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料理の限界


前書き

用語

 本記事において「エリクサー」という言葉は『一つで全てを解決するもの』という意味を述べている。

概要

 筆者は本年度に入ってからスケジュールに空きが生じたが体調の崩壊と次なる疾患やその疑いが出てほぼ引きこもり生活になった。家で暇が生じたことで前々から仮説的な理屈として、なんとなくこう作ればこういう効果になるんでないかなとふわっと思っていた料理を作ったりDiscordで提案したりすることで仮説の実証を自分と他者の複数を使い人体実験していた。
 23年度も9月期に入ろうとしているこの8月末、一旦ここで料理が人間に作用する限界について書き置こうと思う。これは自らへの戒めであり、更なる仮説を思いついた際にどこまで扇動をかけるかを考慮する上で重要な事実を明確にする文章である。

食って/寝て/休め

人間が疲労回復を期待する際の基本

 極論ではあるが特段これといった疾患や障害などが無ければ人間は自己の年齢相応の誤差範囲内で疲労を回復することができる。その手段は水分補給と食事をして十分に寝て休むだけである。ただここに誤解または混同されやすいことがある。
 水分補給と食事は別であり、十分な睡眠とは24時間あたり何時間ではなく継続した日数において安定した睡眠時間の獲得と確保であり、休むと睡眠は違う行為である。こうして書き出すと明瞭になるが人間が十分に自らの疲労を回復しようとすれば疲労を回復するために必要な行動が多く、時間は24時間程度では全く足りない。
 より平たく述べれば仮に5連勤の後で1日2日の休日があるとして、自身の疲労は回復するだろうか。その二日間は休日ではなく、勤務が無い日というだけで休日を実行できるだけの時間はなく、実態として勤務日で消化できなかった家事や仕事といったタスクの予備日になっていないだろうか。仮に予備日ならば勤務日が5日と予備日が2日となり、真っ当に休日と言い切れる日は一週間のうちに存在しないことになる。
 この中で休日ではなくその日ごとに休憩時間を捻出することで休日を代替している、そんな状態が継続しているのならばこの世のどこにも休日など無い。

摂取への幻想

 人間は自らの肉体へ何かを取り込むことによって得られる効果を過大に期待したり評価する過ちを犯す。エナジードリンク、サプリメント、一般食品、どれも指定医薬品ではない。厳格な規制と審査を経た医薬品ではない以上、これらには医薬品に近い、同等、それ以上の効果は無い。
 ただ日頃の疲れが少しでも楽になればという期待、もっと言えば疲労を感じなくなればいいなという祈りを以て経口摂取を行う。これは人間が自身の疲労回復を祈祷するある種の儀式ともいえるだろう。力強いものを食べて力を得ようとする根源的な儀式だ。ただこれで満願成就となれば医者は廃業しているだろうし、医食同源といっても医食が同じ効果を生じさせないことは読者諸賢の存じる通りである。

出来損ないのエリクサー

 上記の事柄を踏まえた上で限られた休憩時間の中に格納された更に短い食事時間で劇的に疲労を回復する手段はないだろうか。結論を述べれば無いし、無かった。
 例えばカレーに追加のスパイスと度を越した量の蜂蜜を入れて煮込み食べてから寝る、例えばガスパチョに様々な改変を試みて摂取する。このどちらも人々ごとにそれぞれの感想はあったが当たり前に全てを解決するものではなかった。
 またこのどちらも消化能力と吸収能力が十全な人間からはリアクションを得ることができたがどちらかが弱っている場合はむしろより体力を損なう結果になった。
 そして極め付けは食事、料理によってエリクサーを試みると味が悪くなる。元々のレシピで味は最大公約数として完成されているし、そこから食べる人間の好みで調味料を足したところで味は好みの範囲に収まるがエリクサー化の試みは好みの範疇、誤差の範疇から逸脱することが多く端的にいって飯が不味くなる。
 いくら健康や疲労回復を求めるとはいっても人間が毎日の僅かな食事時間と回数を薬でもない不味い食べ物へ費やせば別の問題が生じても不思議はない。冷えた不味い飯で働く兵隊がどこにもいないことと同じく、食事は美味く僅かでも幸福を生じさせるものでなければ少なくともその料理を食べることは長続きしない。
 あくまで種々の幸福あってこそ耐え忍べることがあるだけで一つでも幸福が損なわれたらただ日々に苦難が増えるだけである。

