意味付けという呪い
人間は呪いを多用する生き物だ。こうであってほしい、こうである、ああなってはいけない、様々な呪いがある。別に呪いが悪いのではない、責任は呪う人間にある。それがプラスの呪いであれ、マイナスの呪いであれ呪い自体に責任は無くただ呪った人間が主たる責任者として存在するだけだ。
今回はそんな人間が行う呪いについて少し書く。仮にだがこれを読んでいるあなたは自分の内面について考えたことはあるだろうか? 自分はどんな人間で、何をしたくて、何に興味があって、何を食べたいか。そんなことを考えたことはないだろうか。私が思うに自分の内面について考えるとき、人は自身に小さな呪いをかけている。例えば今日の夕飯をどうしようかなと考えているとする。その時、ふとカレーを食べたいなと思いつき夕飯はカレーと決めた。しかし帰りにコンビニに寄ってみるとカレーだけ売り切れ。自分自身はもうカレーで頭も舌も決まっていたのに。そんな経験はないだろうか。この自分で決めて自分をセッティングしてしまう現象、これが私にはどうしても小さな呪いに見えるのだ。
自分についてプラスな呪いであればそれはそれで良い。自分はポジティブだからと呪って実際にポジティブに生きることに何の問題もない。しかしこれがネガティブな呪いだと少々生きるのに窮屈する。自分は根暗だから呪い、人とコミュニュケーションをとるチャンスをコミュニュケーションとる前から辞退する。これはあまり良くない。自分自身に意味付けして呪うのならばなるべく人生に有利に働く呪いが良い。例えば自分は歩くのが好きだと呪ってみる。ただ呪うのではない、呪いを身体に染み込ませるには実践が欠かせない。だから歩いてみる。散歩しながら歩くことを楽しむ、そうすれば実践によって歩く楽しみが見つかり実際に歩くことが楽しくなる。
この呪いを無意識にやるとどうだろう。それは思い込みと呼ばれるものになる。人間が思い込むとそれはすごいことになる。自分は飛べると思い込んでモモンガスーツを着込み崖からジャンプすることもある。思い込みはすごい。それでたまに飛ぶこともある。こうした極端な例はさておき自分にかける呪い、思い込みはプラスな方が良いと私は思う。何かに自信が無ければ、例えば本を読むことに自信が無ければ2ページ読むと決めて実践すれば2ページ分の自信がつく。また駅まで歩いていこうと決めて駅まで歩けば歩いた分の自信もつく。自分を呪う方法は簡単だ。目標を決めて、実践して、達成する。それは小さければ小さいほど達成しやすく、後々にも影響する。
だがマイナスな呪いも同様に機能する。自分はダメだと決めつけて何もしないという目標を立ててしまい、実際に”何もしない”という実践をしてしまうとダメだという自信が呪いとして付いてしまう。もうすでに付いてしまっているマイナスの呪いもあるだろう。例えば英語が苦手、という呪いだ。実際に英語について何かやってその結果ついた呪いなのだろう。けれども待ってほしい、自分が目指している目標設定は自分の実力に相応しているだろうか? 間違った目標設定で間違った実践をしてしまい間違った経験を得て間違った自信を付けてしまってはないだろうか。苦手、ならばハードルは低くて良い。忘れてしまっても良い。一日5単語口に出す、これだけでも実践すれば自信になって善き呪いとして機能を始める。プラスを決めてやってみよう。必ず呪いはついてくる。
マイナスの呪いはマイナスの経験と紐づいている。その紐を記憶という。簡単に忘れることはできないだろう。だが上書きすることはできる。別に大きなことである必要はない。人と喋るのが苦手なら直接話すのではなく、Twitterでいいねを押すところから初めて良い。その後に何かもっといいねを押したくなったときには少しリプライを送ってみてもいい。大きな失敗経験を大きな成功経験で挽回しようとするとそれはリスクが大きすぎる。大きな失敗は小さな成功の泡で洗い流そう。
自分に意味をつけるという思い込みという名の呪い。それは健康にいい時もあれば悪い時もある。いい呪いは積極的に、悪い呪いは小さな成功の泡で洗ってしまおう。大丈夫、大きな挽回を狙わず小さく時間をかければ記憶は上書きされる。小さなことからコツコツと呪っていこう。あとは上書き保存。嫌なことは別名保存する必要はない。嫌な呪いは、良い呪いで上書き保存だ。