019

FILE 光とともに

「行ってきます」
「うん。気をつけて」
 バスに乗り込むわたしを、芳明が手を振って見送ってくれる。それも今日で終わりだ。わたしたちは、いよいよ龍宮の海にたどり着く。
 疲労感はあまりなかった。一度は歩いた道のりだ。それも絶望の中、なにも食べずに歩き通した道だ。今回のわたしには、大きな大きな味方がいて、きっちりと食事をとり、十分な休息もとれる。そして、そのこと以上にわたしを支えているのは信頼感だった。わたしが自然を愛するように、また自然もわたしを愛してくれている。一歩一歩、大きな恩恵を受けとりながら道を進んでいる。苦しいことなんてなにもなかった。
 バスを降りると、まぶしい陽光が世界に降り注いでいた。こころの底に存在する引きずりつづける黒い感情。それらすべてをさらして、焼き尽くしてしまいそうなほどの美しさと光に溢れていた。
 太陽のまぶしさを全身で受け取ろうと、目をつぶり身体を太陽にゆだねた。強烈な光がまぶたを赤く照らし出し、やがて全身を赤く染めた。眉間のあたりがムズムズしはじめたかと思うと、胸の中から入道雲のような大きな黒いもやが浮かび上がってきた。やがて、わたしはその雲に包み込まれた。
 眉間に意識を集中すると、一瞬の空白ののちに別の場所に立っていた。眼下にはベッドがあり、誰かがセックスをしている。
 泣き叫び抵抗をつづけながらも貫かれているわたしと、わたしを殴り押さえつけながら腰を振っている博史だった。博史の背中を見た瞬間に、博史の感情が流れ込んできて涙があふれ出した。
 母親の庇護の傘から出ることができず、社会への不満を解消する術を知らず、現実での恋に落ちたこともない。不満と不安の塊がわたしの上に乗っかっていた。わたしの目に溢れてきたものは、これほどの苦しみと空しさと惨めさを抱きながらわたしを犯していたことに対する、哀しみと憐れみから流れてきた涙だった。
 どこへやることもできない想いを、わたしにぶつけていた博史。博史がわたしを暴行した理由のすべてがみえてしまった。
 わたしは自分自身のために泣いた。すさまじい痛みを身体中に感じて、痛みにうめきながら悲鳴に近い声をあげて泣き叫んだ。
 その場に座りこんでひざを抱えて。立ち上がって歩きながらタオルを握りしめて涙をぬぐって。
そして、また座り込んで、泣いた。わたしの痛みと博史の痛みを受け取って、それを宙へと返すために、わたしは泣きつづけた。
 わたしと、博史のために。

 大きく深呼吸しながら両手を空へ伸ばした。頬をつたう最後のひとしずくをぬぐい目を開けた。
 見渡す限りの海。おだやかにたおやかに呼吸をくり返し、地球の胎動をつづける海。目を醒ましたばかりの世界に吹き抜ける新しい風。広大な海と緑と青い空。ほんとうに世界は美しい。そう感じられる自分自身のこころの状態を、一番うれしく思った。
 厳しさを増してゆく陽射しを浴び、風を感じ、流れてゆく雲や、その隙間から顔を見せる深く青い空や、海岸を彩る草花を眺めつづけた。



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