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おもむきといのりへ 10年目の農園の思い

寒さを感じるとは、寒さのうちに出ている己を見い出すこと

今年も10月に入って夜温がぐっと下がり、木造の古い私の家にはいんば沼の重い湿度をまとった寒気がずっしりと居座っている。
そんな頃になると風土論の和辻哲郎が解いたこの言葉を思い出す。
”寒さを感じるとは、寒さのうちに出ている己を見い出すこと”

こんなに寒いので、私は己を見出し過ぎたのだろうか、、相も変わらず、風邪もひかず、私はいる。

もし私が霜が降りる11月に入っても寒さを感じず、春になってもその春の温かさを感じられなければ、己を見出すことはままならなかったかもしれない、、。少なくとも簡単に風邪は引いていただろう。

自己というのは頭で認識されるデカルト的なものではなく、もともと自然の前にまざまざと露わになっているもので、それは主に弱さとして、たまに豊かなものとして、ただ確かに感じられるものだと、私は思っている。

風土とは 風(おもむき)と土(いのり)

風という漢字は、日本書紀では「おもむけ」と読み、大和文化の伝来を表した漢字。一方、土という漢字は植物が生える様、または「土神を土の上に挿した様子」を表した象形文字から来たそうだ。

風と土はもともとどちらも自然物でも、そこに人が向き合って祈り、遊んで趣を与えることで風土ができる、、。そう捉えると面白い。
文化は人の営みであるが風土は人と自然が混然一体、非可分な存在としてあることがよく表れている。
風土とは主体的な人間存在の構造契機であると和辻は定義したが、最初は非常にわかりずらい表現だと思った。自然と共にある暮らしの中でやっとわかるようになってきた。

祈る人、趣をつむぐ人

「猪とれねーな。。次の群れこねーかな」と嘆きながら軽トラから降りてコーヒーを飲みにくる猟師
「次はインド藍で染めてみようと思って、、」藍の畑で目を輝かせる主婦
「夏の蜜はカラス山椒の香りがするから、春の時とは違って、、」蜂蜜と蜂の話が好きな養蜂家
「今日満月だから夜に農園きますね」と月見をしに来る家族

さまざまな理由で農園にくる人達。
どの人も祈っていて、暮らしに趣を与えている。
自然との間に漂うことを愛好する人間が重なり合うことで
形成されたある種の風景を観るとき、私は静かで深い歓びを感じる。

自分の質に気づくとき、自己が形成され、受容される

苗をひとつひとつ植えて日が暮れる。強風に煽られてよたよたと森を行く。たい肥を撒いて大汗をかく。ヤギを引っ張って、五分五分のいい勝負。
自然の前に私と言う人間ができることは、そのくらいのものだ。

農業をはじめた当初、体力がいかに有限で、自分がいかに非力で、カラダが不便かをただただ思い知るだけの日々が続いた。

そんな無意味な苦戦の中で、ひざや腰に負担をかけずに楽に力を入れる体の使い方を知り、身体がつかれている時にイライラを人にぶつけてしまう弱い心を知り、小まめに休むようになり、寒いときは寒いときに美味しい大根をみそ汁にして食べると温まることを知った、、、非力で弱い自己に抗わず、その場から恵まれたもので自分に手当てする習慣ができた。
それまでぼんやりしていた”自分のカタチ(こういうもの)”が自分の中で明確になって現れてきた。それは自分の身体が万能でなくとも、相変わらず未熟で「そのくらいのもの」であっても、満ち足りて暮らすには十分だと感じられるものだった。
畑で得たもっともありがたいものは、作った生産物だけでなく、図らずもまざまざと明らかにされた自らのカタチに気づき、周りの環境(人・自然)と一体ととなって形成された愛すべき今の私と言う人間像だった。

自然と表われて、見出されていく  ~形成(カタチに成る)と愛着~

私のカラダは私の意思とは関係なく、勝手に細胞分裂が起き、その後の細胞分化によって”形成”されていく(カタチに成る)。新陳代謝や排せつも同じだ。
私のカラダにゆだねることで、私の生物としての営みのほぼすべて、私が意図的に営むことができないが、それでもちゃんと”形成”されている。
生態系の中で山野に豊かな土が”形成”される。
自然に身を置き、寒さや暑さの中に己を見出し、祈ったり、遊んで趣に浸れば、質的感覚を育み、自己・暮らし・文化を”形成”していく。生体や生態、そして人の営みを含む風土的な創造はこの形成というプロセスで進んでいくように思う。
私は農家として野菜を生産しているが、形成と生産は大きく異なったものと考えている。

