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ブルデューの四つの概念からみる見えない空間

背景:
 今まで四つのノートで文化資本、場、ハビトゥス、社会階層と階級について扱ってきた。本ノートではこれら四つの概念を用いて人間が普段認識していない”空間”について論じる。

本文:
1.
 ブルデューが述べている場概念についてまず扱う。筆者はこの場という概念には輪郭が存在していると考えている。例えば趣味のサークルという場であれば趣味が外郭を形成しており、仕事の職場であればその仕事(職種)が外郭を形成している。こうした外郭を形成している仕事や趣味には文化がその構成要素として稼働している。例えば会社であれば社風といった文化、サークルでも同様に文化がその場を形成して内容を規定していると考えられる。つまり人間の集団には文化が絶対的に存在している。家庭には家庭の文化、職場には職場の文化、趣味には趣味の文化が存在している。人間の集団が場としてある限りそこには必ず何かの文化が存在している。ある人間集団を理解しようとするならばその人間集団が共有している文化を特定すれば良い。ここで注意しなければならない点は集団が共有している文化は一つではない、ということだ。根本的な見た目、服装、言葉遣い、所作、マナー、など多様な文化が綿密に織りあって総体的な文化を形成してその場を成している。そしてそれら個々の文化を場の内側に存在している人間たちが有していることこそ彼らが文化資本家である証左だ。どの人間集団に入るにしても内部にいる彼ら文化資本家が達成している一定条件を新しく入る人間は達成しなければならない。そして人間は単一の集団に属しているわけではない以上、非常に多様な文化資本家であることがわかる。大きな視点で見ればある種国家のような集団もあれば小さな個々の集団もある。一人の人間が家庭に属し、職場に属し、趣味に属していることは自明である。
 ではどこからが日常的に行ける場でどこからが普段行くことができない非日常的な場なのか。この点に着目してみたい。人間は文化によって形成されているハビトゥスで自らが進む先や生きる場所、やることを決めている。人間個人が有している文化が違えば有しているハビトゥスも異なる。つまり人間の数だけ文化があり、ハビトゥスがあり、進む先があるということだ。しかし逆のことを言えば人間は人生の分岐点を前にしたときにその時点でのハビトゥスで進む方向をある程度規定されており、多くの人々が無意識化で、考えているようで自らが持つ文化の根本までは考えられていないような思考によって人生の岐路で進む方向を決めている。つまり人間は認識している場へしか行けない。認識自体がハビトゥスによって作られている以上はこの規定からは逃れられない。
 以上の議論から警鐘するとすれば無意識下で働くハビトゥスに自己決定を流されしまえば人間はある時点で自己が持つ文化の限界点に達することだ。自己所有文化の限界点に達してしまうとハビトゥスの規定も限界に達して”何を選べば良いのか自己文化を参照してもわからなくなる”。わかっているうちは物事事象に対応できるがわからなくなれば何にも対応できなくなる。これがいわゆる個人の老害化現象の根本的な原因だ。
 では、どうすればこの老害化現象を避けられるか。筆者が考えるにまず自分が所持している文化を理解するところから始める必要がある。自分の文化とは何か、なぜ様々な集団に属せているのかを明確に理解しなければ無意識的に自己が流されることになる。つまり自分が今見えている世界に満足して新しい世界、新しい文化の吸収を怠れば自己が持つ文化は狭窄していき限界点に達してしまう。いずれ来るであろう、文化の限界点を先延ばしにするには新しい文化を自らに身体化された文化資本として取り入れる必要がある。そして新たに取り入れた身体化された文化資本は新たなハビトゥスとなり、個人の選択肢を広げて個人から見える世界をも広げる。
 意識的に文化を取り入れることによって自己世界は拡張できる。だがしかし、これでも人間一人には限界が生じてくる。どういうことか、それは個人が新しく文化を取り入れようにも自分が見えている文化”しか”取り入れることができない点だ。自分か見えている文化しか取り込むことができない以上、取れる選択肢は自分一人では限られている。なぜならば前述した通り、ハビトゥスによって岐路を規定されているために新しく取得する文化すらも規定されてしまっているからだ。一見すると豊かな個人には豊かな選択肢があるように思えるが自分一人ではハビトゥスによる制約からは逃れられない。
 そしてさらに重要なのが”人間一人には見えていない選択肢がある”点だ。この見えない選択肢は人間個人が生きている場の外郭の外に存在している。極論するならば身体化された文化資本の外でありハビトゥスの外にある選択肢こそが自分の選択肢の多様性の確保と自己の老害化防止に繋がる選択肢であり文化である。自己の文化をある程度に特定できればどこからが自分の文化圏の内側でどこからが自分の文化圏の外かを理解することができる。そして自分の文化圏の外へと足を踏み出すことこそが自分を成長させる要因となる。

