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岡村隆史氏の「チコちゃんに叱られる」降板運動はフェミニズムなのか?

   私は女性ですがフェミニズムという単語が苦手に感じてしまいます。痴漢とかセクハラがない社会にはなってほしいなぁと思いますが今のフェミニズム運動を見ている疲れてしまうのです。特に岡村隆史氏に対しNHK「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪を求める署名活動は「本当にこれがフェミニズムと呼ばれていいのか?」と思ってしまいました。

フェミニズムの定義は

女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称である、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である。女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある。
(wikipediaより 2020/4/29)

この定義には苦手意識がないのですが、ニュースで見るフェミニズムは苦手に感じます。

この記事ではなぜ私がフェミニズム運動に違和感を感じるようになったのかを考えていきたいと思います。

岡村隆史氏に対し「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪を求める署名活動の違和感

岡村氏による「女性蔑視」発言が大きく取り上げられる中、この発言をめぐってネット上では、Voice Up Japanという団体が「女性軽視発言をした岡村隆史氏に対しNHK「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪を求める署名活動」(Chang.org)が行っています。

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(Chang.orgより引用、2020/5/3)

女性蔑視、性的搾取を促すような岡村さんの発言は、すべての女性の尊厳を踏みにじる、言葉の暴力です。Voice Up Japanの方々が指摘されている通り、これは「謝罪」のみで済む問題ではありません。この発言に対して岡村さんは真摯に向き合い、責任を取ることが必要だと考えます。

しかし、降板することは責任の取り方として正しいのでしょうか?日本社会に深く根付く女性蔑視の文化、性的搾取や貧困の問題に対する無知・無自覚などを根本的に改善するために、岡村さんを降板させるというやり方は本当に適切なのでしょうか?

私はそうは思いません、理由は三つあります。


1,岡村の出演している「チコちゃんに叱られる」以外の番組を子供が見ない確証はあるのでしょうか?また、子供や大人の線引きがなぜ必要なのでしょうか?

 この運動で求められているのは「チコちゃんに叱られる」の降板及び謝罪だけですが、「これは子供が見る番組だ、これは大人向け」とどのように線引きがされるのでしょうか?批判には根拠が絶対必要です。線引きができないため、この番組を降板させられては他の番組でも岡村さんを降板させる動きが出てくると思います。
 また、子供に一度間違いを犯してしまった岡村さんを見せなくていいというのは「子供には大人の事情は知らせなくていい。現実はまだ子供に早いから」と事実から子供を遠ざけているだけだと思います。問題を隠すことが本当に子供にとってのいい教育ではないと思います。


2,またこのキャンペーンはスペイン語や英語にも訳されていて、岡村さんやNHKのことを全く知らない人たちが正しくこの問題を理解しないままこのキャンペーンに賛同している可能性があります。

確かに、この間違いだけを切り取ればのただセクハラする人にしか見えませんが、岡村さんは私を何回も笑わせてくれたエンターテイナーです。しかし、それをあまり知らない人たちも賛同することは、ただ数で圧力をかけているにすぎません。
数で圧力をかけることで岡村さんはフェミニストになるのでしょうか?

3,岡村さんを降板させる事は「間違いを犯したものは排除する」社会の仕組みを作り上げてしまうと思うからです。

それはセクハラ発言よりも子供にとって害のある教育だと思います。完璧な人はいません。私たちは絶対に間違いを犯すのです。

「チコちゃん」のメインキャストであった岡村さんが突然番組から姿を消したら、子どもたちはどう思うでしょうか?大人たちがいくら隠したところで、これだけ報道されている以上、岡村さんの発言について子どもたちは必ず知るはずです(現代の子どもたちの情報収集能力を侮ってはいけません)。

突然の降板は、「この社会は間違いが許されない恐ろしい場所」「不適切な言動をする人間は社会から排除してよい」といった誤ったメッセージを子どもたちに与えかねないと危惧します。それよりも、岡村さんが自らの過ちと真摯に向き合い、心を入れ替え、再び社会の中で活躍していく過程を見せ続ける方が、はるかに良い影響を与えられるのではないでしょうか。

間違いを犯した人と共に成長しなくては、言動だけを監視しあう社会ができてしまいます。岡村さんに必要なのは、私たちの正義をぶつけることだけではなく、「みんな失敗することはあるよ」と岡村さんの成長を一緒に見届けることだと思います。

 行動を恐怖や圧力でコントロールしても、相手の思考を変えることは出来ないのです。本当の男女平等を求めるなら協力し合いお互いの違いを受け止めながら、相手の考えを批判することが重要だと思います。

 自分の間違いを認識するのは時間がかかります。そしてそれを表現するのにはさらに時間が変わります。わかりやすい降板や謝罪では性差別はなくなりません。

じゃあ性差別ってなに?

どこまでがセクハラでどこまでが大丈夫なのか? これは誰しもがフェミニズムと言う言葉を聞いた時に感じる疑問だと思います。

これを言ったら叩かれるからやめとこ」

「これしたらセクハラって言われちゃうよな」

ニュースで批判の対象となる言動をしないことが本当のフェミニズムなのでしょうか?


聖書のマタイ五章27節にはこのように書かれています。
『「姦淫するな」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。』


この言葉はちょっと大げさな気がします。しかし、行動までは法律に則って制限できますが、言動を取り締まるだけでは心まで更生できるとは思いません。


大昔に書かれた聖書が言っているように人間はずっと性差別や強姦の問題と共存していたのです。とても根深い心の問題です。

言動を制限するフェミニズム運動だけでは思考までは変えられません。しかし、本当に性別に関係なく自由な社会を作るためにはすべての人の思考が変わらなくてはいけないと思います。

フェミニズムが目指しているのは女性が優位になることではなく、性別に関係なく誰もが平等な社会を作ることです。


もちろん性犯罪やセクハラは許されない行為です。


私も男性から嫌がらせをされて男性を怖く感じた時期もありました。

しかし、男女平等な社会というのは個人の責任だけではなく、根本的な性教育の欠如や社会全体の問題として捉える必要があると思います。時間がかかる大きな問題なのです。


性犯罪加害者やセクハラする人も社会の一部です。彼らをに更生するチャンスを与えることも、もっと重視されるべきだと思います。
本当のフェミニズムとは、すべての個人が互いを人間として尊重し信頼しあえる社会を作ることだと思います。



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最後にサティシュクマールさんの言葉を添えたいと思います。

戦争の原因と恐怖の原因は同じです。

私があなたを他者として、切り離されたものとして見る、その時に恐怖は生じる。

もし私があなたをつながるものとして、兄弟、姉妹として見る時、恐れはありません。

もちろん、怒りや欲望も人間の本性の一部です。

恐怖の種子も私たちの中にある。

でも、だからといって、社会はその種子に水をやって育てなくてもいいのです。

社会は恐怖の代わりに、信頼をこそ励まし、育てるべきです。」

#フェミニズム #岡村隆史さんを支える #降板反対 #岡村さん一緒に学ぼう #共に生きる

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