ秋だと感じることは人間が木々の変化を解釈した際に生じるものであり、変化した木々を眺めなければ春秋を感じることは少ないだろう。街中の変化は人為的に季節感、つまり様々なイベントを飾り立てて演出を行う。これは過疎化して飾りが消えた街を想像してもらえればわかりやすい、ただ住んでいるのか空き家なのかわからない建築物が連続しているだけの景色のどこに季節を見つければいいのだろうか。

探さなければ見つからない。

 小さい秋一つ見つけるにしても人間は”見つけに行かなければ”季節の一つも得ることはできない。暑さ寒さといった自然現象だけに着目すれば冬か夏のどちらかしかなくなってしまう。
 ただ気温差と数字が一つずつ増える暦に季節はない。これは無機質といって差し支えないただの記録だ。しかし人間はこの無機質な記録に季節を描いた。ちょうど紙に色を置いていくような行為に近い。月の満ち欠けに名前を付け、木々や草花に名前を付け、誰かを思う日に名前を付けて、終わりと始まりを決めて名前を付けた。このようにただの記録物でしかない暦を人間は飾り立てた。そしてその飾りを「季節」と呼び、筆者はこれを「文化」と呼ぶ。

無名と有名

 前書きの話に戻るとスマホは工業製品であり出荷状態では誰がどう持っていようが同一製品は同一規格でありそこに外見的な差異を見つけることはできないだろう。しかしアプリを入れるなりケースを付けるなりしていくとそのスマホはこの世に唯一の道具になる。同じ事だ。暦を飾り立てる事とスマホにケースを付ける事は同じ行為だ。日々を文化にしていく人間の営みが季節を作りスマホケースを作った。この行為の根源は記憶にある。スマホならばそれが自分の物であると記憶しているからこそケースを付けて自分と似合うようにする、紅葉ならば自分の記憶にある光景と合致すればそれを秋と呼ぶ。記憶が無ければ誰のどのスマホであろうがスマホはスマホであり、何一つ違いがなく違いを作る必要がない。木々の紅葉を秋と名付けてあることを知らなければそれはただの紅葉であり散りゆく紅葉に思うことはなくただの落ちた葉に過ぎない。自分と誰かは持つ記憶が違うから誰かと同じものを前にすると自分の反応が出てしまう。誰かの反応ではなく、自分の反応ということが自他を切り分けつつ自己を発露させる数少ない行為といえるだろう。自分のスマホと同じ機種は世界に数千数万と出回っているが自分のスマホを自分の物であると認識するためにはどうすればいいか? これに対する反応がスマホを自己が持つ文化に合わせる事であり、モノの差異化による自己の投影だ。

違うからこそ同じをしたい

 筆者もわけがわからないと思うがこれも人情だ。紅葉を見て春を思う者はいるだろうか、門松を見てカブトムシを思う者はいるだろうか、誰かと違うスマホを突き詰めて個人輸入を試みる者が三桁といるだろうか。この問いに答えることはしないが読者諸賢は概ね「そんなやついないだろ」と思われるだろう。筆者もそう思いたいが断言を妨げる知人の顔がうすぼんやりと浮かんだので解答はできない。
 話を戻そう、つまり自己を明確にするための差異化したい人情はあるが自己を他者から逸脱させたくない人情も存在することをここで述べたい。話題の共有、共同での作業、飲み会、自分は誰かと同じであり誰かに対して自分は貴方と同じですと示す行為を人間は行うことができる。そういった行為が好みの人間もいれば避けたい人間もいることは承知しているが季節年次の挨拶などは大体の人々が互いの認識が一致していることの確認として慣習化されており、実践していることだろうと思う。
 隠居暮らしにはこれがほぼ無い。合わせる先の他者がいない以上、合わせる行為をする回数は激減していく。その過程で季節も無ければ文化もない、オブジェクトとテクスチャの表示を消したゲームの中にいるような生活になる。そしてこれによってそれと意識せずとも誰かとは異なる状態、意図的な差異化とも異なる逸脱化した人間になっていく。端的に述べれば社会性の蒸発だ。

おわりに

 やや飛躍した結論を述べよう。社会性を獲得したければ季節をやれ。季節という文化コードに乗れ。文化コードに乗った服を着て髪を整え挨拶をしてなんか食べたり飲め。それだけでこれをやっていない人間と比較した際に社会性は雲泥の差として認識される。雑談したいが話題に欠くという人間は大体が季節感の無い服を着て季節感が無い生活をして季節を使っていなかった。既に共有されていて普及率と稼働率がそこらのコンテンツより良いもの、それが季節という文化コードだ。筆者はかなり逸脱してしまった側にいるが娑婆へ戻る日にはなるべく季節を使うようにしている。
 人間になりたければ季節をやるんだ。

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