美味い飯

料理の最低要件

 料理の最低要件とは美味いことである。
 食材に調理という工程を加えて不味いならば食材を食材のまま食べた方が工程の省略になり、その分を休憩時間へ捻出できるようになるだけマシである。
 休憩時間を削ってでも食べたい、それは料理が美味いから生じる動機であり美味いものを食べたい気持ちが起こす単純な欲望である。この単純な欲望すら叶えられない料理を誰も口にしないことは自明であり、継続することはないこともまた自明である。

美味いが先、効果が後

 食べなければ食べたことによる効果が生じない以上、この順序は鉄則といえるだろう。市販品には美味いものが沢山あるし、レシピ通りに作れば大体は美味い。人間それぞれに美味いと感じるものの違いはあれどそれぞれがそれぞれの美味いに慣れる環境が整っていると一度でも不味いと感じた料理は認知における料理の中でも常軌の範囲外であり、二度と口にしない。これは美味いものより不味いものが記憶に残る、ある種の生存本能を根拠とする防衛行動とも思える。

僅かな希望と違う道

僅かな希望

 ここまでの記述で料理は料理でしかないと筆者は述べてきた。
 料理は医薬品ではないし、不味い料理は誰も食べない。だが人間の疲労回復、もっと言えば生命活動から食事を排除することはできないこともまた事実だ。
 僅かな希望として料理がエリクサーになれずとも医薬品のような効果を生じることができずとも極々局所的な経口摂取による効果を期待した料理は作れる。
 料理の限界が浅ければ人類の食文化は地域ごとの違いはあってもどこか画一的になっていたかも知れないが実際は同じ地域、もっと言えばコンビニの中でも何点もの料理が販売されている。それは少しでも美味いものを食いたいという人間の希望が生じさせている商業料理だがこのこと自体が人間は料理に対する希望を失っていないということも示している。この僅かな希望をどう叶えて幸福を体験させるか、クオリティ・オブ・ライフ、QOLという略称が一般化して久しいが幸福な人生を求める心がある限りは人間は自らの人生において美味い飯を食べたい、それ自体が一種の生活活動の動機として機能しており、この動機を支えることが経口摂取によって体験する極小の効果としての幸福を生じさせる起点といえる。

違う道

 上記の動機がある限り、一人の人間を一つの料理で、しかも数日にわたって満足させ続けることはできない。人間は飽きる生き物だ。今日と明日は違うものを食べたい、昼飯は麺だったから夜は米がいい、限られた時間の中で食事に差異を求めることはごく普通の欲求である。仮に味も見た目も食感も良いエリクサーができたとしても筆者はそれを食べ続けることはないだろう。必ずどこかで飽きる。飽きれば美味い料理でも手をつけなくなるし、不味く感じてしまうこともあり得る。
 一つで全てを解決しよう、少なくとも料理においてはそれ自体が不可能だ。
 だが一つでなければどうだろうか。複数の料理でそれぞれの効果を期待することは可能だ。消化が今ひとつというときに大根おろしを添えるように具体的かつ小さな問題であれば食事による解決アプローチを人々は日常的に行なっている。
 現在、研究過程にあるガスパチョであってもこれ一つで全てを解決することはできないがリアクションや報告を読む限りは個々人の細かい問題や望外の効果を生じさせている。これも一つの希望といえるだろう。この希望があるからこそ、冬に生じるであろう別の問題をガスパチョやその改変料理などで解決できるのではないかと試行錯誤する動機になっている。

 エリクサーは作れないがバフ系アイテムは作れる。そのくらいのモチベーションで今日もミキサーを回していく。

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