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仏教とブルデュー社会学、習慣の視点から。

 人には習慣というものがある。朝起きる、歯を磨く、顔を洗うなど日々に習慣つけられた行為は様々存在する。このnoteはそんな習慣に着目した話である。

仏教では?

 仏教では習慣を見る際に「」や「薫習」という概念を用いる。まず「業」はサンスクリット語で「カルマ」と読む。意味するところは何か行為をすればその結果が身に残るという。例えばラーメンを食べ続ければ太るで考えれば「食べる行為」の結果、「太った業」が結果として残る訳だ。そして業は身に降り積もっていく。 また薫習はタバコの香りが服に移るやニンニクをタッパーに入れといたら臭いが落ちなくなるなどをまずイメージしてもらいたい。薫習とは心や思考につく習慣のことだ。良い薫習で行けば毎日散歩するなどの行為をし続けた結果、心に「散歩すれば気分が楽になる」という習慣が付く、これも薫習だ。また悪い例で行くと日々の疲れを酒で飲み込んでいたら心に「酒を飲めばいくらか楽になる」というアルコール依存の兆候が薫習として残るようになる。つまり業にせよ薫習にせよ、良くも悪くも習慣によって身につけてしまうものだ。

群れの概念と薫習

 人間は他人からの影響を受けやすい。それが集団、人間の群れとなれば大いに影響を受けるようになる。そう、ちょうど他人の思考や言葉が自分に染みついてしまうように。不健康な群れにいると不健康な薫習が移る。喫煙所の群れなどがその例だろう。喫煙者という群れにいる限り、禁煙ができないのは群れの薫りが自分に移り続けているからだと考えられる。このように一例だけ切り取って考えてもイメージができると思う。要は不健康の薫りが他人から自分に移ることはある。そしてその薫りが薫習となって自分の心や思考に作用してその通りの行動をしてしまう。逆に健康な群れでもこの現象は起きると考えられる。毎朝早起きしてラジオ体操をするサークルに所属したとして、サークルメンバーの健康志向の薫りが自分へ移り心身に良い影響を及ぼすこともあるだろう。以上のように他人や集団から移ってくる行為習慣や思考習慣の薫りはとても重要な点として考えられる。

ブルデューと薫習

 ブルデュー社会学において薫習は「慣習行為」と呼ばれている。無意識的に行っている日々の慣習、通勤の際に通る道やつい選びがちな缶コーヒーの銘柄などがこの慣習行為を意味する。そしてこうした慣習行為はハビトゥスによって規定されているとブルデューは説明した。ハビトゥスによって思考や行為が繰り返されては新しい思考や行為が発展生成されている。この事を前提として薫習を考えるとそもそも生まれ育った家や家族から自らに移った習慣の薫りはあることになる。考えてみれば当たり前の話だが一番近しい親族はつまり一番近しい人間の群れだ。そういった集団から受けた影響というものは無視できるものではない。どんなに嫌でも近くにいれば移るものは移ってしまう。

ハビトゥスも薫習もついたら終わりなのか?

 私はそうは考えない。問題はハビトゥスや薫習が付くことではない。それに無自覚なのが問題だと考える。自分が今日したことは何に起因するのか、今考えていることや選好や嫌悪していることはハビトゥスや薫習の影響ではないかと己を見れば悪癖を自覚することができ、そこから新しい習慣で上書きできる。無意識や無自覚で生きていればコストがかからないかも知れないがそこにあえてコストをかけてみようと思う。自分に対してコストをかけることで見えてくるものはある。見えてきたものに対して真摯であれば突破口も見つかるかも知れない。無にならず、コストをかけよう。

参考書籍

蝉丸Pのつれづれ仏教講座 蝉丸P https://www.amazon.co.jp/dp/4047280941/ref=cm_sw_r_tw_dp_QV6QG6DEWJQ6317ZT0NB

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