意図的に作られ、切り離されていく  ~生産と消費~

私は野菜をつくっている。有機野菜ということが私の生産者としての営みの中ではあまり大した意味がなくとも、市場に出すと、私と切り離され、社会的にはそれが有機生産物として差別化され、価値が決められ、消費されていく(費用を出して消されていく)。有機農産物を一般化・記号化して大量につくることできれば、さらに有機農産物の消費量があがる。
つまり数を産むための差別化(違い)であって、実はその違いはそのものの質を保証するものではない。つまり有機生産物というシールがはってあれば、いい野菜ということではないということだ。香りもしない、歯ごたえもない有機野菜が巷には多くある。私の野菜も虫食いがひどかったり、保存に失敗して食えないときもある。慣行農法(一般的な生産方法)の野菜でも農薬をうまく使いながら美味しさや安全性がちゃんと高く維持できるように作られた野菜もある。ただその質を感じられる人はどんどん少なくなっていると思う。
生産と消費の構造の中では、作り手の文脈や地域的な価値から切り離され、むしろ社会の共同幻想によって保持されている正しさや価値のみが伝達される。
だからこそ消費者は気軽になんの罪悪感もなくその食べ物を食べることができるわけではあるが。。
もし「そのお肉は隣のおじさんが3年手塩にかけて育てた大事な牛で、名前はもーちゃんと呼ばれ、おじさんは今も手放したことを後悔して大泣きしている」と知ったら、ほとんどの人がおそらく同じようにその肉を食べられなくなる。

大量生産の技術は貧困地域や戦後の日本のような食えない状況では重要な機能をもつが、市場に食べ物があふれ飽和して大量に廃棄されている今、歪んだ共同幻想をさらに助長しているだけの要因になり果ててはいないだろうか。数量的な生産と消費の手を少し緩め、質的な形成と愛着の循環を創っていくことにもう少し手を煩わせていくことがこれからの暮らしの豊かさにつながるのではないだろうか。

身体性への回帰~質的形成から愛着へ~

私達には質量を持った肉体がある。ゲームの世界に傷みや死がない一方で、壁にぶつかればたんこぶが、包丁で指を切れば血が流れる。それは哀れで煩わしくも感じられるかもしれないが、世の中の質と呼ばれているものは身体がなければ感じることができないし、その人間の身体の感度・サイズ感にあった質しか良し悪し、好き嫌いを判断できないのも事実だ。
重さで言えば、私達は0.01gと0.02gの違いを感じることはできない。それは私たちのサイズが40~80㎏だから。
温度で言えば500℃と600℃の温度の違いを感じることはできない。それは私たちの体温が36℃くらいだからだ。
質は有限な生身の身体が感じるものであって、そのものの違いより受け取る側の感覚の違いによって感じられないものにも、感じられるものにもなるような事柄だ。絶対的な数の概念に比べ掴みどころがない。
身体感覚の違いはさらに言えば心理的感覚の違いとも言える。
誰かには不要な写真でも、思い出だからと大切にする人がいたり、昔はかっこいいと思っていたものが、ある日そう感じられなくなったりするのは、同じものであっても心理的感覚によって質的に違うように感じられるからである。
心理的感覚の変化や違いはその人が環境を主体的にとらえ、手を煩わすことで環境の表情が変わり(好・嫌)、そしてその変化がその人の感覚に違ったように映るからである。数量的なもの(客観性・一般化)や無関心からは質は生まれない。
自分の身体をフルで使う森仕事や畑仕事をしていると毎回このような感覚に陥る。身体・五感すべてを通した森との対話、畑との対話とも言えるようなプロセスで、私の森や畑に対する質的な世界観が形成され、それは私の中に癒着している。
そこには社会の価値基準・共同幻想に基づく有機野菜生産の高付加価値化というような世界感では描けない、どこか私に似て、ちょっと変わった野菜や森が現れるので不思議と愛着がわくし、気に入らないところがあればまた手を入れる。この形成のプロセスの中で私自身が現れていく。

はる農園の行方

今から10年前、私は街から10分ほどの陸の孤島とも思える森の中で畑をはじめた。何日たっても1台も車が通らない、人とも1回も出くわさない、、一日ただ畑の上で農作業をする。
「ただ風の音を聞きながら、このまま土に埋もれていきそうだな」
と思っていた。まさに農園は純粋な意味での風と土の中にあった。

あれからあっという間だけれど農園はオモムキとイノリがちらほらと現れてきたように感じる、10年前に思いついた農園のコンセプト「風土を育てる農園」に少しずつ近づいている。

コーヒーを飲みに来る猟師
ネコとヤギのお世話がかりにくる会社員
家事と仕事の合間を縫って藍の世話をしにやってくる主婦
週末には子連れの親子が、遊んでいる

はじめてきた人にはこう聞かれる、、
「ここはなんなんですか?」
「はる農園はどんなビジョンとか目標があるんですか?」
正直私もちゃんとお答えできない。
ただ、この場所の風と土の中で明日は確かに形成されていくのだろうと感じている。

風と土へ
オモムキとイノリへ

10年目を迎えた農園より

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