2.
 新たな文化の獲得は同時に新しい文化資本の獲得も意味している。そして新しい文化資本の獲得はそのまま新しい社会階層への入り口も示している。つまり今まで生きていた場から新しい場へ進むことができる。新しい文化の獲得が新しい場に繋がっており、その場には今までとは違う新しいハビトゥスが息づいている。自分とは違うハビトゥスが生きている場へ行けば自分では想像できない文化が活動しており、新しい選択肢も存在している。だが気をつけなければならないこともある。新しい場で動いている文化の善悪や真偽を古い場から来た自分は判別できない危険性がある。なぜならば自分には古いハビトゥスしかなく、新しいハビトゥスによって提示された選択肢を理解することができないからだ。無理に古いハビトゥスで新しいハビトゥスから提示された選択肢を判別しようとすればその選択肢の意味や価値を正しく評価することができず、その場において間違った判別をしたという烙印を押されてしまう。では新しいハビトゥスを前にしたとき、何が最善の選択肢なのか。それは新しいハビトゥスを形成している新しい文化についての真摯な研究である。この研究というのは新しい文化を自らの身体化された文化資本にする、ということである。新しい身体化された文化資本を得ることができれば新しい場でも新しいハビトゥスによって最善の選択肢を選ぶことができる。

3.
 新しい文化を身体化された文化資本にまでするにはどうすれば良いのか。一口に研究といってもそこに具体性はない。なのでここでは新しく身体化された文化資本を獲得するにはどうすれば良いかを具体的に論述していく。古くからのやり方を参照するならば新しい文化を身体化するには師弟関係がその代表例として考えられる。新しい文化をハビトゥスと同時に師匠から弟子へ伝えてもらう。ここで欠かせない概念として「型」がある。AをすればBになるという型を思考様式として学ぶことができれば自己のハビトゥスがまた新規化されていなくてもとりあえずは型に沿って新しい場に存在する選択肢を理解することができる。そしてこの型が次第に学ぶ弟子の身体化された文化資本となりハビトゥスへ変化して機能を発揮する。この型から身体化された文化資本へ、そしてハビトゥスに繋げる学習手法は古来から行われており効果が見込めると考えられる。またこうした手法を近代化させると様々な型を体系化させて集約する大学が登場する。大学では型を論や学と呼び学生に学ばせる。だが古典的な師弟関係であれ、近代的な大学であれ行っていることは同じである。つまり人間は型として思考様式を文化化させて身体化された文化資本として身につけ馴染ませることによって新しいハビトゥスを獲得している。そして身につけた新しいハビトゥスに師匠や大学が免状を添えることで社会的に制度化された文化資本として認定される。制度化された文化資本は外形的にその人の身体化された文化資本やハビトゥスを他人にわかりやすく提示する機能があるため、制度化された文化資本に適合する新しい社会階層へ参入ことができる。つまり学ぶことが新しい場、新しい社会階層に参入する必須条件である。

4.
 ここまでの議論で新しい場へ参入するには新しい文化を学習する必要があることが明らかになった。ではその新しい文化自体はどうやって見つければ良いのだろうか。様々な手法が検討できる。ここで参照すべきは客体化された文化資本だ。多くの大学を調べて新しい学問を学習するもよし、図書館で普段行かない棚を眺めてみるもよし、様々な手段が検討できる。ただし、インターネットは新しい文化を探す手段として難しい側面がある。なぜならば検索サイトで検索するにしても自分が知っている言葉でしか検索はできないからだ。これでは既存の身体化された文化資本から出た言葉しか使っていないので知っている範囲とその延長線上にある情報しか検索されない。インターネットを使うのであれば検索サイトよりTwitterなどのSNSを利用する方が適切であるかも知れない。ただそれでも使い方は意図的に知らない人や知らない言語を使っているアカウントをフォローしたりしなければ検索サイトと同じ結果になるだろう。


結論:
 古い場に固執すれば人間は判断力の限界に到達してしまう。これを回避するには新しい場を常に探してその場に参入するための文化学習をする必要がある。新しい場では焦らずに場の文化を学習して型があれば型や思考様式を学び謙虚に立ち振る舞う必要がある。人間が普段認識していない空間とはまだ学習していない空間、場のことである。

要約:
 「生涯学習」という概念は人生の繁栄において如実に有効である。

命題:
 以上のことから学習すれば新しい場へ参入できることは明確となったが人生の豊かさを拡大させることに効率の良い場はどこだろうか? それが自分の単純視点からは見えない以上、どこかへ探しに行くか誰かから教えてもらう必要がある。それには自己の身体化された文化資本を明らかにしてそこには組み込まれていない文化資本を探る必要があるとも考えられる。この点は今後の課題としたい。

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