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ねえ、想像して。
もしも世界を創造できるなら、どんな世界を創造する?
それが、人類に与えられたたったひとつのカギだとしたら。
あなたはどんな扉を開く?


第一章


件名:念のために
添付ファイル:惑星のかけら


 お願い。
 この添付ファイルを、絶対に見ないで。
 もしも、もしもわたしに何かがあったとき、そのときはこれをあなたに託します。
 大丈夫だったとき、ねえ、そのときは笑って捨てようね。
 お願いだから、バカだなって、笑ってね。
 一緒に、笑ってね。わたしも、そうなることを願ってる・・・


芳明の風景 名前のない少女


 出発の準備を終えてノートパソコンを閉じようとしたそのとき、メール受信を知らせる音が鳴り響いた。
『念のために』
 そんな件名のメールが届いていた。
「なんだ? スパムか?」
 奇妙なタイトルのメールは迷惑メールではなく、差出人は彼女だった。メッセージをクリックしてみると、短いメッセージとともにファイルが添付されていた。何のファイルかと気になりつつも、僕はそのままノートパソコンを閉じた。このメールの送り主を関西空港まで迎えに行かなければならないからだ。
「緊急ニュースです。本日・・・。」
 消し忘れていたテレビから、そんな声が聞こえてきた。僕はリモコンに手を伸ばす。
「どうせ、たいしたニュースなんかじゃない」
 世界はいつだって緊急ニュースであふれかえっている。テレビが消えると部屋は静まりかえった。僕にとって最大の緊急ニュースは、彼女の帰宅だ。

                *

「名前はないから、好きなのをつけてください」
 再会の瞬間、彼女の口からこぼれ出たのは、そんな言葉だった。その強烈な印象を、彼女の瞳の奥に見えた不思議な光を、たった一年でそれまでとは違う人間になってしまっていた彼女との『出会い』の衝撃を、僕は忘れることができない。
 同じ年の又従兄弟の僕らは、生まれたときからいつも一緒だった。幼稚園も小学校も中学も。僕が途中で辞めてしまうまでは、自転車に二人乗りをして高校に通うほど、僕らはいつも一緒だった。
 僕らが幼い頃からずっと、彼女の両親はいつもケンカばかりしていた。おじさんは物を投げつけたり、おばさんや時には彼女にまで暴力をふるっていた。おじさんの怒りが収まると、今度はおばさんがキーキーと声を上げて彼女を叱りつけた。
 彼女は、ちいさな肩をふるわせてぽろぽろと涙を流す。頬や腕に流れる血。それをハンカチで拭いてあげることしか、僕にはできなかった。痒いと言って大きなかさぶたを剥がそうとするちいさな手を、止めてあげることしかできなかった。
「ねえ、思いだして」
 僕の腕は小さすぎて、現実の世界で彼女を守ってあげることができなかった。
「太陽の光が絶対に届かないような洞窟の奥の奥。そこに龍の王様が閉じこめられているんだ。
 そして、王様はあるひとが連れ出してくれるのを待っているんだ」
 彼女はひざに埋めていた顔を上げて僕を見る。
「龍の王様なのに、なぜ閉じこめられてしまったの?」
 彼女を夢物語の世界に連れ出してあげることしか、僕にはできなかった。
「きっと王様はやさしすぎたんだ。だから、大きな岩で閉じこめられてしまった」
 彼女はぎゅっと目をつぶって、割れた皿の飛び散る台所ではなく、遠くて暗い洞窟を思い浮かべていた。深い回廊の奥、誰も足を踏み入れることができないような冷たい岩場を。
「それじゃ、王様は怒っているの?」
「ううん、怒ってなんかいない」
「じゃあ、悲しいの?」
「王様は、今も待ってるんだ。世界に光が差し込むその時を、やさしいこころで」
「そこには、なにがあるの?」
 龍宮城のことなら、誰よりも知っているはずの彼女は、物語のつづきを僕にせがむ。
「龍の女王様がいてね、みんなはとっても幸せに暮らしているんだよ」
 うすねずみ色の涙に濡れた彼女の瞳が、青いきらめきに変わってゆく。僕はありったけの想像力を働かせて、青い海を言葉で綴る。
「王様が閉じこめられているのに、みんな幸せに暮らしているの?
 どうして?」
「王様がいなくなっても龍宮城を幸せな城にするために、女王様がいつも笑ってるんだ」
「どうして?」
「みんなのためにだよ。ひとびとが幸せに暮らすこと。それが龍宮城がある理由だって、王様がいつも話していたんだ。
 女王様は、今も王様を探してる。誰にも涙を見せたりはしないけど」
「探すのを手伝ってあげることは出来るかなあ?」
「龍の女王様は海を泳ぐように、空を泳ぐんだよ。そしてね、何でもできる魔法を持っているんだ。
 ほんとうは僕らの世界だって海の中にあった。今でも海の底には街がある。人魚姫が暮らすような、よろこびと幸せに満ちたお城があるんだよ」
「龍のお城に、わたしも行けるかなあ?」
「うん。行けるよ。きっと、行ける。
 もう少し大きくなったら、僕がこの家からきみを連れ出してあげる。龍の女王様にふたりで会いに行こう。そして、王様を助けに行くんだ」
 海の彼方の龍宮城とそこに眠る龍の王様は、僕たちの空想の中で輝きながら息づいていて、その物語の中にいるときだけ、幼い僕らは笑っていられた。

