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文化資本の豊かさとは、その理路と展望

 人には様々な文化資本がある。それらは身体化されており、制度化されており、客体化されている。では、なぜそもそも人は文化を獲得するのだろうか。その疑問に応じるべく筆者はこのnoteを書いている。

 まず文化の定義を見てみよう。手元の国語辞典では文化はこう定義されている。

文化 ぶんか ―くわ 1【文化】
① 〔culture〕社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。言語・習俗・道徳・宗教,種々の制度などはその具体例。文化相対主義においては,それぞれの人間集団は個別の文化をもち,個別文化はそれぞれ独自の価値をもっており,その間に高低・優劣の差はないとされる。カルチャー。

 つまり文化とは人間たちの行動様式や生活様式の総体である。人々の行為全てが文化の中に包摂されている。人間が行う行為は何かしらの文化に属する、というわけだ。ではこうした文化がなぜ【文化資本】という資本化が行われたのか。それは人が文化的行為を”投資”しているからである。例えば調理という文化的行為によって人は料理という利得を得る。また散歩というただ歩くだけの文化的行為は健康という利得を発生させている。このように人は行為を行う(=投資する)ことによって成果を利得として獲得しているわけだ。つまり人間の行為とは全て文化資本であり、この文化資本を投資する(=行う)ことによって様々な利得を得ているのが人の営みである。

 こうした文化資本と投資の裏にはハビトゥスが存在している。ハビトゥスは人が何を”選ぶか”といった選好と何を”選ばないか”といった嫌悪の原因要素として働いているわけだが逆に見ればこのハビトゥスが無ければ人は何も選ばないし何も嫌悪しない。いわゆる無の存在になってしまう。しかし人は無ではない、常に何かを選び何かを嫌悪している存在だ。この選ぶ行為を続けるとそれは慣習となり無意識行為を引き出す。なぜそれを選んだかわからないが自分はそれが好きだといった現象はこうしたハビトゥス的慣習選択から起こる。そしてここで重要なのは人は多くのハビトゥスを持っている点だ。人には絵の選好と嫌悪があり、音楽の選好と嫌悪があり、映像の選好と嫌悪がある。他にも様々な選好と嫌悪が人を形作っている。各分野の選好と嫌悪をハビトゥス的に考えるとそれぞれの分野にそれぞれのハビトゥスが機能していると考えられる。個々のハビトゥスが個々に機能して人は多様なものを認識して選好と嫌悪を行なっているわけだ。

 ではここから理論の飛躍を行なってみよう。こうした選好と嫌悪を行うハビトゥスを土に例えて、そこに選ばれて成長する文化を植物に例えてみる。ハビトゥスの上に文化が育つわけだ。この論理の飛躍、仮説が真ならば自分の文化を増やしたければハビトゥスを増やせばいいということになる。ちょうど新しく鉢植えを増やすかのようにハビトゥスの土壌を増やせばそこに育つ文化の数自体も増えていく。文化の数が増えると人はどうなるか。まず文化が増えるということでそのまま”できること”行為が増えると考えられる。次に自分の文化が増えることと行為が増えることによってちょうど絵描きが絵を見るかのようにその絵がどのように描かれているか、何によって描かれているかなどの対象物に対する詳細な情報を獲得できるようになる。つまり文化が増えると人はできることが増えて獲得できる情報量も増えるわけだ。

 これこそが文化資本家である。できる行為も増え、受け取れる情報量も増えた存在は文化資本家と呼ぶにふさわしいと筆者は考えている。行為と情報量の増加はそのまま”どこに自分の行為を投資すれば良いか?”という問題を改善することができる。得られた情報で自分の行為を向上させるも良し、その場において自分が行為すればどのような利得を得られるかを考えるも良し、様々な人生における利益が想定される。この文化による卓越は人生の向上にも繋がるわけだ。

 以上がハビトゥス愛好会における筆者の基本的な立場と展望である。人生において文化を増やすとは以上のことにより自明であり、自身を卓越化させるには欠かせない。人生とは拡張できる存在である。

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