見出し画像

はるのうえん Farm as a Biome on social landscape

風土を育てる

千葉県印西市の森に囲まれた畑。私はここで農業・木こり・大工・猟師手伝いを営み百姓的な暮らしを営んでいる。はる農園という名前をつけたのは私がだ、今とても違和感を感じている。

8年目にして、やっとここが私の持ち物でなくなった感覚がある、個人的な”土”や”風土”の実践研究の場としてはとてもいい結果だと思う。

「はる農園」と言われれば、当然生産現場としての農園や私の周りの人の集いの場という意味を持つ。今、農園にあるものは私の作った野菜だけではない。私の作ったものではない何かが、我が物顔で畑にある。
養蜂家のはちみつ、DIYおじさんが作った椅子、机、サラリーマンが作った納屋、ブランコ、主婦が撒いた藍、作った漬物。。

農園にいる人も私ではない誰かが、我が物顔で畑にいる。養蜂家が蜜をとり、ピザを焼きに来たピザ職人とそれぞれできたものを交換していたり、腰痛もちの猟師が主婦にじゃがいもの育て方を教えていたり。子供を遊ばせて、野菜をとって帰る家族もいる。誰がいつきて何をするか、私は全く把握していないが、自律的にそれぞれが動きつながり合い、新しい動きを生み出していく。

小さな農園で試みている風土の実践から見えてきたことをこの記事にまとめてみた。

くくらない 余白・隙のある場所

誰のものでもない農園とはいえ、全く手放しで放置しているわけでもない。社会的ランドスケープに合わせた人を含む生物群系Biome(有機的複合体)をどう産み出したらいいのか。失敗を繰り返してきた。

農園の生産という目的を掲げると関係者と部外者というボーダーが産まれ。SNSに任せて集客すると生産者と消費者というボーダーが生まれ。子供のイベントをすると家庭を持つものと持たないもののボーダーが生まれてしまった。農園を運営してみて痛感したことは、ボーダーのない、社会的なランドスケープをもつ有機的なつながり合い・重なり合いの創出は”くくる”ということから逃れきった先にあるということだった。

目的や意味づけのない自由で余白のある、宿りやすい場をつくることが唯一”くくる”ことから逃れ、社会的なBiome(人間を含む生物群系)の発達を育むことができる。それは何も新しいことではなく”祭り”や”里山や神社の管理”がそのような機能を果たしていたと思う。ただ、それが存在・機能しなくなった今、それに代わるものが必要だった。

間をおく共生 頼り合う自立 同化する異質

コミニティーや共生は”共に集まる”、”一緒にいる”というイメージが強いが、特定の年齢・思想でくくった人たちの集まりになりやすい。それでは効率的で生産性の高い単作の畑のようなシステムになってしまい、生態系の持つレジリエンスや全体としてのポテンシャルが薄まってしまう。

農園には女性が料理を楽しめるコンテナキッチン、街のヒトでも快適に使えるトイレ、みんなで作れる森、キャンプ・焚火サイト、ブランコなどなど、、本来生産目的のために必要な畑ではない異質が共存する場をつくってきた。来園者の中でそれぞれがお気に入りの場所を見つけて使いにくるようになれば、来園目的は自然とそれそれがもつようになる。
農園に来る人にはそれぞれすでに一芸を持つ人がいて、そういう人にはその一芸を活かせる場をできるだけ用意しておくと自然と活動の場になる。養蜂家のための蜜源(蜜を出す花を植える場所)やパン屋・ピザ職人の使えるオーブン。私がやることは有機農業同様、生き物が宿りやすい場をつくるだけで十分。
今、その一芸を持った人たちは自立的にイベントを開いたり、人を呼んでくるが、同時に農園の野菜を使ってもらったり、企画をコラボしたりと、それぞれ自立しながら依存しあうという共存共栄の場ができつつある。これは違う目的を持ったものが同じ空間にいるという条件だからできることで、この関係性は実はとても脆い。場が離れるだけで”お店で買ってこよう””あの業者に頼もう”が正解になってしまうからだ。

Biome on a social landscape

はる農園は農園からスタートしたものの、すでに私の所有物ではなくなって一つの生きた生態群もしくは”いきもの”になった感がある。
Biome(生物群)とは正式にはある気候・地理条件の地域で,それぞれの条件下での安定した極相の状態になっている動植物の群集)をいう。熱帯雨林,サバナ,ツンドラなど,それぞれの生物帯ごとに,異なるバイオームがあることになる。
生物群に人の心をいれたら、、そんな発想からはるのうえんをbiomeとしてみるようになった。孤独を感じる人、自己実現をしたい人、暇な人、遊びたい人、、人々の思いの位相=”ランドスケープ”の上に成り立つコミニティー像はSocial Biomeとも言える。生物群同様、何一つ計画性をもたず、ただ複雑性と偶発性を含んで自律的に発達していく。
その土地にある食物に寄生する人が畑を作り、その畑の花に寄生する蜂を養蜂家が育て、その野菜とはちみつを使いたい人がまた森に料理を作りにやってくる。蜂は野菜の受粉を助け、森にやってきた人が作った料理を農家や養蜂家が食べる。たまに見知らぬ人が来て焚火をしていくこともある。名前は知らずともその人が焚火している姿と出会うとその人と親密につながれた感覚になる。そんな親密なつながりから、たわいもない風のようなつながりまで、どれもがこのはるのうえんというbiomeに起こる奇跡のような営みで、ただただ、ありがたいと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?