         ☆

 僕たちが一六歳の頃、両親が離婚騒動で本格的にもめはじめると、家にいられなくなった彼女を僕の両親が引き取ることになった。そう、彼女は僕の家にやってきた。早々に高校をドロップアウトした僕は放浪の旅に出ていて、彼女は空いている僕の部屋で暮らしていた。
 僕はバイトで稼いだ金を全部旅につぎ込んで世界中を放浪していた。いちばんはじめの旅は、インディアンと呼ばれる人たちに会いたくてアメリカに渡った。彼らは昔からの仲間と再会したかのように、僕を受け入れてくれた。その広大な島でネイティブたちとともに暮らすうちに、自由になった僕のこころは、閉じこめていた想いを解きはなった。ちっぽけな僕の中に存在している大きな光を発見した。
 光はいつもそこにあった。けれど、僕は目をそらしていた。塩の吹き出る砂漠にひとりぽつんと立ち尽くした僕は、遠くに在る光のことばかりを考えている自分に気づいた。自動販売機もコンビニも信号も行き交う車も、どこにも人影の見えないそんなところで。
 広大な大陸に吹く風が連れてくるのは、いつだって彼女の香りだった。山々を赤く染めて沈む太陽を眺めても、深い緑の湖をのぞいても、どこまでも広がる草原の中にいても、僕はここにいない人のことを想いつづけていた。荒野に浮かぶまるい月や砂漠に昇る朝日を見ながら、自分のこころに素直になろうと誓った。
 なのに、僕が日本へ戻ると、彼女は家からいなくなっていた。誰にも居場所を教えることなく。なにが起こったのかを、家族はなにも知らされることなく、彼女だけが姿を消していた。

 空港への道は空いていて、彼女への思いにふけるにはちょうどいいテンポで車は進みつづける。僕は彼女からのメールの中身が気になって仕方がなかった。助手席に置いてあるノートパソコンをちらりちらりと眺めては車を走らせていた。
 自然の力にあふれたあの島から、やっと彼女が帰ってくる。
 思った以上に空港には早く着きそうだ。あとは関空へかかる大きな橋を越えるだけだった。
「あまりにも早く着きすぎたなあ。この先の公園で海でも見ながら少し休もうか」
 車を路肩に寄せて停車させた僕は、窓をひらいて風を入れた。潮風が髪をなでてゆく。
「あと少し、ほんの少しで彼女に会える」
 空と海を見ながら彼女を想った。彼女の笑顔が胸を満たしたとたん、彼女の送ってきたファイルが気になって気になって、いてもたってもいられなくなってしまった。
「このファイルには、なにが描かれているんだろう」
 僕は「見ないで」という言葉を無視して、添付ファイルを開いてしまった・・・。



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